いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
意識を揺り起こしたのは、耳元で鳴ったスマホのアラームだった。
目を開けると、涙の塩分がかぴかぴの線となって顔を横断していた。
目元をこすりながら時計を確認しようとして、はっとする。今鳴ったアラームは毎週金曜日、出かける10分前に鳴るように設定してあるものではなかったか。
寝起きとは思えないスピードで頭が覚醒し、慌ててマホで日付を確認すればやはり今日は金曜日だ。慌てて部屋を駆け出る。
まずい、寝癖がついている。服もなににするか決めていないのに。
「お母さん、起こしてよ……!」
「え~? だって起きてると思ったんだもの」
パートから帰り、キッチンでお鍋をかき混ぜているお母さんに文句をぶつける。
けれどこちらを振り返ることなく返されるのは、のんびりとした声だ。
「ひとりで散歩するだけなんだから、そんなに時間にきっちりしなくていいじゃない」
「それはそうだけど……ルーティンだから」
ぶつぶつ言いながら、ドレッサーの前で髪を梳かす。
まだ太陽が空にある15時50分。私はある場所に向かうために家を出る。
「じゃあ行ってきます」
「はーい。気をつけてね」
外の空気を吸うと、凝り固まっていた体の血行がリセットされる気がする。体内にすうっと3月のまだ冷たい空気が吹き抜ける。
お母さんにおつかいを頼まれたり、自分の用事で出かけるときはいつも心の準備をするために30分くらいかかってしまうけれど、毎週金曜だけは少し違う。
高校の授業が終わる時間より少し前に、私は河原に着いた。河原に向かう途中に駅があるため、下校の時間に被りたくないのだ。
河川敷の土手に腰を下ろし、クセにも近い動きで、ふと胸にかけたシーグラスのペンダントを握りしめた。
青と緑の混ざり合った、深海を閉じ込めたようなシーグラス。これは私が海辺で拾い、細いワイヤーで縛ってペンダントにしたものだ。そして波琉くんの9歳の誕生日に私が贈った。
波琉くんはこれをずっと身に着けてくれていたらしい。遺体に残っていたこのペンダントが形見になった。私が贈ったはずのシーグラスは、あまりにも残酷な形で私の手に戻ってきたのだ。
シーグラスを空に翳せば、太陽の光が差し込み空と海の色が交じり合う。
風が私の頬を撫で、それから長い髪を揺らした。潮の匂いが濃いのは、海が近いからだ。
海が見えるこの街で育った私には、すぐそばに海があることが日常だった。けれど私はあの日以来、海には近づいていない。
この川もやがて海に繋がる。ちっぽけな存在は大海という激流にのまれて、姿も輪郭もすべて失われる。その存在はなかったことになってしまうのだ。なんて虚しいのだろう。
あたりに人の姿がないうえに地平線も遠く、なんだかこの世にひとりぼっちのような気がしてくる。そう、この息苦しさは、孤独だ。
「――山下」
ぎゅうっと膝を引き寄せたとき、どこかから私を呼ぶ声が聞こえた気がして、けれどそれは気のせいではなかったらしい。
肩に手を置かれて振り返れば、そこには見慣れた制服姿の朔良先輩がいた。
「朔良先輩」
北原朔良。それが彼の名だ。
栗色の髪の下に光る、柔らかい線が縁取る瞳。甘いマスクに、成績優秀スポーツ万能、だれにでも分け隔てない愛想のよさで、非の打ちどころがない王子様として知られている。
彼の姿を認めて、自然と頬が緩むのを感じた。
「久しぶりだね」
「ああ、久しぶり……って1週間ぶりだけどな」
そう答えながら、朔良先輩が私の隣に腰を下ろす。
「最近学校はどう?」
「んー、変わらないな」
「そうなの?」
「ああ。退屈だし、代わり映えない毎日って感じかな」
早く学校に来いって言われると思ったのに、そうは言わなかった。言葉や声音の端々に、私に気負いをさせないような配慮が滲んでいる。
「ふふ」
「なに笑ってんの」
「いやあ、朔良先輩は朔良先輩だなって思って」
すると朔良先輩はふわりと唇で笑みを形作った。
「よかった。今日も山下の顔が見れて」
朔良先輩の優しさが、折り紙にじんわりと染みていく水滴のように琴線に触れた。
「ありがとう……」
朔良先輩は心配してくれている。だって私の哀しみを一番近くで見ていた人だから。
朔良先輩は、波琉くんの友達だった。
波琉くんを亡くしてから学校に行けなくなってしまった私だけど、朔良先輩が外に連れ出すきっかけを作ってくれている。たまにでいいから俺の暇つぶしに付き合ってくれないかと言って。
だからこうして金曜の放課後だけ、河原で同じ時間を過ごしている。
亡くした者同士、多分心の波長が合っているのだ。
けれどこのことはお母さんには言っていない。ひとりで散歩していると嘘をついて、朔良先輩と落ち合っている。
波琉くんが亡くなって、心配性なお母さんは、朔良先輩たちとはもう関わらないほうがいいと言いだした。朔良先輩たちと関われば永遠に過去の呪縛に苦しめられることになるから、と。お母さんはそうやって私のことを囲って守っているつもりらしい。
「雪那は元気にしてる?」
毎週のように訊いている質問をぶつければ、朔良先輩は今日もまた曖昧な返事をしてくる。
「ああ、あんまりテンションに浮き沈みもないけど、一応元気だと思う」
「またそれ。お兄ちゃんのくせに妹のこともよくわからないの?」
「だってあいつ、あんなだし」
朔良先輩の言い分に、私は思わず苦笑する。たしかに雪那の表情から元気のバロメーターを推し量るのは難しいかもしれない。
雪那は朔良先輩の妹であり、私の親友だ。いや、親友だったという方が正しいのかもしれない。
私と波琉くん、ふたりきりの世界に、突然波琉くんが朔良先輩を連れてきて、そこから朔良先輩を通じて私と雪那の交流も始まった。
雪那は見目麗しい才女で、県内トップクラスの女子校に通っている。
あまり表情筋が動かず感情が表に出ることもないため、朔良先輩に紹介されたときは冷たそうという第一印象を覚えたけれど、話してみれば不器用なだけで本当は愛情深い子だということがすぐわかった。もちろん仲良くなるのに時間はかからなかった。
朔良先輩を通じての出会いだったけど、それからはふたりきりで遊ぶことも頻繁にあった。
「そんなに気になるなら、雪那に直接連絡してみたら?」
「そうだけど……雪那は私の顔なんて見たくないはずだから」
言いながら、口から出た声が凍えていくのを感じていた。
雪那の顔を最後に見たのは、波琉くんの葬式の日のこと。あの日、雪那は私の頬をぶった。そのときの雪那の顔が今もまだ目の奥に焼きついている。悔しさとやるせなさとそれからなにかとても強い感情で、殴られたのは私の方だというのに、すごく痛そうな表情でそこに立っていた。
あんな顔をさせた私に、顔を合わせる資格はきっとない。
「そんなことない。だって雪那は……」
「ねえ、朔良先輩。それより見て!」
私はポケットからアルミホイルの塊を取り出した。
すると朔良先輩は、得体の知れないものを前にしたかのようにまじまじとアルミホイルの塊を眺める。
「なんだ、その物体。爆弾かなにかか?」
「失礼なっ。これはおにぎりだよ」
「なんで急におにぎり?」
「実は最近料理に目覚めちゃったんだよね」
家にいる間やることがなくて、お母さんに少しずつ料理を教わるようになった。まだまだぎこちなくはあるけれど、体調がいい日は料理の手伝いに励んでいる。
そうするうちに少しだけ自信がついて、朔良先輩にもなにか手料理を食べてもらおうと、昨夜お父さんとお母さんが寝入るのを見計らい、ごそごそと起き出してこのおにぎりを作ったのだ。
「話はわかったけど、おにぎりは料理って言わなくないか?」
「も、もう! そんなこと言わずに食べてみて」
「これ、俺が食べていいの?」
「そうだよ。朔良先輩に作ったんだから」
ずいっとおにぎりを差し出す。なんてったって私の自信作なのだ。
すると朔良先輩はなぜか嬉しそうに表情をほどき、「さんきゅ」とおにぎりを受け取った。そして私が緊張の眼差しを向ける中、おにぎりを頬張る。
何度か咀嚼し、やがて驚いたようにおにぎりの中身を見つめる。
「これ、もしかしてナポリタンか?」
「そう、ナポリタンおにぎり! どう?」
「……うまい」
「ほんと!?」
思わず嬉しさで声が上擦る。
「ああ、うまいよ。炭水化物で炭水化物を包むっていう独創性は山下ならではだな」
「ふふふ。おにぎりなら、朔良先輩も食べやすいかなと思って」
独創性だなんてなんだかたいそうなことを評価されたおかげで得意になって笑って見せると、朔良先輩はどこかくすぐったそうに小さく笑った。
「そっか」
「私の手作り食べたの、朔良先輩が第一号だからね。家族にもまだ手料理は振る舞ってないんだから」
「俺が毒見役ってこと?」
「うん、まあ、そうなるね。毒味って響きがなんか気に入らないけど」
不満げに唇を尖らせるけれど、それは実際照れ隠しでもあった。だれかに目の前で手料理を食べてもらうことが、こんなに気恥ずかしいことだとは思わなかった。なにより、朔良先輩がおいしそうに食べてくれているのが嬉しい。
すると朔良先輩はしばらく咀嚼したあとで、ごくりと飲み込み、それからふと声を落とした。
「あいつはナポリタンが好物だったよな。喫茶店の半熟卵が乗ってるやつ」
――"あいつ"。それがだれを指しているか、私たちの間で示し合わせる必要もなかった。
朔良先輩はその声に哀愁を滲ませはしなかった。他愛ない世間話を持ち出すように、あくまで自然に。
けれどその話題は、感情と思考を瞬時に硬化させるほどの容赦ない冷たさで私の胸に迫った。
喉が詰まった感覚。なにかに目の前を阻まれた閉塞感。
……本当はわかっていた。なんとなく、本当になんとなくナポリタンを作っていた、その理由に。
『ナポリタン以外のパスタなんて邪道だよ』
そう言いながらフォークに赤い麺を巻きつける波琉くんの姿は、いとも容易く脳裏に映し出される。
朔良先輩が空になったアルミホイルをぐしゃりと握りしめ、そして俯く私に向き合った気配があった。
「来月の月命日は海に行かないか?」
それはずっと頭のどこかに姿を持ち、あとはタイミングを見計るだけだったのだろう。朔良先輩の口から出たその言葉には、理路整然とした佇まいを感じた。
けれどその言葉に頷くことはできなかった。
「行かないよ、もう二度と」
私は顔を上げ、弱々しく笑った。
「だって、私の中の波琉くんが死んじゃう」
私は波琉くんに依存していた。だから波琉くんがいないと呼吸の仕方さえわからなくなりそうになる。
毎日が空虚だった。世界から音が消えた。とても長い空白で、息をする気力しかなかった。世界は目まぐるしく変わり、波琉くんがいた日々がどんどん遠ざかっていく。
海に行けば、それは波琉くんがもうこの世のどこにもいないという現実を嫌でも飲み込まざるを得なくなる気がした。必死に取り縋って均衡を保っている一縷の糸を手放すことになる。
波琉くんだけを独りにしたくない。みんなが波琉くんを忘れていく中で、私だけは前に進みたくない。それがたとえ暗闇の中を彷徨い続けるということだとしても。
「私はずっとあの日に立ち止まり続けるの。波琉くんをあの日に置いていけない」
吹きさらしの声が掠れる。
「山下……」
潮を含んだ風が冷たくて、それが痛くすらあり、私は空っぽの左腕をさすった。
壮大で神秘的で、多くの人を魅了する海。――けれど私は海が憎い。
波琉くんはあの日、冷たい冬の海で死んだ。病気を患い心臓が弱く、医者からも禁じられていたのに、海で泳いだせいで心臓に負荷がかかって心臓が壊れてしまったらしい。
奇しくも一週間後は波琉くんの誕生日で、18歳を迎えるはずだった。
あの日、なにが波琉くんを海に追い立てたのだろう。今となってはそれを知る術はない。スマホも財布も水没して、遺書もなにもなかった。この世に未練なんてなかったのだろう。
波琉くんはなにも遺さず、私に呪縛に近い恋心だけを植えつけてひとりで逝ってしまった。
君は死ぬときまで自分勝手だったね。
命を絶つとき、波琉くんは一瞬でも私を思い出しただろうか。

