泉水家に生まれた自分は、もともと、何故か生き物から好かれる性質を持っていた。花緒が声を掛けると、植物も、そして動物も耳を傾けているように感じていた。それは、泉水家という生命の源とも言われる母なる『水』を冠する家系に生まれたからかもしれない。或いは、今になって思えば歴代最強の妖の王である桜河の贄姫に選ばれる運命にあったからかもしれない。理由はなんであれ、自分は生き物を慈しみ愛されるという特異な体質だった。それに対して、今まで何かを思ったことはなかったのだけれど――ここへきて、その不可思議な体質が奇跡をもたらすとは思ってもいなかった。


          ***


(桜河様の手が、冷たい……!)

 突如として舞い踊った桜吹雪の中で、花緒は桜河の手を必死に握りしめていた。いつもは自分に優しく触れてくれる温かくて大きな手。それが氷のごとく冷えきっている。いつものように自分の手をそっと握り返してくれることもなかった。
 毒気を思わせる黒い靄が、桜河の全身を蝕んでいる。彼の身体から立ち昇ってくるほどに。元が人間である自分はすぐには大きな影響を受けることはない。けれども、この場にいる山吹や梵天丸は気が狂いそうであるだろう。

 ――『一度、狂妖になってしまったら救う手立てはないからね』。

 いつかの山吹の台詞が花緒の塗りに浮かぶ。狂妖に堕ちた妖魔は、魂を無に還す――『虚葬』を行うしかないと山吹は言っていた。虚葬することが桜河の眷属である山吹たちの役目だとも。だから、山吹は桜河が完全な狂妖に堕ちる前に自らの手で葬ろうとしているのだ。

(……そのような悲しいことは、させない)

 山吹が桜河を殺めることなど、させるわけにはいかない。山吹は、桜河が子どもの頃から守り育ててきた親代わりの人だ。桜影の忘れ形見である桜河を手に掛けるなど、身を割かれるよりも辛いはずだ。

(だから、私の手で守るんだ。桜河様のことも、山吹さんのことも。みんな、私が未熟だったせいで大変な思いをさせてしまった。罪滅ぼしでも、恩返しでも構わない。どうか私の力で、みんなのことを守らせてください――……!)

 そのとき、シャラン、と。神楽鈴は手の内にないはずなのに、脳内に確かに鈴の音が聴こえた。神楽鈴が力を貸そうとしてくれているのだと、花緒は頭で理解する。
 花緒は、握りしめていた桜河の手を、自分の頬にそっと押し当てる。

「桜河様。もう、大丈夫です。私が必ずお救いいたします。ですからどうか、私にすべてを任せていただけますか?」
「……花、緒……?」

 桜河の瞳が薄っすらと開く。苦しそうに掠れた声。けれども確かに、彼は花緒の言葉を信じるように頷いた。花緒は頷き返す。今まで山吹と何度も特訓を積んだ感覚を思い出す。花緒はそっと目を閉じた。

「――『禍を鎮め、常世に送り帰し、水の音にて洗い流し、祓へ給ひ、清め給へ』」

 シャラン、シャラシャラ、シャララ。
 頭に鳴り響く澄んだ鈴の音。花緒が目を開ける。ひらり、と眼前に一枚の桜の花弁。見渡せば、部屋中に降り注ぐ桜の雨。ひらひらと舞い落ちる桜の花弁の一つが桜河の手元へ落ちると、冷たかった指先にじんわりと体温が戻っていくのを感じる。

(桜河様の毒気……浄化、できてる……?)

 ふと、胸元から光が漏れていることに気づく。花緒が光源を取り出すと、それは和紙に包まれた桜の花弁だった。

(あなたも力を貸してくれるの?)

 桜の花弁は眩い光を放ちながら、桜流しの中をただ一つ、ふわりふわりと昇っていく。やがてその光に共鳴するように床に落ちていた花弁たちが舞い上がり、光を放ちながら桜河の周りに集まり始めた。天に立ち昇っていく桜の嵐。それは桜河に纏わりついていた毒気を清め、流していく。それと同時に、周囲の蔓延していた黒い靄をも祓い、蘇らせていった。
 山吹が呆然と舞い上がる桜の花びらを見上げる。

「……贄姫の浄化の力。けれども今までの贄は、蛇門の毒気を浄化することはできても、毒気に侵された狂妖を救うことは出来なかった。今の桜河のように狂妖になりかけてしまった状態でも同様で、救う手立てはなかったんだ。でもこれは、浄化の異能とは全く違う妖力の流れを感じる。こんな力、見たことがない……」
「……綺麗だナ。温かくて、ほっとする。これが花緒の力なんだナ」
「本当に。おれたちは……たった今、歴代最強の贄姫の誕生を目の当たりにしたんだね」

 山吹が、心底ほっとしたように、いたずらっぽく花緒に笑いかける。山吹の緊張の解けた様子を見て、花緒は自分の浄化が上手くいったのだと分かった。桜河の窮地を救うことができたのだと悟った。次第に桜の嵐は収まり、部屋に静寂が訪れる。
 花緒は、桜河の手を頬に添えたまま、彼の無事を確かめる。桜河の顔色が血の気を取り戻していた。彼の身体を侵食していた毒気を立ち消えている。
 冷や汗で汗ばんだ顔で、桜河がうっすらと目を開いた。花緒の頬に添えられた手に少しだけ力を込める。

「……花緒、ありがとう。おまえが、助けてくれたのだな」
「……桜河様っ。よかった――……っ」

 まだ弱々しいけれど、彼の微笑みを目に入れた途端。精いっぱい気を張って堰き止めていた涙が花緒の両目から溢れた。止めどなく落ちる涙は、桜河の着物にはらはらと落ちる。花緒の泣き顔を目に入れた桜河は、彼女の手をそっと引いて自分の胸の上に抱き寄せる。触れ合った身体から伝わってくる彼の温かな体温――。
 それが、彼が無事だったこと、自分は彼を救えたのだということを教えてくれる。
 彼の腕の中の温かさと、知っている香りに緊張が解れていく。慣れない癒しの力を使ったからか、花緒の身体に一気に疲労が込み上げてくる。

(……桜河様、大好きです――……)

 落ちてくる瞼に抗えないまま、花緒は気を失ってしまった。