頭巾の妖魔の引く人力車は、思いのほか速かった。あっという間に雑木林を抜け、細い畦道を駆け抜けていく。水田に、空に浮かぶ月が映り込んでいた。
人力車に揺られながら、花緒は目を瞠る。
(赤い月……?)
花緒は咄嗟に空を見上げる。『常世』の夜空には真っ赤な月が覗いていた。
『現世』で見る月は仄かに光る黄色だった。だが『常世』の月は赤色なのだ。赤い月は変容と再生の象徴だと聞く。『常世』は亡くなった人たちが輪廻転生を待ちながら暮らしている。高等妖魔が人の姿をとるのはそのためだと言われているのだ。
(赤い月は、人びとの魂を生まれ変わらせる『常世』にぴったりだわ)
花緒は、仄かに赤く輝く月に釘付けになる。黒蛇が気遣うように手を伸ばした。
「そのように身を乗り出していたら落ちる。……月が珍しいのか?」
「も、申し訳ございません……! 赤い月が、珍しかったので」
花緒は振り向いて平謝りをする。黒蛇はどこか決まり悪そうに、花緒に伸ばしかけていた手を引っ込めた。花緒は下げられてしまった黒蛇の手元を見やる。
(……もしかして、私が落ちないよう助けようとしてくださったのかしら)
自分は贄姫だ。傷がつかないよう、黒蛇が注意することは当然のこと。それでも花緒は、黒蛇のさりげない優しさが感じられて少しだけ恐怖が和らいだ。
***
そのあとは特に二人の間に会話はなく。それでも気まずい雰囲気ではなく、穏やかな時間が続いた。人力車が畦道を往くと、やがてぽつらぽつらと瓦葺屋根の家が見え始める。町が近いのだろう。
遠くからだろうか。風に乗ってお囃子の音が聴こえてくる。笛や三味線、太鼓の軽快な音楽に花緒は耳を澄ませた。
(どこかでお祭りでもやっているのかしら?)
夜の『常世』の雰囲気を肌で感じる。ここは確かに『常世』の住人の生きる世界なのだ。自分たち『現世』の者と同じように彼らの暮らしている場所。そう思うと、変わらず怖い気持ちはあるけれど、少しだけ興味が湧く。彼らはどんな生活を送っているのだろうと。
(あ――……!)
大鳥居を潜ると、人力車は町の大通りを進み始めた。通りの両側に続く長屋。露店が軒を連ねており、肉串の焼ける香ばしい匂いや、餡子の入った饅頭を蒸す甘い香りが漂ってくる。それらを売る隻眼の妖魔の闊達な声、その妖魔に負けじと隣の屋台から客を呼び込む人間の商売人。おそらく転生待ちの者なのだろう。
売り物を物色する客たちは、単衣姿の人間もいれば首の長い女の妖魔もいる。二人は知古なのか、籠を片手に何を買おうかと楽しそうに談笑している。
出店の中には的屋もあるようで、妖魔と人の子が楽しく競い合いながら射的や金魚すくいに興じていた。そんな子どもたちをそれぞれの母親が後ろから優しく見守っている。
人と妖魔の入り混じる混沌とした光景は、そこに生きる者達の活気に溢れている。
長屋の屋根に吊り下げられている提灯の橙色の灯りが連なり、『常世』の夜の闇を目の滲むような美しさで彩っていた。
(綺麗……それになんだか、とても……懐かしい)
ツン、と鼻の奥が沁みる感覚がした。花緒は滲んで見える周囲の光景が灯りだけのせいではないと知る。目の前の景色が、もう手の届かない幼い頃の思い出と重なって、一筋の涙が頬を滑り落ちた。
贄姫の痣が現れるまでは、家族で町の縁日に出かけたこともあった。まだ小さかった珊瑚と手を繋いで、二人で一つのりんご飴を舐めたり、金魚すくいをして赤くて小さな金魚を持ち帰ったりしたこともあった。なんてことのない、ありふれた家族の情景。
(あのとき、珊瑚は一匹も金魚が掬えなくて、私のを分けたのよね)
金魚を受け取ったときの珊瑚の嬉しそうな笑顔を、今でも覚えている。夜の提灯に照らされて頬を赤くした珊瑚の喜ぶ姿。自分の胸が熱くなるほどに嬉しかった。
(――小さな私は、ちゃんと幸せだった)
手を繋いだ自分と珊瑚の小さな背中が、目の前の『常世』の祭りの中を駆けていく。その幻は、花緒の失われた昔日の思い出として消えていった。
自分は独りになってしまった。もうあの時に戻ることは叶わないのだ。
花緒は、滲んだ涙を指先で拭う。過去に別れを告げるように。自分が強がっていることはわかっていた。本当は泣き叫びたいほど怖いのだ。知らない場所で、独りで怖くて寂しくて。幼い日の温かい思い出に、すがってしまいたくなるほどに。
知らないうちに唇を噛みしめていたのだろう。僅かに血の錆びついた味が口内に広がる。そんな花緒を、黒蛇が僅かに見やった。
「……大丈夫だ」
「黒蛇様……」
黒蛇は言葉少なであったが、それが花緒を励ましているのだろうことは分かった。俺がついていると、そう言われたような気がした。
自分でも不思議だけれど、彼の言葉は自分に安心感を与えてくれる。心の奥の冷え切った部分をそっと温めてくれるかのように。彼が『常世』で共にいてくれるからだろうか。これから自分は、彼に喰われる運命だと言うのに。
花緒は自分の心を落ち着けようと、胸元に手を当てる。そのときふと、着物の合わせの裏に潜ませた和紙に気がついた。
(……そういえば、持ってきたんだった)
ひっそりと和紙を取り出す。中には、綺麗に包まれた一枚の桜の花びら。
花緒が自分の意思で『現世』から持ってきた唯一の物だった。
――『常世』まで一緒について来てくれてありがとう。
花緒は密かに花びらにお礼を言う。贄姫として捧げられる日の前日、この花びらが励ますように花緒の前に舞い落ちてきてくれたのだ。それがとても心強かったのを思いだす。
花緒が手のひらに乗せた花びらに見入っていると、黒蛇がそっと覗き込んだ。
「それは……――」
人力車に揺られながら、花緒は目を瞠る。
(赤い月……?)
花緒は咄嗟に空を見上げる。『常世』の夜空には真っ赤な月が覗いていた。
『現世』で見る月は仄かに光る黄色だった。だが『常世』の月は赤色なのだ。赤い月は変容と再生の象徴だと聞く。『常世』は亡くなった人たちが輪廻転生を待ちながら暮らしている。高等妖魔が人の姿をとるのはそのためだと言われているのだ。
(赤い月は、人びとの魂を生まれ変わらせる『常世』にぴったりだわ)
花緒は、仄かに赤く輝く月に釘付けになる。黒蛇が気遣うように手を伸ばした。
「そのように身を乗り出していたら落ちる。……月が珍しいのか?」
「も、申し訳ございません……! 赤い月が、珍しかったので」
花緒は振り向いて平謝りをする。黒蛇はどこか決まり悪そうに、花緒に伸ばしかけていた手を引っ込めた。花緒は下げられてしまった黒蛇の手元を見やる。
(……もしかして、私が落ちないよう助けようとしてくださったのかしら)
自分は贄姫だ。傷がつかないよう、黒蛇が注意することは当然のこと。それでも花緒は、黒蛇のさりげない優しさが感じられて少しだけ恐怖が和らいだ。
***
そのあとは特に二人の間に会話はなく。それでも気まずい雰囲気ではなく、穏やかな時間が続いた。人力車が畦道を往くと、やがてぽつらぽつらと瓦葺屋根の家が見え始める。町が近いのだろう。
遠くからだろうか。風に乗ってお囃子の音が聴こえてくる。笛や三味線、太鼓の軽快な音楽に花緒は耳を澄ませた。
(どこかでお祭りでもやっているのかしら?)
夜の『常世』の雰囲気を肌で感じる。ここは確かに『常世』の住人の生きる世界なのだ。自分たち『現世』の者と同じように彼らの暮らしている場所。そう思うと、変わらず怖い気持ちはあるけれど、少しだけ興味が湧く。彼らはどんな生活を送っているのだろうと。
(あ――……!)
大鳥居を潜ると、人力車は町の大通りを進み始めた。通りの両側に続く長屋。露店が軒を連ねており、肉串の焼ける香ばしい匂いや、餡子の入った饅頭を蒸す甘い香りが漂ってくる。それらを売る隻眼の妖魔の闊達な声、その妖魔に負けじと隣の屋台から客を呼び込む人間の商売人。おそらく転生待ちの者なのだろう。
売り物を物色する客たちは、単衣姿の人間もいれば首の長い女の妖魔もいる。二人は知古なのか、籠を片手に何を買おうかと楽しそうに談笑している。
出店の中には的屋もあるようで、妖魔と人の子が楽しく競い合いながら射的や金魚すくいに興じていた。そんな子どもたちをそれぞれの母親が後ろから優しく見守っている。
人と妖魔の入り混じる混沌とした光景は、そこに生きる者達の活気に溢れている。
長屋の屋根に吊り下げられている提灯の橙色の灯りが連なり、『常世』の夜の闇を目の滲むような美しさで彩っていた。
(綺麗……それになんだか、とても……懐かしい)
ツン、と鼻の奥が沁みる感覚がした。花緒は滲んで見える周囲の光景が灯りだけのせいではないと知る。目の前の景色が、もう手の届かない幼い頃の思い出と重なって、一筋の涙が頬を滑り落ちた。
贄姫の痣が現れるまでは、家族で町の縁日に出かけたこともあった。まだ小さかった珊瑚と手を繋いで、二人で一つのりんご飴を舐めたり、金魚すくいをして赤くて小さな金魚を持ち帰ったりしたこともあった。なんてことのない、ありふれた家族の情景。
(あのとき、珊瑚は一匹も金魚が掬えなくて、私のを分けたのよね)
金魚を受け取ったときの珊瑚の嬉しそうな笑顔を、今でも覚えている。夜の提灯に照らされて頬を赤くした珊瑚の喜ぶ姿。自分の胸が熱くなるほどに嬉しかった。
(――小さな私は、ちゃんと幸せだった)
手を繋いだ自分と珊瑚の小さな背中が、目の前の『常世』の祭りの中を駆けていく。その幻は、花緒の失われた昔日の思い出として消えていった。
自分は独りになってしまった。もうあの時に戻ることは叶わないのだ。
花緒は、滲んだ涙を指先で拭う。過去に別れを告げるように。自分が強がっていることはわかっていた。本当は泣き叫びたいほど怖いのだ。知らない場所で、独りで怖くて寂しくて。幼い日の温かい思い出に、すがってしまいたくなるほどに。
知らないうちに唇を噛みしめていたのだろう。僅かに血の錆びついた味が口内に広がる。そんな花緒を、黒蛇が僅かに見やった。
「……大丈夫だ」
「黒蛇様……」
黒蛇は言葉少なであったが、それが花緒を励ましているのだろうことは分かった。俺がついていると、そう言われたような気がした。
自分でも不思議だけれど、彼の言葉は自分に安心感を与えてくれる。心の奥の冷え切った部分をそっと温めてくれるかのように。彼が『常世』で共にいてくれるからだろうか。これから自分は、彼に喰われる運命だと言うのに。
花緒は自分の心を落ち着けようと、胸元に手を当てる。そのときふと、着物の合わせの裏に潜ませた和紙に気がついた。
(……そういえば、持ってきたんだった)
ひっそりと和紙を取り出す。中には、綺麗に包まれた一枚の桜の花びら。
花緒が自分の意思で『現世』から持ってきた唯一の物だった。
――『常世』まで一緒について来てくれてありがとう。
花緒は密かに花びらにお礼を言う。贄姫として捧げられる日の前日、この花びらが励ますように花緒の前に舞い落ちてきてくれたのだ。それがとても心強かったのを思いだす。
花緒が手のひらに乗せた花びらに見入っていると、黒蛇がそっと覗き込んだ。
「それは……――」

