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「ありがとうございました」
玄関の前でおじいさんに頭を下げて、敷地を出る。
そして門扉を締めたところで私は溜め息をついた。
「まただめか……」
これで12連敗。この家でもまた、めぼしい話を聞くことはできなかった。
ゆき子さんの家を訪れた翌週の土曜、私は朝から近所に住む高齢者を中心に、鏡のことについて聞き込みをしていた。
声をかける私に迷惑そうな顔をする人もいるけれど、ほとんどの人は親身になって問いかけに答えてくれた。
とはいえそううまくはいかず、そういう話を聞いたことがあるような……という人は数人いたものの、有力な情報に結びつく証言は今のところ得られていない。
鏡に少し近づいた実感があるからこそ、前に進まないこの状況にじりじりと焦燥感が湧く。
次はどの家を訪問しようかと辺りをぐるりと見回したとき、ふと道の前方に人影を見つけた。彼は私を見つけるなり小走りで駆け寄ってくる。
「山下」
「朔良先輩!」
朝から手分けをして共に聞き込みをしている朔良先輩だ。風に揺れて朔良先輩のさらさらな前髪がふわりと立ち上がる。
「そっちはどうだ?」
「だめ……。朔良先輩は?」
「こっちもだめだ。そううまくはいかないか……」
「だね……」
まだ聞き込みを始めて1日。初日からそううまくはいかないとは理解しつつも、どうしても気が急いてしまう。
がっくり肩を落としたそのとき、ぐるるるる……あまりにその場にそぐわない間抜けな音が響き渡った。認めたくはないが、間違いなく音の発信源は自分の胃だ。よりによってなんでこんなタイミングで。
「あ、えっと、これは……」
真っ赤になった私の頭上で風がそよぐように朔良先輩が笑った。
「そういえばもう15時過ぎだな。だいぶ遅いけど昼食にするか」
海に面したこの街は、坂道が続いている。
海を背にして坂道を進むこと数分、街の端っこにその喫茶店はひっそりと佇んでいる。年季の入った白い壁の外観に、オレンジ色のステンドグラスが嵌めこまれた窓。昭和レトロなその喫茶店に朔良先輩が私を誘ったのは、そこが波琉くんの行きつけの喫茶店だったからだ。
少し前までは波琉くんの残像に飲み込まれるのが怖くて足が進まなかったはずなのに、朔良先輩に誘われて素直に首を縦に振っていたのは多分、鏡捜索の時間を通じて少しだけ自分の心境に変化が起こった証だと思う。
カランカラン。鈴の音が鳴るドアを開けて店内に入ると、景色と匂いが懐かしさを連れてきた。
オレンジがかった温かなライトで照らされた昔ながらを絵に描いたような店内には、コーヒーの香ばしい匂いが充満している。
「こんにちは」
緊張している私の背後から、店の奥に向かって朔良先輩が声を飛ばす。すると間もなく「はいはい」という声と共に、バックヤードの方からマスターがひょっこり姿を現した。
「あらあら。だれかと思ったら。いらっしゃい、久しぶりだね」
ウェイター服に身を包んだ60代後半のマスターが、私たちを見るなり笑顔を見せる。
この喫茶店はマスターがひとりで切り盛りしている。とても気のいいマスターで、私たちが訪れるといつも温かく迎えてくれて、君たちはお得意さまだからねと、決まって一番奥の窓際の席に案内してくれた。
「お久しぶりです」
ぺこりと頭を下げると、マスターがあれ、という表情を作る。
「あの白い髪のお兄ちゃんは? 最近見ないからずっと心配してたんだよ」
波琉くんは隔週でこの喫茶店を訪れていた。それが突然ぱたりと姿を現さなくなって3か月。マスターも異変には気づいていたのだろう。
「えっと……遠くに行ってしまって」
「そうだったんだ……。あのお兄ちゃんにも、いつでもまた来てねって言ってね。オレも会いたいからさ」
「はい。波琉くんも喜びます」
温もりと切なさと。相反するふたつのうち、胸をぎゅうっと絞めつけたのはどちらだっただろう。あるいはどちらもか。
マスターは例によって今日も私たちを一番奥の窓際の席に案内してくれた。
えんじ色のソファーに腰をかけ、普通なら席に置かれたメニュー表を開くところだけど、頼むメニューはもう決まっていた。マスターもそれをわかっているから、お茶目に笑う。
「やっぱりナポリタンかな?」
「はい。ナポリタンふたつ」
波琉くんはここの半熟卵が乗ったナポリタンが好物だった。あんバタートーストやホットケーキなど、おいしそうなメニューが他にも充実しているけれど、波琉くんはいつだってそれしか頼まなかった。
「かしこまりました。ちょっと待っててね」
注文を受けたマスターが厨房の方へと引っ込んでしまうと、私は店内をぐるりと見回した。土曜の昼下がり、カフェタイムだというのに私たちの他に客の姿はない。ここ数年隣町に大型のショッピングモールやおしゃれなカフェが続々と建設され、地元の人もそちらに流れているのだ。
けれどアットホームな雰囲気のこの喫茶店には他のどこにもない良さがあって、新規の客は少ないものの常連の客は多い。
私は水で喉を潤してから、向かいに座る朔良先輩を見つめた。
「変わってないね、ここは」
「ああ、あの頃のままだ」
ここにいるのに、隣に波琉くんがいない。変わってしまったのはそれだけだ。
海と同じくらい、この喫茶店にはよく波琉くんと足を運んだ。朔良先輩を含めて3人で来たことも1度あった気がするけれど、会話らしい会話をした記憶はない。今思えばなんともいえない気まずい空間だった気がする。でも波琉くんが誘ったからというだけで、その空間は成り立っていたのだ。
「はあ、お腹空いた~」
「朝から聞き込み頑張ってたからな」
「朔良先輩こそ」
「そんなことない……と言いたいところだけど、俺もこの匂い嗅いだら腹減ってきたな」
「ふふ。罪な匂いだよねえ」
そんなことを話していると、不意に朔良先輩がじっと私の顔を覗き込んできた。
「なあ、山下」
「なに?」
「前髪切ったか?」
「わかる? 変、かな」
前髪が睫毛についていたため、今朝数ミリだけ切って家を出てきたのだ。
指摘されるとは思わず前髪に指先でいじっていると、不意に朔良先輩が手を伸ばし、その指先が前髪に触れる。
「そうじゃない。可愛いなと思って」
「えっ……。よ、よく気づいたね」
「そりゃずっと見てるから、山下のこと」
なにを思ってか、朔良先輩は私の目からは視線を外さない。私の方が耐え切れなくなって思わず俯く。
「あんまりそういうこと言わない方がいいよ。私みたいな単純な子は勘違いしちゃうから……」
「それでいいんじゃないか?」
「え?」
「山下は勘違いじゃないから」
私を貫く意思のこもった瞳。ぶれない真っ直ぐな声。そこにはどうしても嘘偽りがあると思えない。でも、そうだとしたら――。
どきんと心臓が大きく揺れて、ぼうっと頭の芯が熱を持つ。
するとそのとき、緊張で飽和しかけた空気にマスターの陽気な声が割り込んできた。
「はーい、おまたせ。ナポリタンふたつ。それにタバスコもね」
「あっ、はいっ……」
思わず背筋を伸ばすと、テーブルに二皿のナポリタンが置かれた。
具だくさんの真っ赤なナポリタンの上には、大きな半熟の目玉焼きが乗っている。
「わ……おいしそう……!」
「腕によりをかけて作っちゃったよ。ゆっくりしていってね」
笑顔を残してマスターが行ってしまうと、私は改めて朔良先輩を見た。
「よし、食べよっか」
「だな。じゃあ、ほら」
朔良先輩がテーブルの上のタバスコを差し出してくる。私は笑顔で頷き、そしてほかほかと湯気の立つナポリタンの上で瓶を振る。
タバスコを25滴。それが波琉くんのお決まりの食べ方だった。
しっかり25回数えて瓶を振り、そしてタバスコを朔良先輩に渡せば、朔良先輩も同じ回数のタバスコを自分の皿にかける。
私たちは胸の前で手を合わせ、そして「いただきます」声を揃えた。
半熟の目玉焼きの真ん中をフォークで割れば、とろりとオレンジ色の黄身がどろりとこぼれる。そして目玉焼きを絡めながらパスタをフォークに巻きつけ口に運んだ。直後。
「「辛っ」」
向かいの朔良先輩と声が揃った。目が合って思わずふたりで吹き出す。
「なんだこれ、無駄に辛いんだけど」
「波琉くん、いくらなんでも辛くしすぎ!」
「一ノ瀬の味覚おかしいだろ」
「ほんとだよ。こんなに辛いものをあんな涼しい顔して食べてたなんて」
平然とした表情でこの辛さのナポリタンを食べていた波琉くんに文句をぶつけ、笑い合う。
辛くてたまらないのに、私たちはひーひー言いながらも手を止めることなく無我夢中でナポリタンを頬張り続けた。

