黒蛇様と契りの贄姫

「花緒、準備はできたか」
「桜河様! 申し訳ございません。すぐ参ります!」

 夕方。いつもよりも早めの夕餉を済ませ、花緒は二度目の巫女装束に袖を通していた。廊下から桜河の呼ぶ声が聞こえ、急いで千早を羽織る。白檀のお香に枯れ葉の匂いが混じり、晩秋の訪れを感じさせる。初めての『浄化の儀』から早二か月――今日再び、浄化の儀に臨む。
 身支度を終えた花緒は、姿見から少し離れたところに立った。普段よりも一層丁寧に施された化粧。梅の手により丁寧に結ばれた髪。皺ひとつない巫女装束。前回と変わらぬ姿。だが、そこに映らぬ花緒の心は確実に変化していた。
 卑下は自信に。重圧は誇りに。ありのままの自分を愛せるように。
 それは常世の人々との関わりを通して学び、経験してきたことで得られた花緒の成長の証だ。鏡に映る自分は、以前よりもずっと力強い眼差しで見返してくる。その頼もしさを宿した顔にふっ、と笑みを浮かべ部屋を後にしようとした時だった。
 翻した千早が文机に置いた本の端に触れ、はらりと何かが床に落ちた。花緒は白いそれを拾い上げる。桜の花弁を包んでいた和紙だった。

(……ここにあったんだ)

 桜河を助けたあの日、花弁は眩い光を放ちながら消えてしまった。気を失ってしまったことで、残った和紙の行方を知らぬままだった。梅が拾ってくれたのだろうか。
 花緒は和紙を胸元にしまおうとして、ふと動きを止める。そして暫く和紙を見つめると、机の引き出しにそっとしまい込んだ。
 現世からずっと自分と共に歩んできた友はもういない。だけど、不安はない。
 自分はもう、独りではないから。
 多くの人々に支えられながら、桜河と共にこの国を守っていく。
 きっとこの先、どんな困難が待ち受けようとも乗り越えていける。
 愛する者たちと共に、自分はここで生きていく。

(助けてくれてありがとう。私はもう、大丈夫)

 神楽鈴を手に取り、足早に部屋を出る。

「行って参ります!」


          ***


 慶桜一六〇年十月三十日 午後六時半――黒姫国の民は皆、一様に夜空を仰いでいた。
 在る者は仕事の手を止め、また在る者は家族みんなで寄り集まって。
 上空からは満天の星屑が落ちてきたような光の雨が降り注ぐ。
 それは歴代最強の妖の王――黒蛇様の贄姫が奉戴したことを告げる、淡く優しい浄化の光だった。


END.