【完】さよならの向こうで待つ君へ




 灰色と水色とオレンジが複雑で奥深いグラデーションを描き、空には白い月がぽっかりと浮かんでいる。
 ぽつぽつと立ち並ぶ家から、ほんのり夕食の匂いが漂ってくる。しんとした凪いだ空気が、私たちのことを優しく包んでくれていた。
 どこに向かうでもなく、ただゆっくりと歩幅を合わせて歩く。

「試験は順調?」
「ああ。今日終わったよ」
「今日だったんだ……! 疲れてない?」
「平気。試験が終わったらすぐ山下に会いに行こうと思ってたんだ」

 恥ずかしげもなく放たれる朔良先輩の言葉に、じわっと心臓が熱を帯びる。
 単純な私は動揺してしまうけれど、朔良先輩は純粋で愛情深い人だから深い意味はないのかもしれない。
 照れ隠しをするように小石を蹴ると、小石はころころと下り坂を転がって用水路に落ちた。

「なんかさ、不思議だよね。こんなふうに私たちがふたりで並んで歩いてるなんて」

 こうしていることが"普通"になったのは、朔良先輩がいつだってどんな私のことも受け入れてくれたから。

「朔良先輩が私の会いたい人になった」

 会いたいとは愛おしさが形作る感情だと思う。
 胸に生まれたこの温かい想いを大切に抱きしめたい。

 するとわずかな間ののち、朔良先輩が声を落とす。

「覚えてるか? 去年の体育祭で、山下が俺を庇ってくれたこと」

 隣を見れば、無駄のないシャープな横顔がすぐ手の届く距離にある。その瞳には躊躇や迷いの色はなく、まっすぐ前を見据えていた。

 体育祭の出来事と言われ思い当たるのはひとつだけで、けれどそれは仄暗く朔良先輩にとって積極的に思い出したい記憶のはずではないから、そう切り出されたことに一瞬不意をつかれる。

「財布……のこと?」

 そうっと尋ねると、「ああ」と朔良先輩は肯定した。

 去年の体育祭の日。自分の出場種目が終わり、タオルを取りに教室に戻る途中で、通りかかった教室からあまり穏やかではない会話が漏れ聞こえてくることに気づいた。
 そうっと教室を覗くと、数人の男子が囲うようにして朔良先輩を問い詰めているところだった。
 どうやら体育祭で教室を出ている間にその中のひとりの彼女の財布がなくなったらしく、その時間に出場種目がなくひとりでいた朔良先輩が疑われていたのだ。

『北原のことずっと怪しいと思ってたんだ』
『やっぱりお前って人の物盗めるような奴だったんだな。人間はそう簡単に変われねえんだよ』

 口を閉ざし暴言をかけられるだけの朔良先輩の目には諦念が色濃く差していて、私はいてもたってもいられず抗議のため教室に足を踏み入れていた。後輩の私は部外者かもしれないけれど、朔良先輩のことを信じていたから。

「"朔良先輩はそんなことをする人じゃない"、"悪く言うのは許さない"って。俺を信じて自分のことみたいに怒ってくれただろ。あれ、すごく嬉しかったんだ」

 あのときはそこまで考えが回らなかったけれど、人間はそう簡単に変われないというあの言葉は、朔良先輩が前荒れていたことを指していたのだろう。
 だけど私は思うのだ。もしも朔良先輩の過去を知っていたとしても、それは私の中で朔良先輩を疑う理由にはならなかっただろうと。

 結局彼女が見落としていたらしく、財布はスクールバッグのポケットの中から発見されて、濡れ衣は晴れた。
 けれど朔良先輩にとっては苦い思い出になっていると思っていたから、こんなふうに言ってもらえたことが、驚きでもあり嬉しくもあった。

「曲がったことが嫌いで、いつだって自分に正直な山下がかっこよくて、俺も山下みたいになりたいって思った」
「朔良先輩……」
「曲がったことが嫌いだからこそ、いつも正しくあろうとして自分のことを責めたり許せなくなったりすることもあるんだろうけど、そんなところも含めて俺は山下のことを尊敬してる」

 朔良先輩の横顔は淡い微笑をたたえながら、白い月を見上げていた。

 心が潤いを帯び、それは目の奥を刺激し、朔良先輩がこちらを見ていなくてよかったと思った。
 自分の生き方は柔軟性がなく不器用だと自覚している。でもそんな私を肯定してくれて、ありのままの私を抱きしめてくれる。それがどんなに嬉しいことか朔良先輩は知っているだろうか。

「買いかぶりすぎだよ……。でも、ありがとう」

 そのとき私の手の甲と朔良先輩のそれとがぶつかって、思わず手を引っ込める。それは朔良先輩もまた一緒だった。
 なぜかざわつく鼓動。意に反して落ちてきてしまった沈黙。

「――山下」

 不意に朔良先輩が足を止める。そこは空き地の前だった。記憶のある限りでは、そこに建物が建っていたことはなくずっと更地だ。
 すっかり辺りが暗くなり街灯が照らす中、朔良先輩の視線は、私の顔ではなく首からかけたペンダントに向けられていた。

「そのペンダント、一ノ瀬が着けてたものだよな」
「え……? ああ、うん、そうだよ」

 シーグラスを括ったそのペンダントはいつも服の下に忍ばせているけれど、急いで着替えていたから服の上に飛び出していたのだ。

 突然の話題に驚きつつも、私は胸元のペンダントに触れ、思いを巡らす。

「小さい頃にね、海で拾ったシーグラスで作ってあげたの。まさかそれが形見になるなんて思わなかったけど」
「そうだったのか。一ノ瀬、いつもそれ着けてたよな」
「うん。私との思い出とか全然大切にしてくれなくてムカつくこともあったけど、このペンダントだけは多分大事にしてくれてたんだと思う。子どもが作ったおもちゃみたいなものなのにね」

 小学生でも買える安物のチェーンはところどころ錆びていて、シーグラスを括る金具は不格好だ。
 神様が丹念に手を加えて作り上げたんじゃないかと思わされるほど洗練された波琉くんが着けるには不釣り合いで、新しいネックレスを買ってプレゼントすると伝えたけれど、波琉くんはそれを断った。
 完璧な魅力を纏う波琉くんにとって、このペンダントだけがひとつのほつれでさえあった。

「俺にも見せてくれないか」
「うん」

 ペンダントを外して朔良先輩に差し出す。

「綺麗だな、このシーグラス」

 ペンダントを受け取った朔良先輩が、無数の星が浮かぶ濃紺の空にそれを翳した。
 ――その瞬間だった。シーグラスが閃光のように眩しい光を放ったのは。

「きゃ……っ」

 あまりの強烈な眩しさに思わず目を閉じて――やがてこわごわ開く。
 すると、目の前に広がった光景に私は言葉を失った。
 さっきまではなにもなかった空き地の上に、見慣れない建物がそびえていたのだ。目を閉じたほんの数秒の間に。

「これ……」

 隣で朔良先輩が動揺に染まった声で呟く。
 意識が飛んで夢みたいなものを見ているのか――そんなことが一瞬頭を過ったけれど、朔良先輩の存在がすぐそばにあることで、目の前の光景は現実かもしれないという思考がじわじわ広がっていく。

 まるで私と朔良先輩、そしてこの建物だけが世界から切り離され、まわりの時間が止まっているように感じられる。

「ゆき子さんが言ってたアンティークショップだよね……?」
「ああ……」

 レンガ造りのその建物は西洋風で、ヨーロッパのおしゃれな街角にたたずんでいるよう。ドアの横には大きなショーウィンドウが嵌められ、おしゃれな服や帽子、本などが並んでいる。異様としか言えないこの建物は、田畑に囲まれた景色に馴染むことなくひどく浮いて見えた。

 突然の展開に頭がついていかず圧倒されたまま立ち尽くしていると、朔良先輩が私に向かって小さく頷く。

「行こう」
「うん」

 ごくりと唾を飲み、そして地面に貼りついていた足を踏み出す。
 そして木製の洒落たドアを開けると、そこに広がる光景に私は再び息をのんだ。オレンジ色のライトがぼんやりと照らす薄暗い店内にはアンティーク調の筆記机、椅子や地球儀などが所狭しと並んでいる。壁にはいくつもの時計がかけられ、それぞれが別々の時刻を指していた。レトロで洒落た空間だ。

「朔良先輩……これ、現実だよね……?」
「ああ、そのはずだ」

 呆然としていたからか、それとも彼自身にその気配がないのか。気づくと目の前に男の人が立っていて、危うく悲鳴をあげそうになったのをすんでのところで飲み込む。

「おやおや、お客様でいらっしゃいますね」

 執事みたいなコスチュームを着て、丸眼鏡をかけた糸目の若い男。
 目の前に立つ彼は、まさにゆき子さんが話していた特徴にぴたりと当てはまる。物腰柔らかな雰囲気とは裏腹に謎めいた妖しいオーラを放つ彼は、恭しく胸に手を当てた。

「ようこそ、いらっしゃいませ。この館には世にも奇妙なアンティークが揃っておりますが、あなた方にはもう目的をおありのようですね。――あなた方は過去と未来、どちらをご所望ですか」
「それって……」
「あの鏡をお探しだったのでしょう? 過去と未来を繋ぐ鏡を」

 男がしなやかな動きで店の奥を指す。
 そこには姿見のような大きな鏡があった。鏡を縁取る木の縁にライン状の飾り彫りが施されたシックなアンティーク調の鏡で、勝手に抱いていた煌びやかなイメージよりもっと質素な作りだった。
 けれど、それが摩訶不思議な力を持つ鏡であることは一目瞭然であった。静謐な佇まいながらその奥に神秘的な光を潜めており、怖いほどに人工的な印象がない。
 本当にあったのだ、過去に行くことのできる鏡は。

「私、過去に行きたいんです……! 行かせてください、お願いします……!」

 がばっと頭を下げれば、男の落ち着き払った礼儀正し声が降ってくる。

「どうぞ頭をあげてくださいまし。この館にいらっしゃった方は皆様、鏡の前に立つことができるのですよ。ただしこの鏡の使用にはいくつかの条件がございます」
「条件?」

 のろのろ頭を上げた私の隣で、朔良先輩が険しい声で繰り返す。
 すると男はそれに答えながら鏡に向かって歩みだした。私たちもそれに続く。

「ええ。少々長くなりますが、重要なことですのでどうかお付き合いくださいませ。
まずここでは便宜上、時空を超えて過去に行くことを"旅"と呼ばせていただきますね。
前提として、旅には大きなエネルギーを要します。そのためこの鏡を使うことができるのはご来店された一組様につき一回きりです。そして一度旅をした方は二度と旅をすることができません」

 つまり、過去に行けるのは私か朔良先輩のどちらかだけ。そしてもう二度と過去に行くことができない。

「チャンスは一度きりってことか」

 鏡の前で立ち止まったところで、朔良先輩が重々しく唸る。
 やり直しは効かない。その事実は息苦しいほどの緊張感を纏って私たちにのしかかる。

 すると人差し指をあげていた男が、二本目の指を上げた。

「次に、旅をするのは意識だけです。器である体は"現在"に残り、別時空の自分の体に今の意識が宿ることになります。
原則として過去と未来、そして現在。すべてが繋がった一本の時間軸上で、ひとつの魂が同時にふたつ以上存在することはできません。
また過去を改変した場合、その時点から今日に至るまでの過去は一切書き換わり、書き換えられる前の記憶は今この館の中にいる人にしか残りません」

 すらすらと男の口から滑るように紡がれるのは、あまりに実体のない話ばかり。けれどそれらを現実として受け入れることに、私の脳は抵抗しようともしない。朔良先輩も隣で固唾をのんで話に聞き入っている。

「さらに、この鏡には過去へ旅をすることとは別に、もうひとつの力がございます」
「もうひとつの力……? なんですか?」

 するとにこにことした笑顔を崩すことなく、男は続けた。

「それは、この鏡で未来を見るということです。未来は不確定であるためその時空に直接干渉することはできません。――つまり、未来に行くことができません。しかし未来を知るだけでよければ、こちらもおすすめですよ」

 鏡が映し出す未来。それも気になる力ではあったが目的はひとつ、過去を変えることだけだ。

「また大切なことをお伝えするのを失念しておりました。この鏡は大変気まぐれです。そのため行く日時も見る日時も指定することができません。すべては鏡の意思のままにということになります。――さて、これらの条件を踏まえたうえで、あなた方は過去と未来、どちらをご所望ですか」

 謳うような男の問いを受け、私は思わず答えを飲み込み睫毛を伏せた。
 ――過去に行けるのは私か朔良先輩のどちらかひとりだけ。男から提示された条件が重くのしかかってくる。
 波琉くんに会いたい。その一心でここまできたけれど、朔良先輩も波琉くんに会いたいはずだ。
 それに、やり直しの効かない一度きりのチャンスで私は波琉くんを本当に救い出すことができるのだろうか……。そんな不安が急激に込み上げてきたのだ。
 私じゃなくて波琉くんが過去に行った方がいいんじゃないか……。

 そのとき、朔良先輩が私の背中をそっと押した。

「行ってこい、山下」

 揺るぎない声にはっとして顔を上げれば、朔良先輩がそっと微笑んでいた。足踏みをして進めないでいる私を後押ししてくれる、たしかな実感。

「俺はここで待ってる」
「朔良先輩……」

 朔良先輩の返事を受け止め、ひとつ息を吐き出し、そして目の前の男に宣言する。

「私が過去に行きます」

 私の覚悟を聞き届けた男が胸に手を当てて命を受けた執事よろしく30度に頭を下げる。

「かしこまりました。それではこれをお渡しします」

 男が胸ポケットから取り出したのは、手のひらサイズの銀色の丸い時計だった。私に差し出すタイミングで、上部のボタンを押してぱかりと蓋を開ける。繊細な銀細工が施された蓋の下からは、ローマ数字の文字盤が現れた。けれど針はじっと黙ったまま動いていない。

「これは?」
「旅の終わりの時間を知らせる懐中時計でございます。この懐中時計が鳴りましたら、間もなく山下さまの魂は"今"へと戻ることになります」
「タイムリミットが……。わかりました」
「準備が整いましたらこの鏡に触れてください。タイミングはご自由に。触れた瞬間、過去へと飛ぶことになります」

 男の言葉に、思わずすうっと飲み込んだそれはやけにひんやりとした冷気となって喉を通り過ぎる。
 いよいよ、このときがきたのだ。

 朔良先輩を見る。決意と覚悟の眼差しの先に、きっと私がしているであろうものと同じ表情をした朔良先輩がいる。

「行ってくるね、朔良先輩」
「ああ。頼んだ、山下」

 ひとつ頷き、そして改めて鏡に向き直る。

「それでは山下瑠果さま、良い旅を」

 背中に朗らかな男の声を受けながら、私は鏡に手を伸ばした。