「――はっ……」
まるでそれまでずっと止まっていた呼吸が突然戻ったかのように、大きく息を吸う。
なにが起こったのか理解が追いつかないまま、吸った分の息を吐き出し、顔を上げる。
するとそこには水垢で曇った年季の入った鏡があった。そこに映し出されたのは間違いなく私。けれど違和感があるのは、私が夏の制服を着ていること、そしてさっきまでより髪が短いこと――。
「瑠果、どした?」
突然背後から声をかけられ、私はびくっと大きく飛び退る。
「なっ?」
そこにいたのは、クラスメイトのナナとリンカだった。ふたりとも夏服に身を包み、私のリアクションに驚いている。
「え、なになに、なんでそんなにビビってんの?」
「ぼーっとしてたから声かけただけなんだけど」
困惑している様子のナナとリンカの声は、すっかり意識の外になっていた。
ぐるぐると混乱する思考を振り絞り、自分が今高校の女子トイレにいることを悟る。そして不登校の私が高校にいるということは――。
「ねえ、今日って何年何月何日!?」
食いかかるように問えば、そんな私の様子に引きながらナナが答える。
「え、普通に2024年10月4日だけど……」
「うそ……」
ナナが示したのは紛うことなく去年の日付けだ。
咄嗟にシャツを握るけれど、シャツのくしゃっとよれる触覚はあまりにリアルで、これは夢じゃない。私は本当に過去にきたのだ。
「瑠果、頭大丈夫そ? 弁当食べてるときは普通だったじゃん」
「なにこれ、そういうゲーム?」
けらけら笑うふたり。けれど今はそれどころじゃない。
「波琉くんは……!? 波琉くんはどこにいる!?」
必死に問い縋る私に、ふたりは呑気な口調で答える。
「私たちが一ノ瀬先輩の居場所知ってるわけないじゃん」
「はいはい。一ノ瀬先輩の幼なじみマウントはもういいって」
取り乱す自分と、ふたりとの空気感の差に、ふと頭が冷える。
……そうだった。私は入学したての頃に仲良くなったこのふたりのことが、本当は少し苦手だった。多分ふたりは波長が合うのだろう、3人でいてもいつも蚊帳の外のような気がして、私はいつもいじられるポジションで。
不登校になってからも、最初の一週間は連絡をくれたけれど、それ以降は連絡が途絶えた。心配してもらえるのを当たり前に思っているわけではない。けれどやっぱり少しだけ寂しかった。
「ありがとう、またね」
苦い思いを飲み込み、私はトイレを駆けだす。
今はなにより波琉くんを探し出さなければ。
校舎の中は蒸し暑い。さっきまで寒かったはずなのにその体感温度を思い出すことができないのは、今この体が10月を生きていたからだ。
時刻は昼休みのようで、廊下には生徒の姿が多く見受けられる。
人の間を縫い進むように廊下を駆け、教室の中や廊下の端まで視線を忙しなく動かしながら、それと同時に必死に頭を動かす。
10月4日、それは波琉くんが事故に遭った日だ。そして1か月後、波琉くんは命を絶つ――。
「波琉くん……」
校舎の3階をひととおり確認したけれど、波琉くんの姿は見つからない。
2階に降り、廊下を駆けていると、グラウンドの方から昼練をしているらしい運動部の軽快な掛け声が聞こえてきた。その声は壁一枚を隔てているかのように実感がなく、焦る私とまわりの世界が隔絶されているように感じる。
ふと、グラウンドから聞こえてくる掛け声の狭間に、わずかな秒針の音を拾い取った。
はっとして立ち止まり、シャツの胸ポケットを探れば、そこには見覚えのある懐中時計が入っていた。それはさっきアンティークショップで男に渡された懐中時計だ。
ボタンを押して銀色の蓋を開ければ、文字盤が現れる。
さっきはただの時計だと思ったそれは、よく見ればタイマーになっていた。そして長い針が指すのは20と書かれた文字の少し上。つまり私に残された時間はあと20分もないのだろう。
早く波琉くんを見つけ出さなきゃ……。
そう焦って1階へ階段を駆け下りようとしたとき、段差に踏み出したはずの右足が宙を蹴った。勢い余ってもつれ、足を踏み外したのだ。
あっと思ったけれどもう遅い。体勢を整える間もなく前方に傾ぎ、思わずぎゅうっと目をつぶったとき。不意に背後から腹部に腕が回された。
私の体はだれかに抱き留められていた。
けれどそれらは一瞬のうちのことで、落ちるというパニックに陥った頭では、状況整理がすぐに追いつかない。
今、なにが起こったの……?
そのとき、混乱する思考を遮るように頭上で声がした。
「――ほんと危なっかしいな、お前」
ひどく耳に馴染む、艶のある声。
一瞬、時が止まった気がした。息が詰まる。動けない。瞬きも呼吸もできない。
この声は――。
遠くから聞こえる運動部の声、階下の廊下を歩いていく生徒の足音。すべてが幻のようで、幻じゃない。
心が震えるのを感じながら、壊れた人形みたいにぎこちない動きで振り返る。
窓から差し込む眩い光に思わず目を細め、けれど直後、へにゃりと顔が歪むのを感じる。
校則違反の白い髪、色っぽく蠱惑的な瞳、端正な顔に浮かぶ不遜な笑み。ずっと会いたくてたまらなかった人が、そこにいた。
「……波琉くん……っ」
波琉くんの瞳に私が映っている――そう実感するとたまらなくなって、私は波琉くんの胸に飛び込んできた。見た目よりももっと広い胸が、よろけることなく私を受け止める。
「本当に波琉くんだ……っ、波琉くん、波琉くんっ」
懐かしいムスクの香り、たしかに息づいている鼓動の音。波琉くんが生きている。
涙が溢れて、波琉くんのシャツを濡らしていく。
「なあ、これどういう状況?」
「会いたかったよ……っ」
「会いたかったって、朝も一緒だったろ」
呆れたような笑いを含んだ声が聞こえてくる。私は泣き喚きながら波琉くんの胸をぽかぽかと叩いた。
「波琉くんのばかっ、ばか、ばか」
なんで私を置いて死んじゃったの。私がどれだけ寂しかったか知らないで、ばか。
触れられる距離にこの人の体温があることが、ひどく懐かしい。
「お前ね、人が黙ってれば……」
「うわああっ、ばかっ!」
「はいはい」
聞き分けの悪い子どもをあしらうように波琉くんの手が私の背中をぽんぽんと撫でる。
「なにあれ」
私たちを見て、くすくすと笑う声が階段を行き交っていく。そんな中でも波琉くんは私を突き放さなかった。
ようやく落ち着いた頃、私は涙に濡れた顔で波琉くんを見上げた。
「波琉くん、どこにも怪我してない?」
「怪我? してねえよ。つーかなに急に」
「体育はこれから?」
「次だけど」
体育の授業中に事故は起こる。それならば、阻止できる。波琉くんを体育館に行かせなければいいのだ。
「波琉くん、私と一緒に次の授業……」
言いかけたそのとき、波琉くんの肩越しに、階段の踊り場に設置された大きな鏡が見えた。鏡の中の私と目が合う。
あ――そう思った瞬間、いきなり電源プラグが抜かれたかのように世界が黒に染まった。

