妖魔の住む妖界『常世』。人の子の住む人間界『現世』とは四方の門を通じてしか行き来ができない。『現世』と『常世』は表裏に位置し、その地に大きな違いはない。ただ、そこに暮らす者が人か妖かの差異だけだ。人の世は帝が治め、妖魔の世は妖の王が治める。そうして成り立っているのだ。

「う……」

 生温い空気が肌にまとわりつく感覚に、花緒は目を覚ました。途端、視界全体に広がる白い濃霧。上空にはじっとりと黙した闇が広がっている。夜なのだろうか。護摩線香を燃やしたような濃い煙の臭いが鼻を掠め、花緒は思わず顔を顰めた。馴染みのない淀んだ空気が少し息苦しい。
 花緒は上体を起こす。

(ここはどこなのかしら……。私はどうなったの?)

 状況を整理しようと努めていると、少し離れた箇所から聞き慣れない声がかけられた。

「……目覚めたか?」
「え?」

 花緒は驚いてそちらに顔を向ける。自分以外の人物がいるとは思わなかったのだ。その人物は花緒より十は年上であろう外見で、二人の目の前に広がる大池の縁に腰かけていた。黒い着流し姿で、同じく黒い鼻緒の草履を履いていた。その片足を無造作に水面の中に入れている。その態勢が妙に艶めかしかった。男は周囲の闇を吸い込んだかのような黒髪に、金色に煌めく切れ長の瞳をしている。通った鼻筋、薄い唇、細身だけれど引き締まった身体――。
 ひとたび見かければ忘れることのできない美丈夫。そしてなにより、男から強い桜の香りが感じられた。よく知っている香りだ。つい先ほど嗅いだことのあるような。
 花緒は混乱して言葉を失う。男が怪訝そうに首を傾げた。

「どうした? 具合でも悪いのか」
「あ……いえ、あの……自分の置かれている状況がわからなくて……」

 それが正直なところだった。

(私、生きている……)

 こうして男と言葉を交わして実感する。
 自分は黒蛇に丸呑みにされたはずだった。贄として妖の王に喰われたのだから、もう生きているはずはないのに。

(それともここは、『常世』ではなく地獄か何かなの……?)

 自分はやはり死んだのだろうか。
 男が目を瞬いた。

「覚えていないのか。おまえは、俺が『常世』まで連れてきたんだ」
「え……?」
「わかっていないようだから名乗っておく。俺は『黒蛇』の桜河(おうが)だ」
「……黒、蛇?」

 花緒は男をまじまじと見返す。男は黒蛇と名乗ったが、どこからどう見ても人間だ。桜の香りは『黒蛇』のものと同じようだけれど。そうだとしても、人である彼があのとき自分を呑み込んだ妖の王であるはずが――。
 男が立ち上がった。水面から抜き去った足先から水が滴り落ちる。

「知らないのか? 妖魔は『現世』では妖魔の姿しかとれない。だが、『常世』では妖魔の姿でも人の姿でもとれる。ここは『常世』だ。人のおまえを怖がらせないよう、俺も人の姿をとった。黒蛇の姿が良いならそうするが」
「え? あ、いいえ! そのままで、大丈夫です……」

 花緒は顔の前で両手を振って断る。
 男の話を整理すると、まず男の名は桜河。妖の王『黒蛇』が人の形をとった姿。『現世』で花緒を呑み込み、『常世』へと連れてきた。――こんなところだろうか。
 言われてみれば、自分の面前にある大池は『現世』のものとそっくりだ。朽ちた鳥居も『現世』にあったものと似通っている。違いは、ここが仄暗い森ではなく濃霧の立ち込める雑木林だということくらいだろうか。
 もしかしたらここは、『常世』での北の門にあたるのかもしれない。

(それにしても、このお方が黒蛇様……)

 花緒は黒蛇を盗み見てから、胸元の着物を手繰り寄せる。端正な横顔は静かだ。けれども、彼の秘めている力がとてつもなく高いのだろう、肌がぴりぴりする威圧感がある。
 花緒は体中が強張る。

(私はもうすぐ、この方に喰われてしまうのね)

 なぜ黒蛇が人の姿を取って自分が目を覚ますのを待っていたのかわからない。おそらく自分は『現世』から『常世』に来た際、気を失っていたのだろうから、そのときに喰らうことができたはず。そもそも、丸呑みしたときにそのまま嚙み砕くことだってできたはずなのに……。
 花緒は、得体の知れない黒蛇をもう一度見やる。無表情。何を考えているのかわからない。今すぐ喰われてもおかしくはないのに、黒蛇からはその意思が感じられないのだ。

(贄姫を喰らうのは、今ではないということ?)

 わからない。どちらにしろ、花緒に選択肢などないのだ。
 自分は黒蛇の贄姫。妖の王に捧げられるためだけに生まれてきたのだから。
 花緒は恐怖に打ち震えるまま、黒蛇の次の言葉を待った。