家の中は女の子の憧れが詰まったような空間だった。可愛い小物や家具で溢れ、ゆき子さんの趣味がめいっぱいに詰めこまれているみたいだ。物は多いけれど雑多な印象はなく、庭の花壇と同様に統一感があって上級者のセンスを感じる。
テーブルの上に、紅茶の入ったマグカップがふたつ置かれた。花の絵があしらわれたマグカップもまた、ゆき子さんのこだわりを感じる。
「まずは紅茶でも飲んで体を温めて」
ゆき子さんはテーブルを挟んで向かい側に座り、並んで座った私たちをにこにこと見つめる。
私たちは「いただきます」と声を揃え、湯気の立つ温かい紅茶をいただいた。
口に含んだ瞬間、香り豊かな風味が鼻を突き抜ける。
「すごくおいしいです……!」
紅茶に詳しいわけではないけれど、このおいしさがわからないほどの馬鹿舌ではない。味に深みと奥行きがあるのを感じる。
ぽかぽかと芯から体が温まっていくようだ。
「よかった。ふたりが来るから、お気に入りの茶葉を調達してきたの」
「ええ、そんな……。ありがとうございます!」
「ふふ、瑠果ちゃんって話に聞いてたとおり、本当に可愛いのねえ」
「え、話……?」
「おい、待って、ゆき子さん」
「朔良に女の子を紹介されるなんて初めてなのよ」
「ちょっと」
「だって嬉しいんだもの」
「ああ、もうっ……」
一枚上手のゆき子さんには朔良先輩も敵わないらしい。朔良先輩がたじたじになっている姿は新鮮で思わずくすくす笑っていると、それに気づいた朔良先輩が気まずそうに咳ばらいをして眉間にしわを寄せる。
「それより、ゆき子さん、本題」
「ああ、そうだったわね。過去と未来に繋がる鏡のことよね」
「はい」
話の舵が切られ、私は背筋を伸ばして居ずまいを正した。
「でもどうして急にその鏡のことを?」
「私たち、過去に戻りたいんです。どうしてもやり直さなければいけない過去があって……。あるおばあさんからその鏡の話を聞いて、過去をやり直すために鏡を探し始めました。どんな些細なことでもいいんです。どうか鏡について教えてください」
「そうなのね」
ゆき子さんが、テーブルの上で両の指を組んだ。そして眉尻を下げてそっと微笑む。
「きっとふたりにとっては大事な過去なのね。私でよければ協力させて。これまでだれにも話してこなかったけど、知っていることは全部話すわ」
「ありがとうございます……っ」
ゆき子さんは詳しいことまで探ろうとせず、私たちに協力すると快諾してくれた。
その心遣いへの感謝で頭を下げれば、隣で朔良先輩も深く頭を下げる。
それからゆき子さんは記憶を取りこぼさないように、慎重に手繰り寄せるような間を纏って声を落としていった。
「朔良は知っていると思うけど、結婚を機にこっちに引っ越すまではずっとあなたたちの街で暮らしていたの。その鏡に出会ったのは、たしか10歳の頃。小学校の帰りに海で寄り道したときのことよ」
緊張で乾く下唇を湿らせ、ゆき子さんの語りに耳を澄ます。
「その頃の私はシーグラスを集めるのが趣味でね。ほら、あの海岸ってシーグラスがたくさん落ちているでしょう? その日も海岸でひとりで夢中になってシーグラスを集めていたら突然……そう、本当に突然、目の前の浜辺にさっきまではなかったはずの建物が現れたの。見たこともないアンティークショップだったわ」
「……アンティークショップ?」
「ええ。小学生がアンティークショップなんて……ましてや得体も知れない建物に近づくなんて、あとから考えたらちょっと不思議だけど、でもそのときは導かれるように気づいたらそのアンティークショップに足を踏み入れていたの」
意識すべてが彼女の話に吸い込まれていく。それはきっと隣の朔良先輩も同じだろう。
「私を迎えたのは、執事みたいなコスチュームを着て、丸眼鏡をかけた糸目の若い男だったわ。人間離れした雰囲気っていうのかしら、得体のしれないその男は、私に言ったの。"あなたは過去と未来、どちらをご所望ですか"って」
――知っているかしら。この地に伝わる言い伝え――過去と未来に繋がる鏡があることを。その鏡を通じて、過去にも未来にも行けるの。
こくりと、唾を飲み込む音が自分の喉からやけに響いて聞こえた。
「男が店の奥を指してね、そこには大きな姿見みたいな鏡があったわ。きっとそれが例の鏡だと思う。好奇心から未来が見たいと言ったら、普通の鏡だったはずなのにそこに未来が映し出されたの。私がおばあちゃんになってからの未来がね。あの顔は間違いなく私だったわ。けど急にそんなことが起こったものだから、子どもだった私は怖くなってアンティークショップを飛び出しちゃったの。そして建物を出て振り返ったら、そこにはもうなにもなかった。忽然とね、まるで幻かのようにアンティークショップは姿を消していたの」
ゆき子さんは組んだ指を自分の方へと引き寄せる。
そこで一旦話を区切るような間ができたけれど、その数秒にも満たない間に聞こえてきた時計の針の秒針が妙に耳に響く。
「こんな現実離れした話、信じてもらえないだろうから今までだれにも話してこなかった。もちろん家族にも友達にも。あれはきっと夢だったんだって必死に自分に言い聞かせて忘れようとしてきたの。でも心の底では夢なんかじゃないって思いが断ち切れなくて……。だってあまりに鮮明に脳裏に焼きついているんだもの。だから朔良から急に電話で鏡の話を振られたときは驚いたわ。やっぱりあれは現実だったのかもしれないって」
「そうだったんですね……」
するとゆき子さんは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさいね、あまり具体的な話ができなくて。後にも先にもそのアンティークショップに遭遇したのはそれきり。どうしてあのとき私の前に現れたのか、今でもよくわからないの」
「そんな、謝らないでください。その鏡の噂は本当だったんだって、それが確信できただけでも大きな前進です。ずっと信じたい気持ちと、嘘かもしれないっていう不安で葛藤してたので、なんだか少しほっとしました」
「それならよかった……。またなにか思い出したら、すぐに連絡するわ」
「はい。お願いします」
「見つかるといいわね、その鏡が」
私はふと隣の朔良先輩を見た。そこには、私の方を向く朔良先輩の眼差しがあって。私たちは意思を確かめ合うようにして小さく頷いた。
「絶対見つけ出してみせます」
声にすることでよりいっそう気持ちが固まった気がする。
すると満足そうに微笑んだゆき子さんが、場を仕切り直すようにぱんと手を叩いて乾いた音をたてた。
「さあ、それじゃあ朔良、ちょっとおつかいを頼んでもいいかしら」
「え?」
急に話を振られた朔良先輩はちょうど紅茶を呷っていたところだった。
「近くにスーパーがあるでしょう? そこでお茶菓子を買ってきてほしいの。紅茶を飲んでいたら喉が渇いちゃった」
「どうしたんだよ急に」
「ほら、お願い」
ゆき子さんに懇願されては、朔良先輩も断り切れなかったのだろう。渋々というように腰を上げ、財布とスマホだけを持って買い出しに出て行った。
でも紅茶をわざわざ調達してくれたゆき子さんが、お茶菓子を切らしていたというのはなんだか少しちぐはぐな気がして、けれどそれは疑問という形を成すには至らなくて。
するとドアが閉まる音を聞き届けたところで、向かい側に座ったゆき子さんが片頬に頬杖をついて微笑んだ。
「よし、これで女子ふたりになったわね。瑠果ちゃん、ガールズトークでもしましょ」
やっぱりお茶菓子が切れていたというのは意図的だったらしい。
「ガールズトーク、ですか?」
わざわざ朔良先輩に席を立たせたということは、朔良先輩に聞かせたくない話があるのだろうか。
戸惑う私に、ゆき子さんはティーカップの持ち手を動かしながら、目を伏せて微笑む。
「朔良のこと、いつもありがとうね」
突然感謝の言葉を向けられて、私は思わず背筋を伸ばして両手を振る。
「ありがとうなんて、そんな……! 私の方がいつも朔良先輩に助けられてばっかりで」
「そんなことないわ。守りたい存在ができたってことが、朔良のためになってると思うの」
「朔良先輩のため……?」
「私には子どもがいなくてね、朔良と雪那のことは本当の子どものように可愛がってた。だからずっとあの子たちのことを案じていたの」
私を信じて心の奥からそっと思いを取り出して差し出してくれている、その感覚に、私は意識をゆき子さんの声に研ぎ澄ませる。
「あの家は少しだけ……いいえ、相当ね、頭が固いところがあって。ほら、あの子たちの父親は弁護士で、母親は教授でしょう。だから小さい頃からふたりには厳しい勉強を強いてきたし、優秀であることが当然だとされてきた」
そのことなら知っていた。北原家はエリート一家だと周囲に一目置かれる存在だ。
ここら辺では著名人だから、お父さんのことはうっすら知っているけれど、厳格そうで近寄りがたいオーラを纏っていた。
「雪那はすごく頭がいいでしょう? 朔良も充分すぎるくらいに優秀だけどいつも雪那と比べられてね。長男なのにどうしてお前は、なんて散々責められて、両親は雪那しか目をかけないようになって、朔良は家族の中で孤立していった」
ゆき子さんの眼差しが過去を見つめるように遠くなり、声には悲哀の色が滲む。
私はそれを固唾をのんで見つめることしかできない。
「それで中学から高校にかけて朔良は荒れてしまった。悪い友達とばかりつるんで非行に走って。自暴自棄だったんだと思う。どこにも居場所がなかったせいなのよね」
「え? あの朔良先輩が……?」
「ええ。いっつも傷ばっかり作って、突然うちに来るんだから」
俄かには信じられなかっら。今、あんなに穏やかに笑う朔良先輩にそんな過去があったなんて。
今、あんなに優しくて温かい言葉をくれる朔良先輩がそんな傷を抱えていたなんて。
「朔良の力になりたいけど、私が干渉することも朔良は望んでいないことはわかってた。だからなにもしてやれない自分にやきもきするばかりで。けど、去年の初夏頃からかしら。久しぶりに会った朔良の目がすごく穏やかになっていてね。根は優しくて真っ直ぐな子だから、本当の自分を取り戻すことができたんだと思う。先月なんか、急に朔良から電話がかかってきたの。友達を映画に誘いたいんだけど、女子はどんな映画が好きなんだろうって。そんなこと聞かれるのは初めてで、ああ、きっとこの子には大切にしたい子ができたんだなって思った」
「……っ」
息をのむ。
――先月、私は突然朔良先輩に映画に誘われた。気になっている映画があるから一緒に行かないかと。
それは有名な童話のプリンセスの実写洋画で、意外過ぎる朔良先輩の好みに驚きながらも、一緒に映画に行くことを約束していた。
けれどその日私は精神的なバランスを崩してベッドから出ることができず、結局ドタキャンをすることになってしまった。
後日謝る私に、俺が観たかっただけだから気にしないでと頭をぽんぽん撫でてくれた朔良先輩の笑顔を今でもよく覚えている。
あの頃私は外に出るといっても週に一度河原まで往復することしかできずほとんど家にこもりきりだったから、気晴らしに映画に連れ出そうとしてくれたのだろう。
そんな優しさが隠れていたことをまったく気づかなかった。いつでもその物静かな優しさに支えられていたというのに。
「だれかのために生きるってね、実はすごい原動力なのよ」
そう言って紅茶を一口啜ったゆき子さんはティーカップをシーサーに置きながら、「あ、このことは朔良には内緒ね。バレたら怒られちゃうから」とお茶目に笑った。
それからティーポットから紅茶を淹れようとして、ティーポットが空になっていたことに気づいたらしい。
「あら、紅茶なくなっちゃった。待ってね、今淹れてくるわ」
椅子から立ち上がりかけて、けれどその動きは私に呼び止められて止まっていた。
「ゆき子さん」
「なあに?」
ゆき子さんはなにかを察してくれたのか、席に座り直して促すような視線を私に向ける。
その温かい眼差しを全身に感じながら、強張る心を奮い立たせ、喉の奥から声を振り絞る。
「……私、恥ずかしいです」
「え?」
「朔良先輩もゆき子さんもすごく優しくしてくれて……。でも私にはきっとそんな価値ないから」
情けないほどに声が震える。どんな顔でゆき子さんを見たらいいかわからなくて、目を伏せたまま下唇を噛む。
「私は失敗したんです」
――失敗。自分の口から放った言葉が、自分の方へと返って胸に突き刺さってくる。
「瑠果ちゃん……?」
「学校に行けてないんです……不登校なんです、私。閉じこもっていることしかできなくて、でも本当は怖くてたまらない。これからどうなっちゃうんだろうって。未来を見ようとすると真っ暗でなにも見えなくて、足が竦んでしまって……」
まわりはみんな将来に向けて助走を始めていて、きっとその先に輝かしい未来を描いている。でも私は途中でそのレールから外れ、大きなハンデを負ってしまった。
……どうしてこんな弱音を、私は初対面であるゆき子さんに打ち明けているのだろう。自分でも少し戸惑っているけれど、それはきっと彼女のすべてを包み込んでくれるような温かさが成すものなのだろう。
この人は私の欠陥すらも笑わず受け止めてくれる。その揺るぎない信頼は、朔良先輩に対するものと似ていた。
「学校に行かなきゃってわかってる。でも怖いんです、まわりの目が。あの子は失敗しちゃった可哀想な子だって、そう思われるのが……」
本当はあの部屋に閉じこもって、未来から、現実から目を逸らし続けているだけなのだ。臆病な自分を守るために。
こんな自分が情けなくて恥ずかしくて、自己嫌悪に溺れそうになる。
するとテーブルの上で握りしめていた左の拳に、ゆき子さんの手が重ねられた。強張り指先まで冷え切ったその手が、温もりによってゆっくりとほどけていく。
「そういう目を向けてくる人がいるのは、悲しいけど現実かもしれない。でも瑠果ちゃんの失敗がだれかに迷惑をかけた? とやかく口を出してくる人にとって、瑠果ちゃんの人生は他人事でしかないの。あなたの人生はあなただけのもの。瑠果ちゃんの心も体もひとつしかないの。あなたが幸せになれる道だけを考えて」
「……っ」
涙の熱が喉元をせり上がり、くっと息が詰まる。ゆき子さんの言葉がまっすぐ胸の奥へと届き、胸を打たれたからだ。
震える瞳で見上げれば、そこには泣きたくなるほど優しい笑みを浮かべるゆき子さんがいた。
「実は私も心を病んでしまって、必死に頑張って就職した会社を退職したの。そのときは絶望しかなかった。今までの努力が水の泡になったんだって、私の人生もう終わったって、毎日泣いてたわ。多分これを人は失敗って言うんでしょうね」
「ゆき子さんも……?」
「ええ」
境遇は違えど、ゆき子さんも似た経験をしていたのだ。その痛みがわかるからこそ、ゆき子さんの分もきゅうっと胸が痛む。
けれどつらい過去とは裏腹に、彼女の口調は凪いでいた。
「でもね、そもそも挫折は過ちではないし、寄り道は甘えじゃないの。歩くペースは人それぞれなんだから。……なんて、あの頃の私はわからなかったんだけどね。そのことに気づけたのは、自分が転ぶことができたから。その経験があったからこそ視野が広がって、人の痛みもわかるようになった」
――きっと悩んで苦しんだ分、強くなれるし優しくなれる。
そう言った朔良先輩の声が鼓膜で蘇り、目の奥がじんと熱をもつ。
「それに実のことを言うと、今ではあのときの心の痛みをよく覚えていないの。今の痛みもいつかは過去になる。そう思うと少しだけ痛みが愛おしく思える気がしない?」
そう言って軽やかに微笑むゆき子さんははっとするほど綺麗で、痛みさえ武器にできる彼女が心から羨ましく思えた。私もいつかゆき子さんのようになれるだろうか。
「……って、ごめんなさいね、長々と話しちゃって。おばさんのお節介だと思って今回は見逃してやってね」
苦笑を浮かべて謝るゆき子さんに、私は涙の熱を必死に飲み込み、ふるふると頭を横に振る。
「そんな。ありがとうございます。こんなに親身に話を聞いてくださって……」
「ありがとうなんて、そんな堅苦しいこと言わないで。私はもう瑠果ちゃんの味方なんだから」
「ゆき子さん……」
彼女のまっすぐな言葉が、私の心を抱きしめてくれるようで。私はその腕に身を委ねるように、ゆき子さんの言葉に手を伸ばす。
「弱さを曝け出せるのも心の強さ。隣にいる人に寄りかかることも大切なことよ。朔良も嫌なことは嫌って言うし、ちゃんと自分の意思を持った子だから大丈夫。あの子のことを信じてあげて」
「はい」
たしかな実感と共に頷いたそのとき、不意に玄関のドアが開く音がした。続けて「ただいまー」と廊下の方から朔良先輩の声がする。
私とゆき子さんは顔を見合わせて笑い、そして声を揃えた。
「おかえり」

