【完】さよならの向こうで待つ君へ





「山下、大丈夫?」

 朔良先輩が気遣わしげにそっと私の肩に手を置く。

「うん、大丈夫」

 翌日、私は朔良先輩と海に向かっていた。私が誘ったのだ。

 波琉くんが死んでから私は一度も海を訪れていなかった。波琉くんの死を生々しく、そして容赦なく突きつけられるようで、これまでずっと遠ざけていたのだ。
 それをわかっているからこそ朔良先輩は心配してくれている。
 たしかに今でも現実を真正面から受け止めるのは怖いけれど、少しでも波琉くんを感じたかった。

 潮風の香りが濃くなっていく。
 ゆるやかな坂を下った先には、塩害で傷んだ外壁の家が並ぶ昔ながらの田舎町。やがて景色の先に鮮やかな青が見えてきた。

「海だ……」

 4月の海はまだ遊泳禁止で、観光地というわけでもないから、春の海に人影はない。
 さざ波の音だけがあたりに響く。

 朔良先輩が私の数歩後ろをついてくるのは、私の歩くペースを見守ってくれているからだろう。
 石段を下りて砂浜に出る。しゃくしゃくと足の裏が沈んでいく感覚が久々だ。

「海ってこんなに狭かったっけ」

 まだ冷たい潮風に髪を揺らされながら、そんな言葉がぽつりとこぼれた。
 あの日から、すべてを飲み込んでしまいそうな海が得体のしれないものに思えて漠然と怖かったけれど、今目の前に広がる海は私たちを受け入れてくれているように思えた。
 私たちは海が見えるこの街で育った。過去の記憶にはいつも海が寄り添っている。

「ねえ、朔良先輩。少しだけ座らない?」
「そうだな」

 砂浜に並んで座ると、ここに来るまでずっと強張っていた気持ちがようやく凪いでいく。

「寒くないか?」
「うん、平気。それよりごめんね、急に付き合わせちゃって」
「俺も海に来たいと思ってたんだ。それに山下にとって海に来るっていう決断がどれだけ大きな一歩かもわかってる。だから誘ってもらえて嬉しかった。ありがとな、山下」

 綺麗なアーモンド型の瞳は、笑うとなくなってしまう。そんな笑顔が、じわっと目に染みる。
 そういえば朔良先輩と海に来るのは初めてだったと、そんなことに今更気づく。
 波琉くんが死んでから、海に来れば私は本当にひとりぼっちになってしまうと思っていたけれど、私の隣にはいつだって朔良先輩がいてくれた。

「……山下は大丈夫か?」
「え?」
「いや、大丈夫じゃないよな」

 心配気に揺れる朔良先輩の眼差し。
 私は罪悪感に耐えられなくなって俯く。

「ごめんなさい……。波琉くんのことを救えなくてごめんなさい……」

 私と同じくらい、朔良先輩も波琉くんを取り戻したかったはずだ。けれど私が一度きりのチャンスでなにかを誤ってしまったばかりに、波琉くんを朔良先輩のもとに返すことができなかった。

 するとそのとき、膝の上できつく握りしめたこぶしに大きな手が重なり、まっすぐな声が鼓膜を揺らした。

「謝らないで。山下はなにも悪くない。俺に謝る必要なんてない」
「でも……」
「それにさ、たしかに過去は変わらなかったかもしれないけど、山下は自分の未来を変えたんだよ」
「え……?」
「海には二度と行かないって言ってた山下が、一ノ瀬を救うために奔走して、一ノ瀬を怪我から守って、こうして海に来ることができた。未来は自分次第で変えられるって山下が教えてくれたんだ。頑張ったな、山下」
「……っ」

 朔良先輩の言葉に胸がきゅうっと絞めつけられ、その圧迫感に押し出されるようにして熱い涙が滲む。
 朔良先輩はそう言ってくれるけれど、私ひとりではきっとなにも変えることができず、今でも小さな自室で縮こまっていただろう。隣にこの人がいてくれたから、そして根気強く寄り添い道を照らしてくれたから、私はまたこうして海に来ることができたのだ。

「朔良先輩……」

 光に手を伸ばすように顔を上げれば、朔良先輩がふにゃりと眉を下げて笑った。

「今は思いっきりふたりで悲しもう。そしていつか、今は考えられないほど遠い未来で、前を向ければいいよな」
「うん……っ」

 湿った気配をすぐそばに笑い合うと、不意に朔良先輩が私の肩越しになにかを見つけたようにわずかに目を細めた。

「あれ、あんなところに子どもがいる」

 つられてそちらに視線をやると、砂浜から海面に突き出した防波堤の先に小さな人影を見つける。

「本当だ……なんでこんなところに」

 まわりに保護者と見られる姿はない。砂浜から5メートルほど離れた柵もない防波堤に小さな子がひとりという状況は危険だ。

「行ってみるか」

 立ち上がる朔良先輩に「うん」と頷き返し、ふたりで防波堤と駆ける。
 防波堤の先端に佇んでいたのは、小学校低学年くらいと思しき女の子だった。三つ編みでダウンコートを着たその子はじっと水扁線の方を見つめている。

 女の子に近づくにつれて朔良先輩のスピードが緩まる。朔良先輩のことだから男の自分が話しかけては怖がらせるかもしれないと懸念したのだろう。
 朔良先輩の意を汲み、膝を折って女の子に声をかける。

「初めまして。なにしてるの?」

 私の声に、女の子がびくっと肩を揺らしてこわごわ振り返る。背後から声をかけたせいで驚かせてしまったらしい。

「ごめんね、急に声かけちゃって」

 不安げに私を見上げた女の子はくりくりした瞳が印象的で知的な雰囲気を受ける。

「どこかに保護者の方はいるかな? もしかしてはぐれちゃった?」

 すると女の子は弱々しく首を横に振った。

「ううん、ひとり。おやすみの日はいつもここに来てるの」
「そっかそっか。海、綺麗だもんね」
「ちがうよ。悪いことをしちゃったから、ここであやまってるの」
「え?」

 突然の告白に目を見開いたそのとき、ふと女の子が私の首元を指さした。

「そのネックレス……」

 それはシーグラスのペンダントだった。いつも服の下に潜ませていたそれを襟元から出していたのは、波琉くんの存在を感じることへの恐怖心が溶けてきているせいだろう。
 私はペンダントトップのシーグラスを持ち上げ、女の子に見せる。

「これ? 綺麗だよね。シーグラスっていうんだよ」

 すると女の子はか細い声で呟く。

「白い髪のおにいさんも持ってた」
「え、白い髪のおにいさん?」
「それって」

 背後でやりとりを見守っていた朔良先輩と声が被る。

「どうして一ノ瀬のことを知ってるんだ……? 教えてくれ……っ」

 朔良先輩に迫られ、女の子が怯えたように肩を竦める。私は女の子の前にしゃがみ、そして目線の高さを合わせた。

「ごめんね、話を聞かせてくれないかな。そのお兄ちゃんのこと、少しでも知りたいの」

 私たちの焦燥感を知ったのだろう。女の子はくりくりの目を伏せ、やがて躊躇うような間ののちにおずおず口を開く。

「……わたし、ママには内緒でいつも海に来てたの。学校でいじめられてもママには言えなくて、だけどここに来ると少しだけ気持ちがすっきりするから」
「うん」
「でもね、ちょっと前にまちがって海に落ちておぼれちゃって、そのときにそのおにいさんが助けてくれたの」
「え……?」

 息をのむ。突然核心に触れたような、そんな衝撃で視界が揺れる。

「……それっていつのこと?」
「えっとね、11月……」
「そこおにいさんは……?」
「おぼれて気を失っちゃって、気づいたらここに寝てたの。目が覚めておにいさんはどこにもなくて、帰っちゃったのかなって思ってたんだけど……」

 女の子の瞳にじわっと涙が溜まる。その先は言わずともわかった。
 息が詰まる。指先が震える。

「こわくてあの日のことぜんぶママに言えてないの。だからここでいつもおにいさんにごめんなさいって言ってるの。助けてくれたのにごめんなさいって……」

 そのときふと、女の子が私の異変に気づいた。

「おねえさん……?」

 口をへの字にして必死に涙をこらえる私を見て、女の子の顔が不安げに揺れる。
 私は大きく鼻を啜り笑顔を作って、そして女の子の肩をそっと掴んだ。

「お兄ちゃんはね、ヒーローだったんだよ」

 優しい風が頬を撫でていき、髪がそよぐ。

「ヒーロー……」
「うん。世界にたったひとりの無敵でかっこいいヒーローだよ」

 すると女の子が小さく首を傾げた。

「おねえさん、おにいさんの仲良しさん?」
「うん。私のすごくすごく、大切な人だよ」

 じんわり笑って答えると、女の子がくしゃりと顔を崩し今にも泣きだしそうになる。

「ごめんなさい……。わたしのせいでおにいさんが……」
「ううん、あなたは悪くないよ。だれも悪くない」

 必死で首を振り、女の子の細い腕をさすりながら彼女の言葉を否定する。絶対にこの子を責めてはいけないと思った。
 ああ、だめだ。涙がこぼれてしまいそう。……でもこの子の前で泣いちゃだめだ。
 するとか細い声が降ってきた。

「……わたし、あの日のことママに話す」
「え?」

 伏せていた目を上げると、女の子が揺らぎながらも決心をした瞳で私を見つめていた。

「こわいけどがんばって勇気出す。おにいさんにも大切な人がいるんだもんね」
「ありがとう……」

 そして女の子は私と約束してくれた。お母さんに波琉くんのことを話すこと、そしてあの日のことで自分を責めないことを。

 やがて女の子が去っていき、それでもまだ防波堤に膝をついたままでいる私の背に、そっと手が添えられる。

「山下……」

 朔良先輩の声。
 のろのろと立ち上がって振り返り、そして痛みをこらえながら微笑む朔良先輩の顔を見た瞬間、ぎりぎりまで張り詰めいていた感情がついにはち切れた。
 わっと泣き出し、朔良先輩の胸に飛び込む。

「朔良先輩……っ」
「……ああ」

 朔良先輩の腕が私を受け止め、そして潮風に晒されていた体を抱きしめる。

「波琉くん、自殺じゃなかったよ……」
「ああ、ああ……」
「こんなのずるいよ……っ」
「ああ……」

 いつの間にか朔良先輩の声が震えていた。私の肩がじわじわと熱く濡れていく。
 崩れ落ちそうな私を抱きしめる朔良先輩もまた、懸命に私に縋りついているようだった。

「ふっ、うう……ぅう……」

 嗚咽を漏らし、私はたったひとりの幼なじみを思った。

 ――波琉くん。波琉くん。波琉くん。
 私は君のことを信じてあげられなかった。

 あの日の海はどれだけ冷たかっただろう。冬の海にひとりにしてしまってごめんね。
 ようやく波琉くんの心を見つけてあげられた気がした。

 さざ波の音が私たちを包み込む。絶え間ない波の音はとても優しく穏やかに鼓膜を揺らし続けた。