黒蛇様と契りの贄姫

 涙の止まらぬ瞳を、桜河の指が優しく拭う。

「そんなに泣かないでくれ。お前の涙を見るのは胸が痛む」
「桜河様……わたしっ……」

 貴方にまだ、言えていないことがあるの。
 貴方は自分のことを、強い男じゃないと卑下したけれど。
 私だって貴方が思うほど、立派な人間じゃない。
 それでも私の全てを知ってほしい。
 この不器用に生きてきた、不恰好な生き様を。
 これが私なんだと、伝えたい。
 貴方がそうしてくれたように。
 静かに涙を流し続ける花緒に、桜河は申し訳なさそうに俯く。

「花緒……本当にすまなかった……」
「ごめんなさい、違うんです……桜河様が、そのように思ってくださっていること、とても嬉しいです。そんな風に言っていただけて、本当にここに来られて良かったと、私も心からそう思います……だけど私は……桜河様の思うような人間じゃないんです……」
「……」

 桜河は困惑した顔をして押し黙ってしまう。掛ける言葉を必死に探しているようだった。
 花緒は呼吸を整えると、穏やかな目線で桜河を見つめた。

「……桜河様。私の話も、聞いていただけませんか。かつて現世に住んでいた、一人の少女のお話を――」

 花緒は、現世で不遇だった身の上を包み隠さず桜河に話した。父親の定正から冷遇されていたこと。妹の珊瑚の蛮行。大好きだった母の死。運命に嘆くばかりで全てを諦め、常に後ろ向きだった自分。常世に来てからは、そんな過去の自分を必死に隠そうとしていたこと。自分の過去が桜河を失望させ、傷つけることへの恐怖。自分自身が、過去を受け止められなかった弱さ。常世の皆と関わる中で変化した心境。今の想い。
 桜河はただただ、静かに聞いていた。一通り話し終えると、二人の間に沈黙が流れる。
 全てを話してしまった。失望されただろうか。
 桜河の表情を伺うのが怖くて、花緒は隣を見ることができなかった。だが、存外胸の内はすっきりしていた。どんな反応が返ってこようと、受け止める覚悟はできていた。

「……すまなかった」
「え……」

 予想だにしなかった桜河の謝罪の言葉に困惑する。

「何となく……分かってはいたんだ。俺に話せないことがあるのだろうということも……それが恐らく、現世に関わることなのだろうということも……。現世のことに触れると、おまえの笑顔が曇ってしまうから」
「桜河様……」

 桜河の困ったような微笑みに、花緒は顔を俯けてしまう。

「だからおまえの過去に踏み込んで、その笑顔を二度と俺に向けてくれることがなくなってしまったら……そう思うと、怖くて聞けなかった。もっと早く向き合っていれば、おまえに苦しい思いをさせることもなかっただろうに。おまえが現世で笑えなくなってしまったのも、今日までずっと、必死に取り繕うことになってしまったのも、全部……俺のせいだ」

 自責の念に駆られる桜河に花緒は食い気味に否定する。

「それは違います。常世でみんなと触れ合ううちに、私は身も心も強くなることができました。桜河様に一番にお伝えしたいことは、こんな私を桜河様の贄姫に選んでくださってありがとうございます。その感謝の気持ちなのです」
「花緒……」

 花緒の話を聞き終えた桜河は、初めこそ申し訳なさそうに視線を伏せていた。けれども花緒が吹っ切れていることが分かると、しみじみと頷いた。

「おまえは本当に……強くなったな」

 そう言って花緒を見つめる優しい眼差しに、花緒は胸がいっぱいになる。

「……桜河様。私、今、本当に幸せなんです。私こそ、桜河様と出会えたことが僥倖なのだと思います。だから……本当に、ありがとうございます」

 精一杯の感謝と、ほんの少しのいたずら心。先ほど彼に貰った言葉を引用し、同じだけの気持ちを束ねて贈り返した。それに気づいたのか、桜河の目が驚いたように見開く。
 桜河のその様子に愛しさがこみ上げ、花緒ははにかんだような笑顔を浮かべた。その笑顔は誰よりも美しかった。