【完】さよならの向こうで待つ君へ




 部屋から数か月ぶりにベランダに出たのは、カーテンのわずかな隙間から覗いた星空があまりに綺麗だったからだった。
 いつもはカーテンを開ける気力もなく閉め切りにしているけれど、お母さんが掃除機をかけてくれたときにカーテンが開いたのか、ベッドから星空が見えたのだ。

「寒……」

 ひんやりとした外気に首を竦め、頭上を見上げれば、空はすぐそこに広がっていた。
 無数の星が瞬く中、なんとなく一等星を見つけようとしてしまうのは、はるちゃんはきっと空でも一番輝いているであろうから。
 手を伸ばしてもはるちゃんには決して届かない。どれだけ近くに見えても、その背中は幾億光年の距離にある。……いつだって。

 ――あれはいつだっただろう。
 多分秋が深まってきた頃。ブラウスから紺のブレザーへと制服の衣替えをして間もなくのことだったと思う。

 生徒がいなくなった放課後の2年生の教室で、私は窓枠に手をつき、秋空に浮かぶリンゴみたいな形の雲を見上げていた。

『今日ね、ユイカにそろそろ彼氏作ったらって言われたの』

 昼休み、お弁当を一緒に食べながら、クラスメイトのユイカが唐突にそう提案してきた。
 ユイカは女子力もコミュニケーション能力も非常に高く、彼氏が常に絶えない。今は大学生の彼氏がいるのだとか。
 そんなユイカ曰く、高校か大学あたりでめぼしい人を見つけておかないと、いい人はみな他の子にとられてしまうらしい。そういえば、ユイカ以外クラスメイトもほとんどみんな彼氏がいる気がする。

『へー』

 他の誰にでもなくあなたに話しているというのに、背中の方から気のない声が返ってくる。
 はるちゃんは自分の席に足を組んで座りスマホをいじっていて、私の話に興味がないのを隠す気もない。

『でもそんなに焦らなきゃいけないのかな。みんなが早すぎるだけだよね?』
『……』
『まだ高校生だし!』
『……』
『そうだよそうだよ、お母さんとお父さんだって社内恋愛だもん』
『……』
『ねえ、はるちゃん、聞いてる?』
『……ん? まー、そのうちできるんじゃないの』

 この話題に飽きたのかあまりに冷めたトーンで突き放すように言われ、その他人事な発言に哀しみと苛立ちが募る。
 はるちゃんが今どんな顔をしているのか、振り返る度胸はなかった。

『はるちゃんは、私に彼氏ができてもなんとも思わないの?』
『そりゃ、お前がだれとどうなろうが俺には関係ないし』
『なんでそんなこと言うの……』
『なんでって。逆にお前はなにを求めてんの? 所詮ただの幼なじみだよね、俺ら』

 容赦のないほど冷静に説き伏せられた。
 スマホの画面を指先でタップする硬質な音が虚しく耳に響く。
 "ただの幼なじみ"。そうだ、私たちの関係はそうでしかない。けれどそれをはるちゃんの口からぶつけられるというのは、私にとってはあまりに残酷なことだった。

 生まれてこのかた彼氏がいないのは、ひとつ年上のこの幼なじみへの恋心を拗らせているからだ。
 本当は告白だってしたい。けれどはるちゃんは私との間に透明な壁を作っている。そうやって心の内に触れさせてくれないのだ。そしてその壁は年追うごとに頑丈になっていて、そこに踏み込む勇気が私にはない。
 だから関係を壊したくなくて必死に気持ちを隠してきたし、はるちゃんも多分それに気づかないふりをしている。私たちの関係はその実薄い氷の上にいるような危ういものだ。

 悔しくて俯く。震える唇を開けば、よれよれの声がこぼれる。

『私ははるちゃんのこと、ただの幼なじみだなんて思ったことない。恋愛対象にだってなるもん……』

 いや、そんな婉曲な表現は適切じゃない。
 本当は恋愛対象なんてはるちゃんしかいない。彼氏だってはるちゃんじゃないと意味がない。

 すると不意にムスクの香りが鼻孔をくすぐった。窓枠についた両手の外側に私を覆うように手が置かれ、さっきまで遠くにあったはずの体温がすぐ背後に迫って。

『知らねえよそんなの。いつまで幼なじみに縋りついてんの』
『……っ』
『めんどくさい女が一番嫌いなの、お前が一番わかってるだろ』

 冷めた声で耳元で囁かれ、反射的にびくんっと肩が揺れる。
 下唇を噛んだまま動けずにいると、窓枠から手が離れ足音が遠ざかっていく。

『はるちゃん……』

 そんなこと言われたらなにも言えないじゃんか。

「……私のこと散々振り回した責任とってよね、ばかはるちゃん」

 空に浮かぶ一等星に向かって文句を呟く。その声はだれに届くこともなく夜空に吸い込まれていった。