【完】さよならの向こうで待つ君へ





 突然意識のチャンネルがかちりと現実と噛み合った。
 目の前に、小さな鏡に映り込む自分がいる。はっとして周囲を見渡せば、そこは美術室だった。
 生徒の前に各々イーゼルとキャンバスが立てられていて、鏡はキャンバスの端にクリップのようなもので留められているものだった。みんな真剣にキャンバスと鏡を交互に見比べ、鉛筆を持つ手を動かしている。

「いいですか? 鏡を見て自分の顔のパーツの特徴を捉えましょう。よく見てみると、人間の顔は左右均等ではなかったりするんですよね」

 赤い縁の眼鏡をかけた小柄な美術の先生がイーゼルの間を歩きながら、全体に向かって語り掛ける。
 私の前にある大きなキャンバスにも、いつの間にか描きかけの自画像らしきものが鉛筆の線で記されている。

 あれ、私、なんでここに……。
 手放した意識の糸を手繰り寄せ、今の状況を把握しようとする。
 過去に戻ってきて、波琉くんに再会して、それで事故を防ごうとして――。
 はっとして、隣で鏡を覗き込んでいたリンカに慌てて問う。

「ねえリンカ、今っていつ!?」

 するとリンカは呆れたように、潜めた声で返してきた。

「またそれ? だから2024年10月4日だって。5時間目の美術の時間。これでいい?」
「まだ10月4日だ……」

 鏡に自分が映るのを見た瞬間、時間が飛んだのだ。そして時空を旅をしている今の私が経験していないはずの記憶が、隙間を埋めるかのように蘇る。
 意識が途切れたあと、階段を上ってきた美術の先生に捕まり、波琉くんと別れることになった。あのときの私は旅をしている私ではないから、このあと起こる事故のことを知らないのだ。

 そして5時間目ということは、今まさに波琉くんのクラスでは体育の授業がおこなわれている。

「ねえ、だからなんなの? このやりとり」

 リンカの問いに答える前に私は立ち上がっていた。

「私、行かなくちゃ……っ」
「え?」
「先生、すいません、行ってきます……!」

 そう叫ぶなり脇目もふらずに教室のドアに向かって駆け出す。

「ちょっと、山下さん!?」

 背後で先生の悲鳴にも似た声が聞こえたけれど、振り返ることはできなかった。
 授業中で人影のない廊下を駆け抜け、脇目も降らず体育館に向かう。

 どうか間に合って……!
 焦り逸る気持ちを何度も落っことしそうになりながら、無我夢中で前へ前へと足を動かす。
 渡り廊下を抜け、そして開け放たれていたドアからなりふり構わず体育館に飛び込んだ。

 体育館の中では、2年生の男子がバスケをしているところだった。ボールが床に叩きつけられる重い音が響き、突然入ってきた乱入者の存在にはだれも気づいていない。
 乱れた呼吸で肩を大きく上下させながら素早く体育館の中に視線を走らせ、見学中であるはずの波琉くんの姿を捜す。
 そして――見つけた。ひとり制服姿の波琉くんが、コートから少し離れたところに後ろ手をついて座っている。その頭上のキャットウォークには、垂直跳び用の高さを測る板が立てつけられている。

「あ……」

 思わず声が洩れる。垂直跳びの測定器を壁に留めるボルトが緩んでいるのだ。
 板は、ボールが床に打ちつけられる振動に合わせて揺れている。
 その下に座っている波琉くんは、ボールや無数の足音にかき消されているせいで、頭上の異変には気づいていない。

 そのとき、ついに耐えきれなくなったというように、がたんっと大きく測定器が傾いた。
 落ちる――!
 考えるより先に、私は波琉くんに向かって駆け出していた。

「波琉くん、危ない……っ!」

 私の声に気づいた波琉くんが目を見張る。

「るか」

 そして私は、走ってきた勢いそのまま波琉くんに抱きつくようにしてフロアに突っ込んだ。
 波琉くんもろとも体が飛んで、直後、思い切り床に頭を打ちつける。
 意識が飛ぶ寸前、すぐ後方で測定器が落ちる激しい音と振動が鼓膜を揺らした。