【完】さよならの向こうで待つ君へ




 喫茶店を出た頃には、時刻は17時を過ぎていた。

「また来てね。待ってるから」

 そんな言葉と共にマスターに送り出され、私は住宅街に向かっていた。お腹が充分に膨れたからか、あるいは急いていた気持ち凪いだのか。私たちの歩速はとてもゆったりとしていた。
 こんな時間にナポリタンを完食してしまったから、夕食に響きそうだけれど。

「辛すぎたけどなんかちょっと病みつきになりそうかも」
「うそ。私はもう二度と食べたくない」
「はは、俺も最初はそう思ったんだけど感覚が麻痺したのかもな」

 大量のタバスコのせいでまだ舌がひりひりしている。いの形に開いた口の中にすうすう空気を入れて、熱を持った口の中を冷ます。
 そういえば、馴染みのあるあの喫茶店でナポリタンを食べながらふと思い出した光景があった。

 歩きながら首を曲げ、朔良先輩の顔を覗き込む。

「ねえ、朔良先輩」
「ん?」
「はるちゃんと友達になってくれてありがとね。……って、私が言うのもちょっと変なんだけど」

 へへ、と頬をかいて笑みをこぼす。

 頭上に広がるのは水色と灰色が交じり合う空。すぐそこまで迫った夜の気配を感じる。
 夜は好きだ。夜の空気は澄んでいて、昼間よりもずっと呼吸しやすい気がするから。

「朔良先輩と一緒にいるときのはるちゃんって、なんだか穏やかな顔してたんだよね。ほら、はるちゃんって他人に興味ないじゃない。だから朔良先輩を気にかけてるのが新鮮だったの。はるちゃんは顔にも言葉にもわかりやすくは出さないけど、多分朔良先輩に心を許してたんだと思う」
「……どうした? 急に」
「さっきの喫茶店でね、はるちゃんが言ってたのを思い出したの。"朔良と弾いたピアノが人生で一番楽しかった"って」

 ピアノを弾いているはるちゃんは聖域のようなもので、私はいつも近くで聴いているだけ。ピアノを弾いているはるちゃんには安易に触れられなかった。それに不満を持ったことはなかったし、小さな頃から当たり前だったけれど、朔良先輩が違ったらしい。
 ふたりにそんなエピソードがあったとは知らず、喫茶店ではるちゃんがそうこぼしたときはもっと詳しく聞かせてとせがんだけれど、適当にあしらわれてしまったっけ。

 そのときふと、朔良先輩が足を止める。「朔良先輩ってピアノ弾けたの?」そう問いかけたところで朔良先輩が隣にいないことに気づき、私は振り返った。
 その顔を視認するより先に、朔良先輩の手が頭の上に置かれる。

「悪い、用事を思い出した」
「え?」
「先に帰る。……ごめん」

 そう告げるなり朔良先輩が足早に去っていく。

「朔良先輩……?」

 振り返り、小さくなっていく後ろ姿を見つめる。
 腕の影から一瞬覗いて見えたその顔は、切なさに押しつぶされる寸前かのように歪んでいた気がした。