時刻は既に深夜を迎えていた。花緒は桜河の自室を目指し、渡り廊下を進んでいた。昼間に広がる両側の庭園の風景も、今は真っ暗な闇の中。常夜灯の周りには吹き寄せられた枯れ葉のように蛾が飛び回っている。しめやかな空気に溶け込む鈴虫の音が心地よい。こんな真夜中に部屋の外を出歩いたのは初めてだ。普段見ているものとは違った顔を見せる景色に、花緒は背徳感と不思議な高揚感を感じていた。
(……このような遅い時間に殿方のお部屋を訪ねるなんて……。桜河様のご迷惑にならないかしら)
はしたないと思われないだろうか。けれども、その心配よりも桜河の無事を確かめたいという気持ちが勝っていた。彼の顔を見たら、すぐに退散すれば良いのだ。桜河の贄として、彼を気に掛けるくらいの我儘は許していただけないだろうか。
頭の中で言い訳を巡らせていた花緒は、自分に近づく影に気づけなかった。
「おい」
「ひゃっ!? す、す、すみません! 私は決して不審な者では…!」
背後から掛けられた男の声に思わず飛び上がりその場に蹲る花緒。こんな時間に何者かに声を掛けられることなど想定していなかった。突然のことに正常な思考が働かない。
「……大丈夫か、おまえ。倒れた時に頭でも打ったか」
そんな素っ頓狂な様子の彼女に頭上から再び降ってくる男の声。聞き覚えのあるひんやりとざらついた低音。その声に、花緒はゆっくりと顔を上げる。
「あ……! ら……蘭之介様……」
蘭之介だった。蹲っている自分を見下ろしているからか、普段でも十分大きなその身体が余計に大きく思え、少しだけ顔が強張る。蘭之介が自分に話しかけるなど、初めてのことだった。何か粗相をしてしまったのかと、花緒は僅かに緊張する。
「すみません……こんな真夜中に、お見苦しい所をお見せしてしまいました……あれ……」
急いで立ち上がろうとする花緒。しかし足に上手く力が入らない。どうやら先ほどの衝撃で腰が抜けてしまったようだった。
「……も……申し訳ございません。えっと……上手く、立てなくて……」
「……。貸せ」
一瞬怪訝な顔をした蘭之介だったが、花緒の手を取ると、近くの腰壁にもたれさせる。
「すみません。ありがとうございます」
「いや……」
同じく腰壁にもたれるようにして隣に立った蘭之介は、息を吐いて腕組みをしたきり何も話さない。何か自分に話があるのではないのだろうか。こちらから何か話を振ったほうがいいのだろうか。さすがに花緒が気まずくなってきたその時だった。
「礼を言いに来た」
「え……」
意外な言葉に、花緒は目を丸くする。
「桜河はおまえに助けられた。俺や山吹には決してできなかった。感謝する」
「私はあの時、ただ夢中で……正直、自分でも何が起こったのか、よく覚えてなくて……でも、ありがとうございます」
「……俺には、桜河が苦しんでいる時に支えになれるだけの力はない。お前のように特別な力を持つことも、山吹のように桜河を諭すだけの経験値もない。いつも肝心な時に何もできない自分の無力さに嫌気がさす。主従契約を結んでもらいながら、桜河の従者を務められるだけの力がないことを思い知らされる」
「……それは……違うのではないでしょうか」
「は、おまえに何が分かる」
「分かりません」
迷いなく言い返した花緒に今度は蘭之介が瞠目する。この娘は、こんなに力をもった目をしていただろうか。穏やかな表情をしているのに、一切の反論を許さない。静かな強い意思を感じるそれは、どこか自分達の主を彷彿とさせた。
「私には、桜河様と蘭之介様の間にそれぞれどんな過去や思いがあるのか分かりません。お二人の気持ちは、お二人にしか分からないことだから。だけど……私は、蘭之介様の優しいところ、知っているつもりです。初めての浄化で私が倒れてしまった時、心配してくださっていましたよね。妖力操作の鍛錬をしたいという私の我が儘に、蘭之介様だけは反対しなかった。山吹さんから聞いたんです。私の鍛錬の内容についても、色々と進言してくださっていたと……」
今だって。彼は礼を言いに来たと言ったが、それだけではないのだと花緒は分かっていた。自分が回復したことを梅や他の使用人に知らされたのだとしても、礼を言うだけであれば明日だって良いのだから。こんな遅い時間にわざわざ自分を訪ねる必要はない。そして、この渡り廊下の先に蘭之介の部屋はない。それでもここで出会ったということは、それだけ自分の様子を気にかけてくれているからに他ならないという何よりの証拠だった。
「……」
「私に対して思う所がたくさんあったと思います。至らない私に、厳しい目を向けられていることも分かっていました。それでも……あなたの厳しい言葉の裏にはいつも、桜河様や私、周りを気にかける優しさが含まれていること、皆さん知っておられます。あなたのその、誰も置いていかない優しさに。桜河様もまた、たくさん支えられてきたのだろうと思います。私がそうであるように」
花緒は言い切ると、そっと隣を見やる。蘭之介は前を見据えたまま黙って聞いていた。二人の間に冷たい風が流れ込む。三秒か、十秒か。短くも長くも感じる沈黙の中。やがて一つ、蘭之介が大きな溜息を吐いた。
「……蘭之介だ。様をつけるな、性に合わん」
「! は……はい……失礼しました」
蘭之介はもう一度短く息を吐くと、花緒に向き直る。その瞳が彼女を真っ直ぐ捉えると、僅かに口角を持ち上げた。
「行くんだろ、桜河の所。引き止めて悪かったな。……桜河のこと、頼んだぞ。贄姫」
「え……今……あ、ちょっと! 待ってください、蘭之介さん!」
蘭之介はそう言うや否や、花緒の返事を待たず去って行ってしまった。残された花緒は一人、蘭之介の去っていった廊下の曲がり角を見つめる。
――今、『贄姫』と呼んだか。
この屋敷でただ一人、花緒のことをろくに呼びもしなかった彼の口から初めて聞いた呼称。それは、確かに彼が贄姫として自分の事を認めてくれた瞬間だった。その事実を噛み締め、花緒の心がじわりと震える。胸の中に熱が溢れ、目尻の端がひりついた。
この日を忘れることはないだろう。
花緒は沸き立ちそうになる感情を抑えながら、桜河の部屋へと足早に向かった。
(……このような遅い時間に殿方のお部屋を訪ねるなんて……。桜河様のご迷惑にならないかしら)
はしたないと思われないだろうか。けれども、その心配よりも桜河の無事を確かめたいという気持ちが勝っていた。彼の顔を見たら、すぐに退散すれば良いのだ。桜河の贄として、彼を気に掛けるくらいの我儘は許していただけないだろうか。
頭の中で言い訳を巡らせていた花緒は、自分に近づく影に気づけなかった。
「おい」
「ひゃっ!? す、す、すみません! 私は決して不審な者では…!」
背後から掛けられた男の声に思わず飛び上がりその場に蹲る花緒。こんな時間に何者かに声を掛けられることなど想定していなかった。突然のことに正常な思考が働かない。
「……大丈夫か、おまえ。倒れた時に頭でも打ったか」
そんな素っ頓狂な様子の彼女に頭上から再び降ってくる男の声。聞き覚えのあるひんやりとざらついた低音。その声に、花緒はゆっくりと顔を上げる。
「あ……! ら……蘭之介様……」
蘭之介だった。蹲っている自分を見下ろしているからか、普段でも十分大きなその身体が余計に大きく思え、少しだけ顔が強張る。蘭之介が自分に話しかけるなど、初めてのことだった。何か粗相をしてしまったのかと、花緒は僅かに緊張する。
「すみません……こんな真夜中に、お見苦しい所をお見せしてしまいました……あれ……」
急いで立ち上がろうとする花緒。しかし足に上手く力が入らない。どうやら先ほどの衝撃で腰が抜けてしまったようだった。
「……も……申し訳ございません。えっと……上手く、立てなくて……」
「……。貸せ」
一瞬怪訝な顔をした蘭之介だったが、花緒の手を取ると、近くの腰壁にもたれさせる。
「すみません。ありがとうございます」
「いや……」
同じく腰壁にもたれるようにして隣に立った蘭之介は、息を吐いて腕組みをしたきり何も話さない。何か自分に話があるのではないのだろうか。こちらから何か話を振ったほうがいいのだろうか。さすがに花緒が気まずくなってきたその時だった。
「礼を言いに来た」
「え……」
意外な言葉に、花緒は目を丸くする。
「桜河はおまえに助けられた。俺や山吹には決してできなかった。感謝する」
「私はあの時、ただ夢中で……正直、自分でも何が起こったのか、よく覚えてなくて……でも、ありがとうございます」
「……俺には、桜河が苦しんでいる時に支えになれるだけの力はない。お前のように特別な力を持つことも、山吹のように桜河を諭すだけの経験値もない。いつも肝心な時に何もできない自分の無力さに嫌気がさす。主従契約を結んでもらいながら、桜河の従者を務められるだけの力がないことを思い知らされる」
「……それは……違うのではないでしょうか」
「は、おまえに何が分かる」
「分かりません」
迷いなく言い返した花緒に今度は蘭之介が瞠目する。この娘は、こんなに力をもった目をしていただろうか。穏やかな表情をしているのに、一切の反論を許さない。静かな強い意思を感じるそれは、どこか自分達の主を彷彿とさせた。
「私には、桜河様と蘭之介様の間にそれぞれどんな過去や思いがあるのか分かりません。お二人の気持ちは、お二人にしか分からないことだから。だけど……私は、蘭之介様の優しいところ、知っているつもりです。初めての浄化で私が倒れてしまった時、心配してくださっていましたよね。妖力操作の鍛錬をしたいという私の我が儘に、蘭之介様だけは反対しなかった。山吹さんから聞いたんです。私の鍛錬の内容についても、色々と進言してくださっていたと……」
今だって。彼は礼を言いに来たと言ったが、それだけではないのだと花緒は分かっていた。自分が回復したことを梅や他の使用人に知らされたのだとしても、礼を言うだけであれば明日だって良いのだから。こんな遅い時間にわざわざ自分を訪ねる必要はない。そして、この渡り廊下の先に蘭之介の部屋はない。それでもここで出会ったということは、それだけ自分の様子を気にかけてくれているからに他ならないという何よりの証拠だった。
「……」
「私に対して思う所がたくさんあったと思います。至らない私に、厳しい目を向けられていることも分かっていました。それでも……あなたの厳しい言葉の裏にはいつも、桜河様や私、周りを気にかける優しさが含まれていること、皆さん知っておられます。あなたのその、誰も置いていかない優しさに。桜河様もまた、たくさん支えられてきたのだろうと思います。私がそうであるように」
花緒は言い切ると、そっと隣を見やる。蘭之介は前を見据えたまま黙って聞いていた。二人の間に冷たい風が流れ込む。三秒か、十秒か。短くも長くも感じる沈黙の中。やがて一つ、蘭之介が大きな溜息を吐いた。
「……蘭之介だ。様をつけるな、性に合わん」
「! は……はい……失礼しました」
蘭之介はもう一度短く息を吐くと、花緒に向き直る。その瞳が彼女を真っ直ぐ捉えると、僅かに口角を持ち上げた。
「行くんだろ、桜河の所。引き止めて悪かったな。……桜河のこと、頼んだぞ。贄姫」
「え……今……あ、ちょっと! 待ってください、蘭之介さん!」
蘭之介はそう言うや否や、花緒の返事を待たず去って行ってしまった。残された花緒は一人、蘭之介の去っていった廊下の曲がり角を見つめる。
――今、『贄姫』と呼んだか。
この屋敷でただ一人、花緒のことをろくに呼びもしなかった彼の口から初めて聞いた呼称。それは、確かに彼が贄姫として自分の事を認めてくれた瞬間だった。その事実を噛み締め、花緒の心がじわりと震える。胸の中に熱が溢れ、目尻の端がひりついた。
この日を忘れることはないだろう。
花緒は沸き立ちそうになる感情を抑えながら、桜河の部屋へと足早に向かった。

