蘭之介と別れた花緒は、桜河の私室の前に到着した。部屋の行燈が灯されているのか、室内は仄かに明るい。
「……桜河様、夜分遅くに失礼いたします。花緒です」
花緒が室内に声を掛ける。返事はない。だが、障子越しに耳を澄ますと微かに人の気配を感じた。
花緒は暫く迷った後、そっと障子を開けた。
桜河はこちらに背を向け、文机に肩肘をついて座っていた。彼の無事にほっと胸を撫でおろす。それと同時に、彼の返事を待たずに障子を開けてしまったことに気づく。
「桜河様……! 申し訳ありません、勝手に開けてしまいました……あれ……」
座っている桜河をよく見ると、頭がこっくりこっくりと船をこいでいる。どうやら寝入ってしまっているようだった。
(こんな体勢で寝てしまって……桜河様も病み上がりなのに)
花緒は静かに近づいて桜河の顔を覗いた。普段は見せない、少年のような寝顔。気づけばその顔に吸い寄せられるようにそっと、桜河の頬に指を滑らせていた。その時だった。
「……花緒」
閉じられていた桜河の瞼がゆっくりと開き、掠れた声が部屋にぽつりと落ちる。
「! お、桜河様。申し訳ありません。勝手にお部屋に入ってしまって……」
一気に疚しさが湧いてくる。まだ虚ろな金の瞳。今なら何とか誤魔化せるかもしれない。
花緒はしどろもどろに言葉を紡ぎ、必死に繕おうとする。
「す、すみません! こんな所で寝てしまわれていて心配でしたのでお声をかけさせて頂いた所で……! 桜河様、お疲れだと思いますのでどうぞお布団でゆっくり御休みなさ――」
花緒がそう言いかけた時だった。慌てて立ち上がった桜河が、花緒のことを逃がさないとばかりに抱き込んだのだ。
「きゃっ!」
「行かないでくれ……俺の傍から、居なくなるな……一人にしないでくれ……」
「桜河様……」
桜河の切実な呟きが耳元で聞こえる。花緒の背に回された桜河の腕が僅かに震えていた。まるで花緒を失うことを恐れるかのように。
「……そんなに恐れないでください。桜河様がお傍に置いてくださるというのなら、私はずっと、貴方様のお傍におります」
花緒は、桜河の背にそっと自分の手を添える。歴代最強の妖の王。誰よりも気高い貴人である彼が、まるで健気な幼子のように花緒には感じられた。暫くそうしていると、平静を取り戻した桜河がゆっくりと身体を離した。二人の間にひやりとした空気が滑り込む。溶けていく熱が名残惜しかった。
「……取り乱してすまなかった……」
「いえ……」
普段の彼からは想像つかないほど弱り切った姿。誰の幻影を見ているのだろうか。虚空を見つめ小さく震える彼に掛ける言葉が見つからず、花緒は黙り込む。
「……」
「……」
どこか気まずい沈黙の中、やがて桜河が静かに口を開いた。
「……ちょうど……この時間なのだ……俺の両親が亡くなったのが。それからというもの、夜中にこうして目が醒めると……時々、どうしようもなく喪失感に駆られる時がある……」
「! ……桜河様の、ご両親が……」
花緒は息を呑む。彼の口から初めて聞く、桜河の身の上話。しかしそれは、自分の想像を超えて遥かに重いものだった。指先がじわりと冷えていくのを感じる。
「花緒。一人の……どうしようもなく弱い男の話を、聞いてもらえないだろうか」
「……はい。お願いします」
桜河の声がかすかに震えている。その背中にそっと手を当て、桜河に寄り添う。自分はここにいる。ずっとずっと離れることはないと、その想いが届くように。
――今宵は、桜河が話し終えるまで。少しでも自分に感情を吐露して彼の心が軽くなるまで傍にいよう。
真夜中の静まり返った屋敷の中、白銀に輝く月だけが二人を見守っていた。
「……桜河様、夜分遅くに失礼いたします。花緒です」
花緒が室内に声を掛ける。返事はない。だが、障子越しに耳を澄ますと微かに人の気配を感じた。
花緒は暫く迷った後、そっと障子を開けた。
桜河はこちらに背を向け、文机に肩肘をついて座っていた。彼の無事にほっと胸を撫でおろす。それと同時に、彼の返事を待たずに障子を開けてしまったことに気づく。
「桜河様……! 申し訳ありません、勝手に開けてしまいました……あれ……」
座っている桜河をよく見ると、頭がこっくりこっくりと船をこいでいる。どうやら寝入ってしまっているようだった。
(こんな体勢で寝てしまって……桜河様も病み上がりなのに)
花緒は静かに近づいて桜河の顔を覗いた。普段は見せない、少年のような寝顔。気づけばその顔に吸い寄せられるようにそっと、桜河の頬に指を滑らせていた。その時だった。
「……花緒」
閉じられていた桜河の瞼がゆっくりと開き、掠れた声が部屋にぽつりと落ちる。
「! お、桜河様。申し訳ありません。勝手にお部屋に入ってしまって……」
一気に疚しさが湧いてくる。まだ虚ろな金の瞳。今なら何とか誤魔化せるかもしれない。
花緒はしどろもどろに言葉を紡ぎ、必死に繕おうとする。
「す、すみません! こんな所で寝てしまわれていて心配でしたのでお声をかけさせて頂いた所で……! 桜河様、お疲れだと思いますのでどうぞお布団でゆっくり御休みなさ――」
花緒がそう言いかけた時だった。慌てて立ち上がった桜河が、花緒のことを逃がさないとばかりに抱き込んだのだ。
「きゃっ!」
「行かないでくれ……俺の傍から、居なくなるな……一人にしないでくれ……」
「桜河様……」
桜河の切実な呟きが耳元で聞こえる。花緒の背に回された桜河の腕が僅かに震えていた。まるで花緒を失うことを恐れるかのように。
「……そんなに恐れないでください。桜河様がお傍に置いてくださるというのなら、私はずっと、貴方様のお傍におります」
花緒は、桜河の背にそっと自分の手を添える。歴代最強の妖の王。誰よりも気高い貴人である彼が、まるで健気な幼子のように花緒には感じられた。暫くそうしていると、平静を取り戻した桜河がゆっくりと身体を離した。二人の間にひやりとした空気が滑り込む。溶けていく熱が名残惜しかった。
「……取り乱してすまなかった……」
「いえ……」
普段の彼からは想像つかないほど弱り切った姿。誰の幻影を見ているのだろうか。虚空を見つめ小さく震える彼に掛ける言葉が見つからず、花緒は黙り込む。
「……」
「……」
どこか気まずい沈黙の中、やがて桜河が静かに口を開いた。
「……ちょうど……この時間なのだ……俺の両親が亡くなったのが。それからというもの、夜中にこうして目が醒めると……時々、どうしようもなく喪失感に駆られる時がある……」
「! ……桜河様の、ご両親が……」
花緒は息を呑む。彼の口から初めて聞く、桜河の身の上話。しかしそれは、自分の想像を超えて遥かに重いものだった。指先がじわりと冷えていくのを感じる。
「花緒。一人の……どうしようもなく弱い男の話を、聞いてもらえないだろうか」
「……はい。お願いします」
桜河の声がかすかに震えている。その背中にそっと手を当て、桜河に寄り添う。自分はここにいる。ずっとずっと離れることはないと、その想いが届くように。
――今宵は、桜河が話し終えるまで。少しでも自分に感情を吐露して彼の心が軽くなるまで傍にいよう。
真夜中の静まり返った屋敷の中、白銀に輝く月だけが二人を見守っていた。

