「はあ……ゆき子さん、素敵な人だったなあ……」

 ほこほこした気持ちに浸りながら、ゆき子さんの家から駅までの道を歩く。

「だろ。いつか山下にも会わせたいと思ってたんだ」

 隣でそう笑む朔良先輩は、ゆき子さんパワーのせいか心なしかいつにも増してふにゃりとしている。

 あのあと私たちは、昼食とおやつまでいただいてしまった。昼食のホットサンドはチーズがとろけて絶品だったし、おやつの手作りスコーンはしっとりしていて今まで食べた焼き菓子の中で一番と言っていいほどおいしかった。
 本当は夕食も一緒にどう?と誘ってもらったのだけど、あまり遅くなると私のお母さんが心配するだろうという話になり、名残惜しくもお別れしたのだ。
 帰り際、いつでもまた来てねとハグしてくれたゆき子さんは、砂糖菓子のような匂いがした。

「それに収穫もあったしな」
「やっぱり鏡はあったんだね……!」

 鏡はアンティークショップに飾られており、そのアンティークショップは突然目の前に出現するという。
 街中(まちなか)のどこかにあると勝手に思っていたけれど、建物自体が定所に実在しているわけではないため、具体的にどこを探せばいいかわからないという点が難題ではあるが。

「ここからはまた根気との闘いだ。こつこつ聞き込みをしていこう」
「うん、頑張る!」

 胸の前で両手の拳を作り気合いを入れていると、不意に朔良先輩が右の拳を私に向けてきた。その意図に気づき、私は笑顔で拳を突き合わせる。こつんと拳がぶつかった瞬間、気持ちの熱が繋がり合った気がした。
 目を合わせて笑みを交換し合い、それから腕を下げつつ、私はゆき子さんの家にいるときからずっと考えていたことを声に出す。

「私ね、この問題が落ち着いたら、雪那としっかり向き合いたいって思ってるの」
「雪那と、か」
「……うん」

 波琉くんが海で命を絶った日、私は雪那と一緒にいた。その日は日曜で、雪那に誘われて隣町で映画を観て2軒のカフェをはしごした。
 波琉くんが亡くなったのは翌日のことだった。朝、いつも自宅の前で待ってくれているはずの姿がなかなか現れなくて、どうせサボりだろうと呑気に考えて登校したら、学校で波琉くんが亡くなったことを知らされたのだ。

 貧血を起こして早退した私を心配し、雪那は何度も連絡をくれていた。
 けれど茫然自失になった私は、お葬式の日、駆け寄ってきてくれた雪那にむごい思いを吐露してしまったのだ。

『雪那……私、死にたい……』
『え……? なに言って……』
『波琉くんがいない世界なんて生きてる意味ないよ……』

 ――パシンッ。聴覚と触覚、認知したのはどっちが先だったのだろう。
 頬をぶたれたことに呆然とする私が見たのは、怒りと痛みをこらえきれずにいる涙目の雪那の姿だった。

『馬鹿……! 人の気も知らないで……!』

 頬と心に鋭い痛みを残し、雪那は行ってしまった。それから雪那とはずっと顔を合わせていなかった。

 私をぶった、あのときの雪那の表情を忘れることができない。傷ついた人の表情をあんなにもまっすぐ直視したのは多分初めてで、人はこんなにも痛々しい顔をするのかと、ぶたれた頬よりも頭の方が痺れた。
 私はそれだけ雪那に深い傷を負わせたのだ。雪那だって波琉くんが亡くなったことに心を痛めていたはずなのに、私は雪那の気持ちを汲むこともなく、さらに彼女を傷つけ追い込んでしまったのだ。

『私をこんなに笑わせるのは瑠果だけだよ』

 そう言ってくれた雪那をまた笑顔にしたい。あんな表情をさせたままでいいわけがない。

「あの日のこと、ちゃんと謝りたい……。また雪那と一緒にいたい」

 切実な思いを声に滲ませれば、朔良先輩が私に笑みを落とし、背中をぽんと叩いた。

「俺も協力する。大丈夫、雪那だって山下のことを大切に思ってる。だからちゃんとわかり合えるはずだ」
「……ありがと。やっぱり優しいね、朔良先輩は」
「大袈裟だって。そんなことない」
「そんなことあるよ」

 思いがけず朔良先輩の傷を知ることになり、こんなことを言っては不謹慎かもしれないけれど、朔良先輩のことを今までより近くに感じるようになった気がする。
 悩んで苦しんだ分、強くなれるし優しくなれる。だから朔良先輩はきっと強くて優しい。過去も今の朔良先輩の一部なのだ。

 心に募る、この温かい気持ちはなんだろう。
 私は数歩進み、そして朔良先輩を振り返った。水色とオレンジの混ざった淡い世界を背にする朔良先輩は、無駄のない線でその輪郭を描いて浮き上がり、見惚れるほど絵になっている。朔良先輩は今、たしかに私の前に立っている。

「ねえ、朔良先輩。私、ありのままの朔良先輩が好きだよ」

 込み上げた思いをそのまま声に乗せて伝えれば、一瞬ぽかんとした朔良先輩の顔がみるみるうちに赤くなっていく。 

「そ、んな簡単に好きとか言うな」
「え、もしかして照れてる?」
「違……照れてない……!」

 腕で顔を隠そうとする朔良先輩がなんだか可愛くて、つい笑ってしまう。

『今は……大切に思ってるよ、すごく』

 そう口にした言葉に嘘はなく、目の前にいるこの人をこれからも大切にしていきたいと、そう思った。