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「ん……」
不意に目が覚めた。
ぼんやりした頭でぼうっと目の前の景色を見つめ、やがてそれが天井であること、そして自分がベッドに寝かされていることに気づいた。
「……っ」
慌てて起き上がろうとして、ずきんっとこめかみあたりに走る痛みに顔を歪める。そこに触れれば、ガーゼが貼られていた。
ここは保健室だ。飛び込んだせいで頭を打って気を失い、保健室に運ばれたらしい。
はっとして視線を周囲に走らせれば、少し離れた丸椅子に座るはるちゃんを見つけた。
「はるちゃん……!」
見たところ大きな怪我はしていない。はるちゃんは無事な姿でそこにいる。
事故を防ぐことができたんだ……! その安堵感に脱力しかけたそのとき、ふらりとはるちゃんが立ち上がった。そしてぼそりと呟く。
「……なんで助けた?」
「え?」
はるちゃんがベッドに近づいてくる。その声と空気は、暗くて重いものを孕んでいた。
……怒っている。はるちゃんは怒っているのだ。私が余計なことをしたから……?
「馬鹿じゃねえの、ほんとに」
「ごめん、私……」
俯き、きゅうっと下唇を噛みしめたとき、ぽつりと声が降ってきた。
「俺なんかのために無茶してんじゃねえよ」
顔を上げると、こめかみのガーゼのあたりをそっと親指の腹で撫でられる。まるで壊れ物に触れるようにそっと。
ねえ、どうしてはるちゃんのほうが怪我を負ったみたいに痛そうな顔をしているの?
音もなく零れ落ちていくはるちゃんの感情を受け止めるように、私は影の差す双眸を真っ直ぐに見上げた。
「なんかじゃないよ。はるちゃんだからだよ。はるちゃんだって私のことを助けてくれるヒーローでしょ?」
「え?」
「中学でいじめられたとき、私には黙って主犯格の子を説得してくれた。それに育ててたミニトマトが折れたときだって、私の手を握って一緒に帰ってくれた。いつだって私のヒーローなんだよ、はるちゃんは」
意地悪でわかりづらくて、けれどいつだって私を見捨てないたったひとりのヒーロー。
するとはるちゃんは痛々しい自嘲気味な笑みを浮かべ、吐き出すように呟く。
「見る目ないよね、お前」
そしてふいっとはるちゃんが顔を逸らす。そのとき私は、その右手のひらに掠り傷が走っていることに気づいた。
「はるちゃん、その手……」
「ああ、ちょっと床に掠っただけ」
はるちゃんはなんでもないように言うけれど、白い手に赤い傷が痛々しい。
「手当しなきゃ」
「これくらい大したことないよ」
「だめ。……そういえば保健室の先生は?」
「出張だって言って、お前の傷の手当して出て行った」
先生に手当をお願いしたかったのに、こんなときに限って不在とは。タイミングの悪さに歯がゆさを覚えるけれど、そんなことを言ってもいられない。
「じゃあ私がやる」
「いいって」
「だめ、大事な手なんだから」
再びぴしゃりと言う。
私がこんなに譲らないこともなかなかない。そんな私を見かね、はるちゃんが仕方なくというように長椅子に座る。私はベッドから起き出すと、保健室の中央に据え置かれたテーブルの上の救急箱の中から大きめの絆創膏を取り出した。
「右手、貸して」
隣に腰を下ろして促すと、はるちゃんが黙って右手を差し出してくる。フィルムを剝がし、その手の患部に慎重に絆創膏を貼る。
「……綺麗な手」
小さな白い空間には私とはるちゃんだけ。手をさすりながら私がぽつりとこぼした声も、この保健室では反響して聞こえた。
長い指。この指が鍵盤の上を踊り、情緒あふれる豊かな音が生まれるのだ。
「はるちゃんがピアノに出会ったのは、多くの人を感動させるためなんだね」
はるちゃんの演奏のあと、偏見の目で見ていた人をもスタンディングオベーションさせてしまう、あの景色を思い出す。
はるちゃんが奏でる音は、いったいどれだけの人の心を打ってきたのだろう。
すると不意に視線を感じて顔を上げれば、そこには色素の薄いガラス玉のような双眸があった。
「違うよ。ピアノを弾き始めたのはお前が理由だよ」
「え?」
「泣き虫のお前が、俺がピアノを弾くと泣き止むから」
「そう、だったの……?」
そう言われればそうだ。幼稚園で家に帰りたくて泣いたとき、友達に泣かされたとき、はるちゃんは慰めたりはせずともピアノを弾いて聞かせてくれた。その優しさはあまりにそっと当たり前のようにすぐそばにあって、今まで見逃していた。
「俺は俺のためにしか弾かない。他人からの賞賛なんて興味ない。俺はお前の泣き顔を見たくなかった、それだけ」
「はるちゃん……」
あまりになんてことないように言うから。だから虚をつかれて鼻の奥がじんとする。
「そんなの、私のためが、はるちゃんのためみたいじゃん……」
「まあ、そうなんじゃねえの。じゃなきゃわざわざあんなにコンクール出てない」
「……賞を獲ると私が喜ぶから……?」
湿った声でそう問えば、はるちゃんは答えの代わりに赤みを帯びているだろう私の鼻をつんとつつき不敵に微笑む。
目立つことも持て囃されることも嫌いなはるちゃんがコンクールで賞を獲り続けた理由が初めてわかった。
ピアノを愛していたその理由の中に私がいたなんて。
きゅうっと胸が絞めつけられてなにも言えないでいると、それを見計らったようにはるちゃんが畳みかけてきた。
「で、お前なにか隠してることあるだろ」
「え?」
「明らかにいつもと違うこと、まさか俺に隠せると思ってないよね? しかもなんで授業中のあのタイミングで体育館に来た?」
真剣な瞳に真正面から射抜かれ、どくんと心臓が重い音をたてて緊張を知らせる。
「あんなのまるで事故が起こるのがわかってたみたいだろ」
「それは……」
未来から来たことを話すつもりはなかった。だけど私はやっぱりこの瞳に嘘をつくことはできない。
覚悟を決めるように下唇をきゅうっと噛みしめると、顔を上げた。
「……はるちゃんは、私が未来から来たって言ったら信じてくれる?」
「なに言って……」
「信じられないよね、こんなありえない話……」
はるちゃんはお化けや占いなどの類は馬鹿らしいと言って端から聞く耳を持たないタイプだ。自分がはるちゃんの立場だったとしても、からかっているのではないかと疑うだろう。
それなのにはるちゃんの顔に浮かんだのは、嘲笑でもなく呆れでもなく、真っ直ぐに私の言葉を受け止める凪いだ表情だった。
「でもお前は昔から嘘が下手くそだから。お前がふざけてる訳じゃないことくらいわかるよ」
「はるちゃん……」
やっぱりはるちゃんにはどこまでいっても敵わない。そんなに先に行かないで。追いつけなくなってしまうから。
「未来では、はるちゃんがさっきの事故に巻き込まれて、指を怪我してピアノを弾けなくなっちゃうの。だから私はあの事故を防ぎたかった」
そして――あなたを死なせないために来たんだよ。
はるちゃんを助けるためだったはずなのに、私の方が救われてしまっている気がするけれど。
「それからね、過去に戻ったら、そのときのはるちゃんに伝えたいと思ってたんだ。ありがとうって」
「え?」
「出会ってくれたこと、いつも隣にいてくれること。本当にありがとう。それから小さい頃、"春"の漢字を間違えてたのに気づかないふりしててくれたこと。電話するといつも私が切るまで待っててくれること。半分こをするときはなにも言わずに大きい方をくれること。私が好きなキャラクターの絆創膏持ち歩いててくれること……へへ、全然言い切れないね」
照れ笑い。
こんなに伝えたいありがとうはたくさんあったのに、隣にいることが当たり前で日常の中に流れてしまっていた。でもきっと思いはそのときに伝えなければいけなかったのだ。
私は馬鹿だから、そんな大切なことをはるちゃんを喪って初めて気づいた。だから一秒でも早く一秒でも前のあなたに伝えたかった。
と、そのときだった。ジリリリリッ――空気を遮るようにけたたましい金属音が鳴ったのは。
胸ポケットから懐中時計を取り出せば、残り時間は残り僅か。
「タイムリミットだ……」
一瞬、体の芯が固まった気がした。この場から、17歳のはるちゃんから、離れ難くなった。
けれど――ふと耳の奥で蘇る。『俺はここで待ってる』そう言ってくれた朔良先輩の声が。
そうだ、朔良先輩が私のことを待っててくれている。朔良先輩の元に帰らなきゃ。
そのとき、「瑠果」そう私の名前を呼ぶ声が頭上から降ってきた。
手の中の懐中時計から視線を上げれば、そこには柔く笑むはるちゃんがいた。
「ありがとな、俺を助けに来てくれて」
ああ、なんて綺麗で愛おしい笑顔だろう。瞳の中で微笑がじんわり滲む。
その間にも、急かすように懐中時計の音が大きく速くなっていく。
私は涙をこらえるように笑って、はるちゃんの両手を握った。
「はるちゃん、また未来で会おう。私、待ってるから……っ」
声を張り上げたその瞬間、懐中時計の金属音がすべてを覆いつくし、突然世界がシャットアウトした。

