黒蛇の窺う視線に気がつき、花緒は慌てて和紙を畳んだ。
「申し訳ございません」
「なぜ謝る?」
「私物を、勝手に持ち込んでしまいましたので……」
生贄の身でありながら、黒蛇に許可なく勝手なことをしてしまった。黒蛇が捨てろと言うのなら素直に従うつもりだった。
けれども黒蛇は、意外なことを口にした。
「……それをどこで拾った?」
「え? あの、黒蛇様にお会いする前日、『現世』で私の部屋に舞い落ちて来たのです。もう梅雨も明けたというのに、不思議ですよね。でも、なんだかご縁を感じて……」
花緒はきょとんとして答える。
やはり勝手に持ち込んで黒蛇の気に障ってしまっただろうか。
黒蛇は、どこか気まずそうに視線を逸らした。
「そうか……」
「あの、申し訳ございません。もし許されないことでございましたら、すぐに捨ててまいります」
長らく染みついた虐げられる者としての振る舞い。主人の命には逆らうまいと、花緒は座面に頭をつける勢いで頭を下げる。
黒蛇は僅かに焦った様子で軽く首を振った。
「いや。それはおまえが持っていてくれ」
「……?」
黒蛇はそれきり黙り込んでしまう。この桜の花びらに、彼は見覚えがあるのだろうか。黒蛇の様子を見るに、これ以上聞いても何かを答えてはもらえないだろう。
花緒としては、この花びらを持っていてもよいと許可をもらえただけで充分だった。自分にとっては、『現世』からついて来てくれた友のように大切なものだったから。
花緒は和紙に包まれた桜の花びらをそっと手で包み込む。黒蛇は、花緒のその仕草を何も言わずに見守っている。
(不思議な人……。とても恐ろしい方なはずなのに)
黒蛇は、花緒を不必要に怖がらせることはない。むしろ丁寧に扱ってくれているように思える。ただの贄なのだから、ぞんざいに扱うことだってできただろうに。
花緒は、和紙を大切に胸もとにしまいながら、黒蛇に控えめに頭を下げる。
彼に喰われる運命は変わらずとても恐ろしい。けれども、一緒にいることの恐怖は少しだけ薄らいでいることに、花緒は気がつき始めていた。
***
人力車が大通りを抜けると、やがて立派な門構えの屋敷が前方に見え始めた。靄に覆われていて全容は目視できない。けれども、とてつもない広さだと花緒にも分かった。
人力車は石壁に囲われた表門をくぐる。すると、黒い屋根瓦に白塗りの漆喰の壁を持つ、美しい武家屋敷が花緒を出迎えた。屋敷の手前には見事な日本庭園が広がっている。その一角に大きな池があり、朱塗りの弓型の橋が掛けられていた。
花緒は唖然とする。
(なんて広いの……! 泉水家のお屋敷とは比べ物にならないくらいだわ)
ここが黒蛇の住居なのだろうか。帝都の帝が住む屋敷だと言われてもおかしくはない。ここで自分は黒蛇に喰われて死ぬのだろうか。
(自分の時間は、もう僅かも残されていないのかもしれない)
諦めに似た心地になる。元より自分は黒蛇の贄となるためにやって来たのだ。ここまで丁重に扱われていた時間が、泡沫の夢のようなものだったのだ。
広く美しい日本庭園が、花緒の目には死後の天の園のように思えた。
「申し訳ございません」
「なぜ謝る?」
「私物を、勝手に持ち込んでしまいましたので……」
生贄の身でありながら、黒蛇に許可なく勝手なことをしてしまった。黒蛇が捨てろと言うのなら素直に従うつもりだった。
けれども黒蛇は、意外なことを口にした。
「……それをどこで拾った?」
「え? あの、黒蛇様にお会いする前日、『現世』で私の部屋に舞い落ちて来たのです。もう梅雨も明けたというのに、不思議ですよね。でも、なんだかご縁を感じて……」
花緒はきょとんとして答える。
やはり勝手に持ち込んで黒蛇の気に障ってしまっただろうか。
黒蛇は、どこか気まずそうに視線を逸らした。
「そうか……」
「あの、申し訳ございません。もし許されないことでございましたら、すぐに捨ててまいります」
長らく染みついた虐げられる者としての振る舞い。主人の命には逆らうまいと、花緒は座面に頭をつける勢いで頭を下げる。
黒蛇は僅かに焦った様子で軽く首を振った。
「いや。それはおまえが持っていてくれ」
「……?」
黒蛇はそれきり黙り込んでしまう。この桜の花びらに、彼は見覚えがあるのだろうか。黒蛇の様子を見るに、これ以上聞いても何かを答えてはもらえないだろう。
花緒としては、この花びらを持っていてもよいと許可をもらえただけで充分だった。自分にとっては、『現世』からついて来てくれた友のように大切なものだったから。
花緒は和紙に包まれた桜の花びらをそっと手で包み込む。黒蛇は、花緒のその仕草を何も言わずに見守っている。
(不思議な人……。とても恐ろしい方なはずなのに)
黒蛇は、花緒を不必要に怖がらせることはない。むしろ丁寧に扱ってくれているように思える。ただの贄なのだから、ぞんざいに扱うことだってできただろうに。
花緒は、和紙を大切に胸もとにしまいながら、黒蛇に控えめに頭を下げる。
彼に喰われる運命は変わらずとても恐ろしい。けれども、一緒にいることの恐怖は少しだけ薄らいでいることに、花緒は気がつき始めていた。
***
人力車が大通りを抜けると、やがて立派な門構えの屋敷が前方に見え始めた。靄に覆われていて全容は目視できない。けれども、とてつもない広さだと花緒にも分かった。
人力車は石壁に囲われた表門をくぐる。すると、黒い屋根瓦に白塗りの漆喰の壁を持つ、美しい武家屋敷が花緒を出迎えた。屋敷の手前には見事な日本庭園が広がっている。その一角に大きな池があり、朱塗りの弓型の橋が掛けられていた。
花緒は唖然とする。
(なんて広いの……! 泉水家のお屋敷とは比べ物にならないくらいだわ)
ここが黒蛇の住居なのだろうか。帝都の帝が住む屋敷だと言われてもおかしくはない。ここで自分は黒蛇に喰われて死ぬのだろうか。
(自分の時間は、もう僅かも残されていないのかもしれない)
諦めに似た心地になる。元より自分は黒蛇の贄となるためにやって来たのだ。ここまで丁重に扱われていた時間が、泡沫の夢のようなものだったのだ。
広く美しい日本庭園が、花緒の目には死後の天の園のように思えた。

