今まで張り詰めていた心を解放したからだろうか。これからはありのままの自分でいようと思い直した花緒。余計な力が抜けたからか、特訓を積むごとにめきめきと妖力操作の腕が上達していた。自分の内にある妖力の流れに、心が素直に従うことができるのだ。それはお蓮と引き続き行っている舞の稽古にも良い影響を及ぼした。神楽鈴を持って神楽を舞いながら、自分の妖力を意のままに操れるようになってきたのだ。
一か月半での妖力操作の会得――この異例の速さは、桜河たちを驚かせると同時に安心させていた。当初から、無理をして花緒の身に危険が及ぶことを心配していたからだ。
これだけ妖力を自分のものに出来れば滅多のことは起きないだろう。桜河たちは口には出さないけれども、そのことを一番に安堵しているようだった。皆、花緒の身を気にかけてくれている。優しい男たちなのだ。
今日も今日とて、花緒は山吹と共に霊山の山頂に赴いていた。花緒は目を閉じ、自分の内に流れる桜吹雪に意識を向ける。それを外へ解放するよう両手を広げると、自身の周囲に美しい桜の花弁が舞い踊った。
見守っていた山吹が頷く。
「うん。もう妖力の顕現は完璧だね。それに、妖力を帯びた花びらだって自在に操作できるようになってきたし、君の上達は相当なものだよ」
「はい、ありがとうございます……」
「……花緒ちゃん?」
心ここにあらずで生返事をしてしまった花緒。山吹に怪訝そうに顔を覗き込まれて、花緒は我に返った。
「す、すみません! 少しだけぼうっとしてしまって……」
「連日の特訓で少し疲れが溜まってきているのかな。それとも、何か気掛かりなことでもある?」
山吹が鋭く目を細める。花緒の心の内心まで見透かすような視線に、花緒は山吹に隠し事はできないと悟る。
観念した花緒はおずおずと口を開く。
「あの。桜河様は今日もお一人で蛇門に向かわれているんですよね?」
「そうだね」
「……」
「桜河が心配?」
心配か、と問われれば心配だ。ただ、それだけでは収まらない複雑に絡まった気持ちをどう表現して良いのか分からない。山吹に話したら、何か変わるだろうか。花緒は頭の整理がつかぬまま、とりとめのない気持ちを吐き出す。
「……桜河様は……贄である私のことを、本当に大切にしてくださるんです」
「うん。そうだね」
「それだけ贄というものが、国にとって重要な立場だということは理解しているつもりなんですが……」
「うん……」
常世で唯一毒気を浄化する異能をもつ贄の存在は、国の存亡を大きく左右する。ゆえに王は贄を大切にする。これは自明の理だ。そんなことは分かっている。
「……自分でも、よく分からないんです。選んだ贄がこんな状態では、共に国を守るどころかお荷物でしかないのに。桜河様は一切私の事を責めず、ご自身を犠牲にしてしまうから……守ってくださることは、勿論嬉しいんです……けど」
「『そこまでして守ってもらうことに、苦しさを感じている』わけだ」
山吹の核心をついた一言に花緒はひゅっと息を呑む。おこがましいと思われただろうか。思わず苦笑がこぼれた。
「こんなこと、守ってもらってる人間が言うことではないんですけど……ただ、もっと自分を大切にしてほしくて……あまり、無理をしてほしくないんです……」
二人の間に沈黙が降る。雁渡しの風が鬱屈とした頭の熱を冷ましていく。桜河の最側近である彼に何を言っているのだろうか。新入りにして身の程を弁えていなさすぎる自分の滑稽な感情に沸々と恥ずかしさがこみ上げてくる。
しかしその沈黙を切り裂いたのは山吹の軽快な笑い声だった。
「ふふ……あっはっははは!」
「!?」
突然笑い出す山吹。この話のどこに笑う所があるのか花緒には全く分からない。ただただ笑う山吹を見て呆気にとられていた。
「あはは……いやいや、ごめんね。桜河といい花緒ちゃんといい、本当によく似てるよね」
「ちょっ……何の話ですか? 私真面目に話してるんですけど!」
なおも笑いの抜けない山吹に抗議すると、山吹はあっけらかんとした顔で言い放った。
「良いんじゃない?」
「え……」
「守られる側が苦しいって思っちゃだめなんてことはないさ。おれから見てもあいつは少し過保護な所があると思う。それに、これだけ妖力を十分に操作できるようになっているんだ。妖力的な面でも、精神的な面でも、以前よりもずっとずっと強くなっている。花緒ちゃんはもう、守られるだけでいるのが嫌なんだね」
山吹の言葉一つ一つが、すとんと胸に落ちてくる。そうだ。自分はもう、桜河に自己犠牲を強いてまで一方的に守られるだけの存在でいるのが嫌なのだと。あれから浄化に臨めていないため、確固たる自信をもって主張できるわけではないけれど。一番近くで修行を見てくれていた山吹が自分の成長と気持ちに気づき認めてくれたことが嬉しかった。
ほっとしたような表情を浮かべる花緒に山吹は微笑み返し、再び口を開く。
「ただ……桜河はね、とにかく贄を失うことが怖いんだよ。立場的に、贄を失うことの危うさを誰よりも知っているからさ。それだけは分かってやってほしいかな」
――『もう二度と贄を失いたくはない』。
ずっと胸の奥で引っかかっていた桜河の言葉。山吹の一言で花緒の脳裏に蘇る。
あの言葉を聞いてからというもの、桜河には自分の他にも贄がいたのではないかと思い始めた。自分の前にいた桜河の贄。その贄が桜河の心を占めているようで、花緒は胸にもやもやとした思いを抱えていた。それが嫉妬心だと気が付いたのは、自分が桜河のことが好きなのだと自覚してからだ。
桜河の心を捉える見ず知らずの誰か――それは一体、どのような人物だったのだろう。
(……山吹さんに、聞いてみてもいいのだろうか)
桜河の前の贄のことならば、きっと桜河の父である桜影の代から仕えていた山吹なら知っているだろう。尋ねれば教えてもらえるかもしれない。
(……でも、桜河様の過去を探るような真似をしていいのかな)
人にはきっと、知られたくない過去もあるだろう。自分がそうであったように。ましてや本人の口から聞くのではなく、他人の口から聞くことなど――。後ろめたい罪悪感が募る。桜河に軽蔑されるようなこと、嫌われるようなことはしたくなかった。けれども、このもやもやとした気を晴らしたい。桜河の前の贄のことを知りたいという気持ちもまた本当。板挟みになってしまい、花緒は何か言いたげに口を開いたり閉じたりする。
「花緒ちゃん。声に出さなきゃ、伝わらないんだよ」
「!」
「これはおれの信条なんだけど。自分の事を知ってほしいとか、相手の事が知りたいのなら、必要なのは一人であれこれ考えることじゃない。声に出して対話することだ。本当はもっと言いたいことがあるんでしょう」
「……あの……桜河様には、以前にも贄の方がいらっしゃったのでしょうか?」
「うん? どうして?」
「以前、桜河様が『もう二度と贄を失いたくはない』って、おっしゃっていたんです。でもそれって、過去に贄を失ったことがないと出て来ない言葉じゃないかと思って……」
「なるほど……そうだね。君の言う通り、それはおれが勝手に話して良いことではないと思うから。気になるのなら桜河の口から直接話してもらった方が良い。それに花緒ちゃんも、桜河に聞いてもらいたいことがあるんだろう? 現世でのことも、贄姫としての今の気持ちも。一度、桜河とお互いゆっくり話をしてみたらどう?」
「そう、ですよね。桜河様にお時間を取っていただけるか聞いてみます」
『声に出さなきゃ伝わらない』。独りで悶々と邪推していてもこの気持ちが晴れることはない。閉ざされた箱の前でいくら中身を想像したところで、開けてみなければ真実なんて分からないのだから。
開くのは怖い。
もしも桜河に、自分よりももっと大切に想う人がいると知ったら。
もしも自分が、誰かの代役でしかないと分かってしまったら。
この淡く芽生えた気持ちが実ることは一生ないのかもしれない。
それでも。
これまでの自分に対しての桜河の態度を思えば、どんな真実があろうとも受け止めたい。それが、温かく寄り添い続けてくれた彼に対する自分の誠意だ。
そう思い直し、前を向く。
「大丈夫。今の花緒ちゃんならば、桜河はきちんと向き合うと思うよ。良い結果になることを祈っているよ。それと、そろそろ再び浄化の儀に臨めるよう、おれからも桜河に掛け合っておくね」
「あ……ありがとうございます! がんばります!」
山吹と花緒は笑い合う。
(今日屋敷に帰ったら、さっそく桜河様にお時間を取っていただける日があるか伺ってみよう)
意気込んだ花緒。桜河の前の贄がどのような人物であり、どのような出来事があって失ってしまうことになったのか……。何を聞いても自分の桜河への気持ちが揺らぐことはない。これからも贄姫として彼と共にあろうと花緒は心に誓った。
一か月半での妖力操作の会得――この異例の速さは、桜河たちを驚かせると同時に安心させていた。当初から、無理をして花緒の身に危険が及ぶことを心配していたからだ。
これだけ妖力を自分のものに出来れば滅多のことは起きないだろう。桜河たちは口には出さないけれども、そのことを一番に安堵しているようだった。皆、花緒の身を気にかけてくれている。優しい男たちなのだ。
今日も今日とて、花緒は山吹と共に霊山の山頂に赴いていた。花緒は目を閉じ、自分の内に流れる桜吹雪に意識を向ける。それを外へ解放するよう両手を広げると、自身の周囲に美しい桜の花弁が舞い踊った。
見守っていた山吹が頷く。
「うん。もう妖力の顕現は完璧だね。それに、妖力を帯びた花びらだって自在に操作できるようになってきたし、君の上達は相当なものだよ」
「はい、ありがとうございます……」
「……花緒ちゃん?」
心ここにあらずで生返事をしてしまった花緒。山吹に怪訝そうに顔を覗き込まれて、花緒は我に返った。
「す、すみません! 少しだけぼうっとしてしまって……」
「連日の特訓で少し疲れが溜まってきているのかな。それとも、何か気掛かりなことでもある?」
山吹が鋭く目を細める。花緒の心の内心まで見透かすような視線に、花緒は山吹に隠し事はできないと悟る。
観念した花緒はおずおずと口を開く。
「あの。桜河様は今日もお一人で蛇門に向かわれているんですよね?」
「そうだね」
「……」
「桜河が心配?」
心配か、と問われれば心配だ。ただ、それだけでは収まらない複雑に絡まった気持ちをどう表現して良いのか分からない。山吹に話したら、何か変わるだろうか。花緒は頭の整理がつかぬまま、とりとめのない気持ちを吐き出す。
「……桜河様は……贄である私のことを、本当に大切にしてくださるんです」
「うん。そうだね」
「それだけ贄というものが、国にとって重要な立場だということは理解しているつもりなんですが……」
「うん……」
常世で唯一毒気を浄化する異能をもつ贄の存在は、国の存亡を大きく左右する。ゆえに王は贄を大切にする。これは自明の理だ。そんなことは分かっている。
「……自分でも、よく分からないんです。選んだ贄がこんな状態では、共に国を守るどころかお荷物でしかないのに。桜河様は一切私の事を責めず、ご自身を犠牲にしてしまうから……守ってくださることは、勿論嬉しいんです……けど」
「『そこまでして守ってもらうことに、苦しさを感じている』わけだ」
山吹の核心をついた一言に花緒はひゅっと息を呑む。おこがましいと思われただろうか。思わず苦笑がこぼれた。
「こんなこと、守ってもらってる人間が言うことではないんですけど……ただ、もっと自分を大切にしてほしくて……あまり、無理をしてほしくないんです……」
二人の間に沈黙が降る。雁渡しの風が鬱屈とした頭の熱を冷ましていく。桜河の最側近である彼に何を言っているのだろうか。新入りにして身の程を弁えていなさすぎる自分の滑稽な感情に沸々と恥ずかしさがこみ上げてくる。
しかしその沈黙を切り裂いたのは山吹の軽快な笑い声だった。
「ふふ……あっはっははは!」
「!?」
突然笑い出す山吹。この話のどこに笑う所があるのか花緒には全く分からない。ただただ笑う山吹を見て呆気にとられていた。
「あはは……いやいや、ごめんね。桜河といい花緒ちゃんといい、本当によく似てるよね」
「ちょっ……何の話ですか? 私真面目に話してるんですけど!」
なおも笑いの抜けない山吹に抗議すると、山吹はあっけらかんとした顔で言い放った。
「良いんじゃない?」
「え……」
「守られる側が苦しいって思っちゃだめなんてことはないさ。おれから見てもあいつは少し過保護な所があると思う。それに、これだけ妖力を十分に操作できるようになっているんだ。妖力的な面でも、精神的な面でも、以前よりもずっとずっと強くなっている。花緒ちゃんはもう、守られるだけでいるのが嫌なんだね」
山吹の言葉一つ一つが、すとんと胸に落ちてくる。そうだ。自分はもう、桜河に自己犠牲を強いてまで一方的に守られるだけの存在でいるのが嫌なのだと。あれから浄化に臨めていないため、確固たる自信をもって主張できるわけではないけれど。一番近くで修行を見てくれていた山吹が自分の成長と気持ちに気づき認めてくれたことが嬉しかった。
ほっとしたような表情を浮かべる花緒に山吹は微笑み返し、再び口を開く。
「ただ……桜河はね、とにかく贄を失うことが怖いんだよ。立場的に、贄を失うことの危うさを誰よりも知っているからさ。それだけは分かってやってほしいかな」
――『もう二度と贄を失いたくはない』。
ずっと胸の奥で引っかかっていた桜河の言葉。山吹の一言で花緒の脳裏に蘇る。
あの言葉を聞いてからというもの、桜河には自分の他にも贄がいたのではないかと思い始めた。自分の前にいた桜河の贄。その贄が桜河の心を占めているようで、花緒は胸にもやもやとした思いを抱えていた。それが嫉妬心だと気が付いたのは、自分が桜河のことが好きなのだと自覚してからだ。
桜河の心を捉える見ず知らずの誰か――それは一体、どのような人物だったのだろう。
(……山吹さんに、聞いてみてもいいのだろうか)
桜河の前の贄のことならば、きっと桜河の父である桜影の代から仕えていた山吹なら知っているだろう。尋ねれば教えてもらえるかもしれない。
(……でも、桜河様の過去を探るような真似をしていいのかな)
人にはきっと、知られたくない過去もあるだろう。自分がそうであったように。ましてや本人の口から聞くのではなく、他人の口から聞くことなど――。後ろめたい罪悪感が募る。桜河に軽蔑されるようなこと、嫌われるようなことはしたくなかった。けれども、このもやもやとした気を晴らしたい。桜河の前の贄のことを知りたいという気持ちもまた本当。板挟みになってしまい、花緒は何か言いたげに口を開いたり閉じたりする。
「花緒ちゃん。声に出さなきゃ、伝わらないんだよ」
「!」
「これはおれの信条なんだけど。自分の事を知ってほしいとか、相手の事が知りたいのなら、必要なのは一人であれこれ考えることじゃない。声に出して対話することだ。本当はもっと言いたいことがあるんでしょう」
「……あの……桜河様には、以前にも贄の方がいらっしゃったのでしょうか?」
「うん? どうして?」
「以前、桜河様が『もう二度と贄を失いたくはない』って、おっしゃっていたんです。でもそれって、過去に贄を失ったことがないと出て来ない言葉じゃないかと思って……」
「なるほど……そうだね。君の言う通り、それはおれが勝手に話して良いことではないと思うから。気になるのなら桜河の口から直接話してもらった方が良い。それに花緒ちゃんも、桜河に聞いてもらいたいことがあるんだろう? 現世でのことも、贄姫としての今の気持ちも。一度、桜河とお互いゆっくり話をしてみたらどう?」
「そう、ですよね。桜河様にお時間を取っていただけるか聞いてみます」
『声に出さなきゃ伝わらない』。独りで悶々と邪推していてもこの気持ちが晴れることはない。閉ざされた箱の前でいくら中身を想像したところで、開けてみなければ真実なんて分からないのだから。
開くのは怖い。
もしも桜河に、自分よりももっと大切に想う人がいると知ったら。
もしも自分が、誰かの代役でしかないと分かってしまったら。
この淡く芽生えた気持ちが実ることは一生ないのかもしれない。
それでも。
これまでの自分に対しての桜河の態度を思えば、どんな真実があろうとも受け止めたい。それが、温かく寄り添い続けてくれた彼に対する自分の誠意だ。
そう思い直し、前を向く。
「大丈夫。今の花緒ちゃんならば、桜河はきちんと向き合うと思うよ。良い結果になることを祈っているよ。それと、そろそろ再び浄化の儀に臨めるよう、おれからも桜河に掛け合っておくね」
「あ……ありがとうございます! がんばります!」
山吹と花緒は笑い合う。
(今日屋敷に帰ったら、さっそく桜河様にお時間を取っていただける日があるか伺ってみよう)
意気込んだ花緒。桜河の前の贄がどのような人物であり、どのような出来事があって失ってしまうことになったのか……。何を聞いても自分の桜河への気持ちが揺らぐことはない。これからも贄姫として彼と共にあろうと花緒は心に誓った。

