事件は何の前触れもなく起こった。山吹との特訓を終え、桜河に二人で話をさせてもらえる機会があるか確認しようと思っていた花緒。彼の姿を探そうと山吹と共に屋敷に帰り着いたところで、蘭之介が血相を変えて飛び出してきたのだ。

「山吹……!」
「蘭ちゃん? どうしたの、そんなに慌てて」
「すぐに来てくれ! 桜河がっ……桜河が倒れた……!」
(え――……っ)

 花緒は口に両手を当てて目を見開く。知らず知らず手が震えた。

 ――『桜河が倒れた』。

 蘭之介は確かにそう言った。歴代最強と謳われる妖の王が。いつだって強く優しく、皆を導いてくれる彼が。
 彼が自分に向けてくれる穏やかな笑顔や、時折垣間見せる少年のような無邪気な笑顔を思い出す。自分にとって誰よりも大切な彼。守りたい人。
 その人が、苦しんでいる――……?

(……私のせいだ……っ)

 自分の妖力操作が未熟なばかりに、桜河一人に毒気の対処に当たらせてしまった。とっくに桜河の身体には限界が来ていたのに。それでも彼は、この黒姫国を守ること、二度と贄を失わないことを使命に、前に立ち続けてしまったのだ。決してこちらに弱音を吐くことなく。皆を心配させまいとして。花緒が集中して特訓に取り組めるように。
 その間にも、山吹が普段飄々とした彼とは思えないほどに声を乱す。

「分かった……! ともかく桜河のもとに案内して、蘭之介!」
「私にも行かせてください!」

 花緒は自分の胸に手を当て、身を乗りだす。山吹と蘭之介はそんな花緒を見やると、何も言わずに頷いた。桜河のもとに行く資格があると認めてくれたのかもしれない。
 蘭之介、山吹に続き、花緒も二人の背中を追って駆け出した。


          ***


 蘭之介に案内されたのは奥座敷にある桜河の私室だった。辺りは日が傾き始め、桜河の自室にも締め切られた障子から夕明かりが差し込んでいる。橙に染め上げられた室内――その中央に一枚の布団が敷かれていた。青白い表情をして、苦しそうに眉根を寄せた桜河が横たわっている。彼の身体からは、傍から見ても分かるほどに濃度の濃い毒気が立ち込めている。枕元には梵天丸が寄り添い、自身の妖力を必死に桜河に送り込んでるように見えた。少しでも毒気の進行を遅らせようとしているのだろう。
 いつも気丈で弱いところを見せない桜河の変わり果てた姿。花緒は言葉を失う。

「桜河、様……っ」
「……なんという毒気だ! これほどの量を体内に溜め込んでいたとは……。桜河でなければ出来ない芸当だね。蘭之介、ひとまず屋敷の妖魔たちを町まで避難させるんだ。これだけの強い毒気に触れでもしたら、一発で狂妖になりかねない」
「分かった! こちらは任せろ! 後は頼んだぜ、山吹!」

 蘭之介はそれだけ言い残すと、すぐさま部屋を飛び出して行った。廊下で彼が使用人の妖魔たちを先導している声が響き渡る。
 桜河は苦しそうな息遣いを繰り返している。楽な着流し姿ではあるものの、痛みや苦しみに耐えているからか冷や汗をぐっしょりと搔いていた。普段は涼しいほどに平然としている彼との違いに、彼がどれだけの辛さを感じているかが伝わってくる。
 後悔してもしきれない。自分のせいで桜河に負担をかけてしまった。この国にとってなくてはならない人なのに。
 桜河を前にした山吹の頬を、一筋の冷や汗が伝う。

「……かなりまずい状況だ。毒気が体内から溢れ出しているということは、桜河は狂妖になりかけている。このまま毒気の侵食が進行すれば、遅かれ早かれ桜河は完全に狂妖に堕ちてしまうだろう。体内で解毒が間に合っていないんだ。許容量を超えてしまった」
「山吹、桜河を助ける方法はないのカ? 桜河はオイラの恩人ダ。助けたい……!」

 梵天丸が黒い瞳を潤ませる。山吹が唇を噛む。

「……桜河は、今はかろうじて意識を保っているようだけれども、このまま自我を失って周囲の妖魔を見境なく襲う狂妖に変貌してしまったら、おれですら止めることはできない。この黒姫国が完全に狂妖化した桜河の手によって蹂躙される前に、今の無力なうちに彼の命を奪ってしまうしかない。もう手遅れなんだ……」
「そんなっ……!」

 花緒は、反射的に桜河を庇うように前に飛び出す。
 自分が未熟だったせいで、桜河が命を失うなどあってはならない。自分が贄姫に選ばれたばかりに、彼が犠牲になるなど到底耐えられることではない。

(何か……何か一つでも私にできることはない? このまま見ていることしかできないなんて……)

 もしも桜河を失ったら――考えただけで目の前が真っ暗になるようだった。現世から自分を連れ出してくれた桜河。最初の頃、怯えてばかりだった自分に優しく手を差し伸べてくれた。恐ろしい存在だと思っていたけれど、実は素直で人一倍頑張り屋で不器用なところもある可愛らしい人。……自分が、好きになった人。
 花緒は、恐怖と不安に苛まれていた気持ちが、凪のように落ち着くのを感じる。心の内に光の炎が灯ったように熱くなる。

(……死なせない。絶対に失いたくない。だから今度は、私が桜河様のお力になる!)

 そう強く思った途端だった。花緒の内から、今まで顕現したこともないほどの桜吹雪が巻き起こったのだ。まるで桜河を助けようとする花緒の心に呼応したかのように。

(私が彼を助ける。絶対に……!)

 花緒は無我夢中で、苦しそうに目を閉じたままの桜河の手を取った。
 山吹が焦ったふうに声を荒げる。

「花緒ちゃん! 離れて! 危ないから」
「いいえ……! 離れたくありません!」
「花緒ちゃん!」

 尚も桜河から離れない花緒。痺れを切らしたように、山吹が羽団扇を顕現させた。何もかもが手遅れになる前に、自分が後始末を負い、すべての責任を背負おうとしているのだろう。山吹が覚悟を決めた面持ちで立ち上がった。

(……山吹さんに、そのような咎を負わせるわけにはいかない。本当にもう手遅れなの? 私にできることは何もないの? 桜河様の贄姫として、できることは――……?)

 どうにかして助けられないかと、花緒は必死に祈りを込めた。