【完】さよならの向こうで待つ君へ




 山下が鏡に触れた瞬間、山下の体からがくんと力が抜けて、大きく後方に傾ぐ。
 あっと駆け寄った俺より先にその体を抱き留めたのは、アンティークショップの主である男だった。

「無事に過去に行くことができたようですね」
「山下、大丈夫なんですか?」
「ええ。先ほどもお話したとおり、一本の時間軸上に魂が同時に複数存在することはできません。そのため今は魂が抜けた状態になっていますが、過去から戻ってくれば目を覚まされますよ」

 目を瞑り息をしていない山下の姿に、ごくりと生唾を飲み込む。
 魂が抜けた状態という言葉に血の気が引いていくようだが、なぜかこの男の言うことには疑う余地もないほどの説得力があった。冷静に考えれば信じ難いその話を、頭のどこかが抗うことなく飲み込み、俺は男から山下を預かって店の奥のベッドの上にそっと寝かせる。

 ハーブティーの香りが包む、時の流れを忘れてしまいそうなほど穏やかな空間。
 ベッドの脇に跪き、瞬きも忘れてじっと山下を見つめていると、緊迫した糸を断ち切るように背後から男が声をかけてきた。

「よくここを見つけることができましたね。北原様が見つけたのでしょう」
「なんでそれを……」

 振り返れば、男が胸に手を当て浅くお辞儀をする。

「こんなことを申し上げるのも恐縮ですが、私はなんでも知っております」

 そういえばこの男は当然のように俺たちの名前を呼んでいる。あまりに自然な響きで呼ぶから、すっかり聞き流していたけれど。
 すべてを知っているというのは冗談でもなんでもないのだろう。

 跪いたままの膝の上で拳を握る。
 男の言うとおり、この鏡の発現条件を俺は知っていた。ことの発端は先週ゆき子さんからかかってきた電話だった。 

『あれからもずっと鏡のことが気になっててね、それで倉庫を探してみたら当時の日記を見つけたのよ!』

 興奮気味にかかってきた電話は、思いがけない有力な情報をもたらした。

『あのとき私は、海で拾ったシーグラスをある星に翳したの。そしたら突然シーグラスが光り出して、目の前にアンティークショップが現れたの。もしかしたらそれが発現状況なんじゃないかしら。シーグラスを翳したその星は――』

 早く山下に伝えなければ。その一心で、近くにあった適当なプリントの裏に伝えられる情報を書き記していると、ふと躊躇いがちなゆき子さんの声が追ってきた。

『あのときは瑠果ちゃんがいたから言えなかったけど、私が見た未来では、家族に囲まれる私のそばに朔良と一緒に瑠果ちゃんもいたの。数十年後の未来で朔良と瑠果ちゃんは結婚して、ふたりの間には子どもも生まれてた』

 ペンを走らせる手が止まる。一瞬、時が止まったような気がした。

『あなたたちは過去を変えたいようだけれど、そうしたらその未来も変わってしまうかもしれない。それでも朔良は未来を変えるの……?』

「――よかったのですか、山下様を過去に送り出して」

 いまだ生々しく残る回想に畳みかけるように男が問う。

「このアンティークショップを見つける方法を伝えなければ、過去は変わりません。黙っていれば山下様の心を手に入れることができたかもしれないのに」

 そう、実感がないと言えば嘘だった。山下が俺に心を開いてくれていること、そして少しずつ俺を意識するようになってくれたこと。その感触はたしかにわずかにあって、ゆき子さんが見たのはもしかしたらそう遠くない未来なのかもしれないと思った。

 ――山下を好きになったのはいつからだろう。
 一ノ瀬に山下を紹介され、ふたりの間には他者が介入する隙なんてない魂の結びつきのようなものがあることを知って、なんでこんなぱっとしない奴が一ノ瀬の隣にいるのかと正直なんだかムカついた。
 そんな山下との距離が変わったのはウォークラリーの日だった。屈託ない山下の笑顔を見て、一ノ瀬がどうしてあんなに山下に心を委ねているのかわかった気がした。山下の笑顔には、この世の汚いものすら照らしてしまうような眩しさがあった。俺と一ノ瀬は似ているから、俺たちはきっと山下の笑顔に救われたのだ。
 そして俺は、一ノ瀬に恋をする山下の横顔に恋をした。

 いつもうまく笑えているかわからなくて笑うのが苦手だったけど、山下を前にすると肩から力が抜けて無防備な自分が曝け出されてしまう。そうして意図せずこぼれてしまうのが本当の笑顔なのだと知った。

 一ノ瀬が生きていたら、山下の心は永遠に一ノ瀬のものになるかもしれない。
 それでも俺は過去を変える道を選んだ。
 だって山下の想いまで死んじゃいけないはずだから。

 ふは、と空気を揺らすようにして苦笑がもれる。

「俺、山下のことも一ノ瀬のことも好きなんですよね」

 山下に抱いているのは簡単に譲れるほどの想いじゃないけどさ、俺はふたり共大切にしたいんだよ。

 男に背を向け、山下の手を握る。
 小さい手。この手で何度涙を拭ってきたのだろう。
 そして目を瞑る山下を見つめた。その眼差しに愛おしさが宿ってしまうことには抗えない。
 どんなことがあってもどんな形になっても、俺のすべてを賭けて山下の笑顔を守り抜くと決めている。たとえ隣にいるのが俺じゃなくても。