……これは今から百五十年以上も前の話。一人の少年がいた。父親は当時の妖の王。その贄姫だった母親と共に、黒姫国を守っていたのだ。父親もまた、強大な力をもった王だった。暗黒期が続いていた黒姫国をたった一代で人々が豊かに暮らせる土地へと復興させたのだ。人々はそんな王と贄姫を崇め称えた。少年もまた、国を守る二人の両親を誇らしく思っていた。いつか自分も、あの背中のように自分の選んだ贄と共に国を守っていきたいと。
……だがある日、現世から何らかの理由で強い毒気が大量に流れ込んで来てしまった。二人は蛇門に赴いた。そこでは、周囲に満ちた毒気に侵され、次々と狂妖に堕ちていってしまった妖魔たちの喘ぎ苦しむ姿があった。そして王もまた……かつてないほどの強い毒気に中てられ、体内に溜め込める毒気の限界を超えてしまったのだ。王が倒れても必死に浄化にあたっていた贄姫もまた、自分の死が迫っているのを感じていた。人間の身体とはいえ、妖の血を分け与えられた半妖に近い状態。あまりにも強い毒気に中てられ続ければ、どうなるか。恐らくもう、ここにいる者は誰も助からない。それを悟った贄姫は、自らの生命力を犠牲にして限界まで妖力を高めたのだ。
……夕方から出かけていった二人が少年の元へ帰ってきたのは、深夜になってからだった。結果として、黒姫国に蔓延していた強い毒気は払われた。だが、戻ってきた二人の体は既に……見るに堪えない状態だった。帰りが遅いことに不安を抱え待っていた少年は、その惨憺たる光景を目の当たりすることになってしまったのだ。
辺り一面に散らばる黒。黒。黒。
懸命に抑えようとした傷口から噴き出す血を浴び真っ黒に染まる自分の着物。
鼻を突く強烈な血の臭い。
氷のように冷たくなっていく両親。
血相を変えた屋敷の者達の駆けずり回る足音。
誰のものともつかぬ叫び声。怒号。泣き声。
ボロボロと塵となって崩れていく血濡れの骸――
それ以来、血の目立たない黒ばかりを好んで着るようになった。
誰かが倒れるのを見るのが怖くなった。
町で虚葬して返り血を浴びた日は、毎晩悪夢に魘された。
***
「……情けない話だが……『最強の妖の王』などと謳われている男は、皆が思うほど強い男などではないのだ」
「……」
『浄化の儀』で父親と母親を失ってしまった過去。それがあったからこそ、桜河は花緒を儀式で失うことを過度に恐れたのだろう。
――『二度と失いたくない』。
(あの言葉の裏には、そんな思いが――)
あまりの過去に花緒は言葉が出なかった。過去に贄姫が居たのだろうかと、邪な気持ちで嫉妬していた自分が恥ずかしくなり、俯く。
「妖の王の運命は二つに一つ。退位して寿命を全うするか、毒気を背負いきれずに狂妖と化して死ぬか。これまでの常世の歴史の中で、その多くは綺麗な最期を迎えられなかったという。贄を選ぶということは、自身の運命を強制的に背負わせるということ。俺は……これ以上、大切な者を失うのが怖くて、これまで贄を選ぶことには踏み切れなかった。両親のように死ぬのが運命であるのなら、贄を道連れにするよりも一人で死ぬ方が良いと、そう……思っていたんだ」
花緒は息を呑む。山吹の父親もまた、毒気を受けすぎて全身から血を噴き出して亡くなったと言っていた。毒気を受けすぎると、皆等しく凄惨な最期を迎えるのだろう。贄姫としての力が及ばなければ、いつ、どうなるのか分からない。
「だが、俺はおまえを選んだ」
「!」
「これからおまえに、何度危険な目に遭わせることになるか分からない。それを分かっていて、おまえを贄姫に選んでしまったことを、どうか許してほしい。この場でこんなことを言うのは、卑怯な男だと罵ってくれても構わない。それでも俺は……おまえを贄姫に選んだことを、今、心の底から良かったと思う」
「桜河様……」
「花緒。改めて、黒姫国を……俺を助けてくれて、本当にありがとう。おまえに出会えたことは、俺にとって最大の僥倖だ」
桜河の言葉一つ一つが、花緒の胸の中にじわりと熱を持って染み込んでいく。その熱はいつしか花緒の頬を伝い、幾つもの透明な雫となって滑り落ちていた。視界はぼやけた光に包まれ、何も見えない。溢れた涙を止めることができなかった。
(ああ、私はずっと――)
この言葉が欲しかったのかもしれない。
花緒は、自分が生きていて良い理由を探していたのだと、この時初めて思った。贄姫として力が及ばなければ、自分に価値はない。そう自分に言い聞かせ、必死に食らいついてきた日々だった。いくら知識を身に着けても、舞が上達しても、妖力操作を身に着けても、決して消えることのなかった不安。そんな花緒のささくれ立った心を包み込んだ、桜河の言葉。これ以上ないほど力強く自分の存在を肯定するその言葉に、花緒はようやく自ら背負っていた心の荷を下ろすことができたのだった。
……だがある日、現世から何らかの理由で強い毒気が大量に流れ込んで来てしまった。二人は蛇門に赴いた。そこでは、周囲に満ちた毒気に侵され、次々と狂妖に堕ちていってしまった妖魔たちの喘ぎ苦しむ姿があった。そして王もまた……かつてないほどの強い毒気に中てられ、体内に溜め込める毒気の限界を超えてしまったのだ。王が倒れても必死に浄化にあたっていた贄姫もまた、自分の死が迫っているのを感じていた。人間の身体とはいえ、妖の血を分け与えられた半妖に近い状態。あまりにも強い毒気に中てられ続ければ、どうなるか。恐らくもう、ここにいる者は誰も助からない。それを悟った贄姫は、自らの生命力を犠牲にして限界まで妖力を高めたのだ。
……夕方から出かけていった二人が少年の元へ帰ってきたのは、深夜になってからだった。結果として、黒姫国に蔓延していた強い毒気は払われた。だが、戻ってきた二人の体は既に……見るに堪えない状態だった。帰りが遅いことに不安を抱え待っていた少年は、その惨憺たる光景を目の当たりすることになってしまったのだ。
辺り一面に散らばる黒。黒。黒。
懸命に抑えようとした傷口から噴き出す血を浴び真っ黒に染まる自分の着物。
鼻を突く強烈な血の臭い。
氷のように冷たくなっていく両親。
血相を変えた屋敷の者達の駆けずり回る足音。
誰のものともつかぬ叫び声。怒号。泣き声。
ボロボロと塵となって崩れていく血濡れの骸――
それ以来、血の目立たない黒ばかりを好んで着るようになった。
誰かが倒れるのを見るのが怖くなった。
町で虚葬して返り血を浴びた日は、毎晩悪夢に魘された。
***
「……情けない話だが……『最強の妖の王』などと謳われている男は、皆が思うほど強い男などではないのだ」
「……」
『浄化の儀』で父親と母親を失ってしまった過去。それがあったからこそ、桜河は花緒を儀式で失うことを過度に恐れたのだろう。
――『二度と失いたくない』。
(あの言葉の裏には、そんな思いが――)
あまりの過去に花緒は言葉が出なかった。過去に贄姫が居たのだろうかと、邪な気持ちで嫉妬していた自分が恥ずかしくなり、俯く。
「妖の王の運命は二つに一つ。退位して寿命を全うするか、毒気を背負いきれずに狂妖と化して死ぬか。これまでの常世の歴史の中で、その多くは綺麗な最期を迎えられなかったという。贄を選ぶということは、自身の運命を強制的に背負わせるということ。俺は……これ以上、大切な者を失うのが怖くて、これまで贄を選ぶことには踏み切れなかった。両親のように死ぬのが運命であるのなら、贄を道連れにするよりも一人で死ぬ方が良いと、そう……思っていたんだ」
花緒は息を呑む。山吹の父親もまた、毒気を受けすぎて全身から血を噴き出して亡くなったと言っていた。毒気を受けすぎると、皆等しく凄惨な最期を迎えるのだろう。贄姫としての力が及ばなければ、いつ、どうなるのか分からない。
「だが、俺はおまえを選んだ」
「!」
「これからおまえに、何度危険な目に遭わせることになるか分からない。それを分かっていて、おまえを贄姫に選んでしまったことを、どうか許してほしい。この場でこんなことを言うのは、卑怯な男だと罵ってくれても構わない。それでも俺は……おまえを贄姫に選んだことを、今、心の底から良かったと思う」
「桜河様……」
「花緒。改めて、黒姫国を……俺を助けてくれて、本当にありがとう。おまえに出会えたことは、俺にとって最大の僥倖だ」
桜河の言葉一つ一つが、花緒の胸の中にじわりと熱を持って染み込んでいく。その熱はいつしか花緒の頬を伝い、幾つもの透明な雫となって滑り落ちていた。視界はぼやけた光に包まれ、何も見えない。溢れた涙を止めることができなかった。
(ああ、私はずっと――)
この言葉が欲しかったのかもしれない。
花緒は、自分が生きていて良い理由を探していたのだと、この時初めて思った。贄姫として力が及ばなければ、自分に価値はない。そう自分に言い聞かせ、必死に食らいついてきた日々だった。いくら知識を身に着けても、舞が上達しても、妖力操作を身に着けても、決して消えることのなかった不安。そんな花緒のささくれ立った心を包み込んだ、桜河の言葉。これ以上ないほど力強く自分の存在を肯定するその言葉に、花緒はようやく自ら背負っていた心の荷を下ろすことができたのだった。

