無心で足を動かした。なにも考えないよう必死に思考を鎮め、込み上げる感情を必死に振り払う。
そうして家に着き玄関のドアを開けた俺を、温かい夕食の匂いがむわっと襲い掛かってきた。父も母も雪那も在宅だったらしい。リビングからは明かりと共に笑い声が聞こえてきて、暗い廊下の影をいっそう濃くしていた。
リビングには向かわずまっすぐ階段を上り、自室に向かう。
両親と食卓を囲まなくなってどれくらいが経っただろう。雪那がいつも気を遣って両親との仲を取り持ってくれようとするが、断っている。顔を合わせればすぐさま口論になるのは目に見えていた。
2階の端にある自室のドアを開けた俺は、後ろ手にドアを閉めた直後、突然それまで張り詰めいた糸が切れて力が抜け、ずるずるとドアに背中を引きずるようにしてその場に座り込んだ。
――朔良と弾いたピアノが人生で一番楽しかった。
さっき山下から聞いた言葉を、一ノ瀬の声で再生させるのは容易いことだった。
電気もつけていない室内の中、青白い月明かりが照らす虚空をぼんやり見つめる。
あれは去年の5月のことだった。
『本当にねえ……1年とちょっとで補導4回というのはねえ……』
テーブルを挟んだ反対側のソファーで校長が困ったように、ハンカチでつるつるの頭の汗を拭う。
『本当に申し訳ございません』
隣で母親が頭を下げるのを、俺は深々とソファーに背をもたれながら視界の端で捉えた。
昨夜、飲み屋街で喫煙しているところを巡回中の警察官に見つかり補導された。それで高校にも連絡が入り、今後の処分について話し合うため母親と共に高校の校長室に呼び出されたのだ。
『前回停学したのに改善されないと、我々としても成す術がないんですよねえ』
春休みが明けてすぐ、仲間と深夜徘徊しているのを補導され、自宅謹慎が解かれて間もない身だった。
停学にしても成す術がないというのはつまり、行きつく先には退学しかない。進学校であるこの高校で、不祥事ばかりの生徒を置いていくのもリスキーなのだろう。
『ええ、わかっておりますわ。とんだ恥さらしで、なんと申したらいいか……』
恥じ入るような声を出しながらも、母親の心のうちには違う思惑があるのを知っている。母親の振る舞いはすべてが計算の上で成り立っている。この人には一瞬のほつれさえない。
『親としての責任を痛感しております。こんな子が実の息子だなんて考えると眩暈がしてきます』
母親の言葉に、無だったはずの感情が一気に冷え切っていくのを感じた。
親としての責任……? 昨日警察署に呼び出されたとき、怒鳴りもしなかったくせに。汚物を視界に入れたくないというように、俺のことを見ようともしないくせに。
この人の頭の中にはいかに俺を退学させないかということしかない。もし一人息子を退学になんてさせたら、由緒正しきエリート一家である北原家の名に傷がつく。母親は自分たち"家族"の体裁を守ることしか考えていないのだ。
凍てついた心とは裏腹にかっと頭に血が上り、俺は思い切り拳でテーブルを殴りつけていた。
『退学だろうがなんだろうが受けてやるよ!』
そう吐き捨てて校長室を出る。
『北原、待ちなさい!』
『校長先生』
俺を呼び止めようとする校長を遮ったのは、母親だった。
背中の向こうで母親のやけに冷静な声がする。
『こんなときになんですが実は主人が御校に寄付を検討しておりまして。……いえいえ、息子が大変お世話になっておりますから……』
廊下を歩きながら聞こえたのはそこまでだった。
……買収か。金だけはあるから、それですべてなんとかなると思っている。富と名誉に目がくらんだ怪物たちだ。
ずきん、と手の甲が痛んで見れば、拳から流血していた。さっきテーブルを殴りつけたときの傷だろう。
乱暴に舌打ちをする。
こうして非行に走ったのは親への反抗心からでしかなかった。幼い頃から父の弁護士事務所を継ぐために教育を受けてきたけれど妹の雪那よりも出来が悪く、そこに追い打ちをかけるように高校のランクをひとつ落とした。そこから両親の自分に対する無関心が大きくなり、俺は両親が望む姿と真逆の人間になってやろうと抗った。
自棄になっていた。俺のまわりはみんな敵だ。
雪那のことだけは大切に思っているけれど、両親は可愛がっている雪那の前では露骨に俺を排除しようとはしない。だから雪那は、俺のことを勝手にグレた兄として軽蔑の眼差しで見ている。けれどそれでいい。雪那だけは気づかなくていい。雪那はなにも気にかけることなく愛を疑わずに育ってほしい。
校舎を出ようとしたとき、ふと財布を教室に忘れたままだったことを思いだした。今日は家に帰らないとして、そうなると財布がないと不都合が多いだろう。
乱暴な舌打ちを二度目。
仕方ない、教室に戻るほかなさそうだ。
すっかりひとけのなくなった放課後の階段をあがり、3階の教室に向かう。
そして3階に着いたとき、ふと廊下の向こうからピアノの音色が耳を掠めた。立ち止まり耳を済ませれば、ピアノの音はたしかに音楽室の方から聞こえてくる。
吹奏楽部は人員不足で休部していると聞いたことがある。それなのにピアノの音色が聞こえることが気になった。
――けれど、いや。その音色があまりに綺麗だったから。だから俺は引き寄せられるように、ピアノの音色を辿っていた。
ピアノの音はやはり、ドアが開け放たれた音楽室から聞こえてきていた。
なんとなく音楽室に足を踏み入れて、思わず立ち止まる。漆黒のグランドピアノの前にいる人の姿を認めたからだ。
白い髪をふわりと揺らしながらピアノを弾いている姿は、天からそこにだけ光が降り注ぎ、光のベールを纏っているように美しい。
……天使だ。そんなあまりに馬鹿げたことを思った。天使にしては図体がでかすぎるけれど。
そしてそいつが奏でる音は生きていた。音が息をして踊っている。
この世にこんなにも綺麗な音があるなんて知らなかったのだ。
呆然と目の前の世界に引き込まれていると、不意に音が止んで男が怠そうに顔を上げ。
『だれ、お前』
俺を貫く生気のない瞳。けれどその奥には明確な闇があった。
その顔を見て即座に気づく。その男の名は一ノ瀬波琉。同い年で、そして悪い意味で有名な奴だ。
中学の頃ストーカーを脅迫して土下座をさせ謝罪を強要させたらしく、男だけではなく女にも容赦がない。本人は否定しているらしいけれど、こいつならやりかねないというのがまわりの総意だ。
だれにも靡かず感情のない男。クラスのだれかがそう称していたことを思いだす。
振る舞いもルックスも、天使なんてそんな言葉とは真逆にいる男だ。
『なんでもない』
幻想がシャボン玉のように割れて消えて、俺は踵を返そうとする。けれどそのとき。
『待てよ』
一ノ瀬の声が俺の意識を引き留めた。足を止めた俺に、一ノ瀬が意地の悪い薄ら笑いを浮かべる。
『もしかしてお前、1年で4回補導っていう問題児くん?』
『は?』
『有名だよね、お前。次は退学じゃないかって、まわりの奴らがみんな愉しんでる』
なんなんだ、こいつは。ずかずかと俺の地雷を容赦なく踏んできやがる。
けれどこんな挑発に乗る気はなく、『あんたには関係ない』と苛立ちを抑えてあしらおうとしたのに。
『ああ、関係ないよ。でもお前みたいに甘ったれた愚図見てると虫唾が走るんだよね』
吐き捨てられた棘だらけの言葉に、俺の心にぴきっと亀裂が入る。
ピアノの向こうには悪魔の表情を称える男の姿があった。
『ひとりでかまってちゃんしてて虚しくねえの?』
『は……?』
『そうやって大声をあげればだれかが助けてくれるとでも思ってるんだろ。とっくに見放されてるのに』
『……黙れ! あんたになにがわかるんだよ!』
怒りのあまり啖呵を切った俺。けれど一ノ瀬はそれをひどく冷めた目であしらい、一言。
『来いよ』
『は?』
『来いっての』
有無を言わさぬ圧倒的なオーラに、気味の悪い悪寒が背筋を走る。
逆らう気を忘れてしまったのは、得体のしれない恐怖のせいだ。
なにをする気だ。まさか俺をボコろうとしてるとか? 威嚇の視線を向けたままじわりじわりとピアノに歩み寄れば、一ノ瀬が座っていた場所から少しずれて椅子に余白を作った。そしてそちらを顎で指し示す。
『ん』
椅子の空いたスペースに座れということだろう。
当然反発したいところだが無駄に抵抗してエネルギーを消耗するのも面倒だった。警戒心を剥き出しのまま渋々そこに座る。
『さっきからなんだよ』
『好きな場所、人差し指で同じリズムで叩き続けろ』
『はあ? なに言ってるんだよ、あんた』
『うるせーな。馬鹿でもガキでもそれくらいできんだろ。ほら』
だからなんなんだ、これは。偉そうでムカつく。
野郎とぴったり肩を寄せ合いひとつの椅子に座っているのもむずむずするけど、立ち上がればまた偉そうに無理やり俺を従わせるだろう。出会ったばかりだけど、こいつは多分そういう奴だ。自分のペースも意見も譲らない。癇癪を起こし逆らうだけ無駄だ。
ピアノの音階は小学生の頃に習った気がするけれどすっかり忘れた。とりあえず目の前の白い鍵盤を何度か押してみる。
するとそのとき、突然隣で一ノ瀬が鍵盤の上で両手を大きく広げた。直後、音の波が押し寄せてくる。
圧されて思わず鍵盤から指を離しそうになったとき、一ノ瀬が耳元で囁いた。
『いいから俺に委ねろ』
俺の拙い一音の繰り返しを、波のような一ノ瀬の音が包み込み、壮大なハーモニーが紡がれる。まるで自分の指から音楽が広がっていくような錯覚を覚える。一ノ瀬が俺の音符を音楽にしてくれている。
なんだ、この高揚感。耳から流れ込んでくる音が心を震わせる。音に飲み込まれそうだった。
やがて一ノ瀬の指が優しく終わりを告げて、俺も人差し指を止める。
鼓動が忙しない。心なしか頬も紅潮している気がする。
するとそんな俺の顔を覗き込み、暴君がふっと笑う。
『できたじゃん、演奏』
『演奏……?』
『連弾ってやつ』
それから一ノ瀬は憂いた横顔で俺の右手に視線を落とした。
『馬鹿だな、こんな血だらけにして』
さっき怪我をした手の甲の流血は止まっていたものの、乾いた血が幾筋もの赤い線となり傷の跡を生々しく残している。
『お前の手はだれかを傷つけることも癒すことも守ることもできる。物は使いようってことだよ。今は使い方がわからなくても、いつかその手で大切なものを守れるようにしとけよ』
視線を持ち上げれば、一ノ瀬の顔がすぐそこにあった。一ノ瀬はガラス玉のような澄んだ瞳で、俺の赤い手の甲を見つめている。そこにはさっきまでの侮蔑の色はない。
『なんでこんなこと……』
『お前、俺と似てる気がするから』
『……さっきは俺のことあんなに貶したくせに』
『俺はお前みたいに駄々こねてるだけのガキじゃないからね』
一瞬いい奴かもしれないと思ったけど、やっぱり口は悪い。むっとしていると、不意に一ノ瀬が立ち上がった。
『まあお前がなにと闘ってるかなんてどうでもいいけど、悩んで苦しんだ分強くなれるし優しくなれるんじゃないの、多分』
なんてことのないトーンでぽつりと落とされた言葉は、あまりにまっすぐに俺の心に刺さってきた。この苦しみにも意味がある、そう思えたら今の自分が救われる気がした。
頑丈に閉じていた真っ暗な心に、悪びれもせず土足で踏み込んできた一筋の光。
多分俺はだれかの瞳に映りたかった。だれかに見つけてほしかった。それだけだったのだ。
『ありがとう、一ノ瀬』
温度のある言葉が自分の口からこぼれたのはいつぶりだろう。
すると一ノ瀬が俺を見下ろしてくる。
『お前、名前は?』
名前を聞かれて、けれど少し躊躇う。自分の名前がずっとコンプレックスだったからだ。朔良、なんて女らしい名前を小さい頃は何度も馬鹿にされてきた。
けれどここにきて名前を偽るなんてことができるはずもなく、口ごもりながら答える。
『北原……さく、ら』
すると頭上で一ノ瀬がささやかに笑み。
『さくら。綺麗な名前じゃん』
頭に手を置かれて、とくん、心の辺りで優しい音がした。
――一ノ瀬に呼ばれたあのとき、俺は初めて自分の名前を好きになれた。一ノ瀬が呼ぶ自分の名前が好きだった。
隣にいて、俺は一ノ瀬のことをどれくらい理解できていたのだろう。ピアノを辞めた経緯も、心臓の病気のことも、俺がそれらを知ったのは一ノ瀬が亡くなった後だった。
たしかに一ノ瀬には突然ふらりといなくなってしまいそうな危うさがあった。だけど。
「……本当に帰ってこなくなるなんて思わないだろ……っ」
月明かりが満たす自室で、俺は蹲ったまま嗚咽を漏らした。ずっとぎりぎりのところでせき止めていた悲しみがついに決壊したのだ。
必死に山下を励まし続けたつもりだけど、本当は自分もあの日からどうしようもなく悲しくてつらくてたまらなかった。
「なんで死んじゃったんだよ……っ」
俺はずっと一ノ瀬のピアノを聴いていたかったよ。そしてできるならまた一緒にピアノを弾きたかった。
どうしたらお前を失わずに済んだ?
桜はさ、春にしか咲かないんだよ。

