黒蛇様と契りの贄姫

 それから約一週間。花緒は山吹との特訓でひたすら妖力を感じ取る訓練を繰り返した。目を閉じて意識を集中すれば、暗闇の中を舞う桜の花びらを捉えることはできた。特訓を積むうちに、その花びらが流れのある桜吹雪に変わった。
 この風に舞い上がる桜吹雪の渦――おそらくこれが自分の妖力の流れなのだろう。
 自分の妖力の全貌が捉えられただけでも大きな進歩だと山吹には褒められた。けれども、その次の段階――妖力を顕現……実体化させることがなかなか出来ないのだ。

(自分の内にある妖力を捉えることはできても、顕現出来なければ意味がない)

 妖力を実体化させることが出来て初めて操作ができるのだから。
 いつもの特訓の場である山頂。花緒は目を閉じて自分の内に舞い踊る桜吹雪を意識する。それを自分の外へと実体化させようと両手を広げる。

(――……お願い。私の妖力、私の呼び声に応えて――!)

 強く祈りながら、花緒は大きく目を開けた。自分の足元から吹き上げる風――。けれども、それは桜吹雪ではなく山間を吹き抜けた自然のものだった。
 しんと静まり返った場内。

(……やっぱりまた駄目だった)

 不甲斐なくて項垂れる花緒。

(こうしている間にも、桜河様にご負担がかかっているのに)

 思うようにいかない自分に、気持ちばかりが焦っていく。
 こんなところで躓いているわけにはいかない。どうして自分は出来ないのだろう。
 常世の皆様を失望させるわけにはいかない。自分はたった一人の贄姫なのだから。
 唇を噛みしめる花緒。少し離れたところで見守っていた山吹が眉尻を下げて困ったふうに笑む。

「花緒ちゃん。焦りは禁物だよ。おれから見て、君は確実に前へ進んでいるよ。そもそも妖力操作を短期間で習得しようとすることが無謀の域なんだ。そうすぐに変化は訪れないよ。それに、凪いだ精神もまた習得の早道だよ。焦らない、焦らない」
「はい……。頭では分かっているのですが、どうしても気が急いてしまって……。私のどこが駄目なのだろう。何がいけないのだろうって。考えても答えが出なくて」
「君に駄目なところなどないよ。おそらく、君に足りていないのは時間だ。何事も、習得するにはある程度の時間や日数を要するものだよ。もちろん休息も必要だよ」

 山吹は言い、良いことを思いついたとばかりに手を叩いた。

「……そうだな、少し息抜きをしようか。根を詰めてばかりでは効率が落ちる。――町に下りて甘味でも食べて来よう、花緒ちゃん」
「え、ええ? わ、私にそのような時間は――」
「だから、焦りは禁物だって。さ、行こう!」

 あれよあれよという間に、山吹の風を操る妖力が巻き起こる。花緒の身体がふわりと宙に浮き上がった。山吹は何ということもなしに自由自在に妖力を操作している。けれど、おそらく長い年月研鑽を積んだ賜物なのだろう。

(たしかに、山吹さんの言うとおり気分転換をしたほうがいいのかもしれない)

 自分を追い込みすぎて、冷静に考えられなくなっているのかもしれない。肩の力を抜いてみよう。そうしたら今まで気づけなかった答えが見えてくる可能性もある。
 花緒はそう肚を括る。山吹と手を取り合い、山頂から麓の町へと降り立った。



 特訓と息抜きの日々を繰り返し――約一週間が経とうとしていた。
 この間、花緒は昼間は山吹と特訓、もしくは山吹が不在の際は一人で個人練習を積み、夜間は自室で何冊もの文献を読み込んだ。


          ***


 夕餉の刻が迫り暮れゆく陽をぼんやりと眺めながら、桜河は独り回廊を歩いていた。庭園の池の水面には茜色の光が揺らめいている。冷え込んだ透明な空気が辺りに広がり始めるのを感じ、無意識のうちに腕組みをしていた。ふと、前方の部屋の襖から一筋の光が漏れていることに気づく。花緒の部屋だった。
 山吹の話によると、花緒は着実に妖力操作の要領を掴み始めているという。まだ妖力の顕現はできていないが、遠くないうちにできるようになるだろう、と。予想していたよりも遥かに早いその上達ぶりに舌を巻く。ただ、本人に上達の自覚がない分、目に見えて焦っているのが心配だ、と山吹は続けた。おっとりしているように見えて、元来負けず嫌いな面もあるのだろう。思えば舞の稽古の際にもその片鱗は見えていた。その時と同様、また夜遅くまで人知れず特訓していることを、屋敷の者は皆知っている。花緒に対し厳しい目を向けていた蘭之介も、ここ最近の彼女の様子を静かに見守っている。結局のところ皆、思うことは一緒なのだ。我が国の贄姫が真剣に己の使命に向き合っていることは喜ばしいが、一刻も早く習得することに躍起になって無理をしていないか。それだけが心配だった。
 花緒の部屋の前まで来た桜河は、明かりの覗く隙間からそっと様子を窺う。花緒は机に突っ伏していた。どうやら寝入ってしまっているようだった。連日の努力の疲れが溜まっていたのだろう。桜河は音を立てないように襖を開けると、花緒に近づく。可愛らしい部屋の調度品に似つかわしくないほど山のごとく積まれた書物。それだけで、今日に至るまでに彼女がどれだけの努力を積んできたのか分かった。止めなければどこまでも突っ走ってしまう花緒のことを心配をしながらも、そのいじらしさについ口元が緩んでしまう。桜河は花緒を優しく見つめ、彼女を起こさないようにそっと自分の上着を肩に掛けた。

「……頑張っているな。どうか、無理だけはしないでくれ」

 桜河が耳元で囁く。花緒は目を覚ますことはなく、「ん……」と身じろぎするだけであった。そのあどけない表情や仕草に、桜河は戸惑ってしまう。

(……このような無防備な彼女を、できれば誰にも見られたくはない)

 無意識に浮かんだ考えに、桜河は己に驚いてしまう。
 今までこのような感情を誰かに抱いたことなどなかった。それなのに、彼女に対しては感情が振り回されて仕方ないのだ。自分で制御できないほどに。

(……最近の俺は、どうかしている)

 彼女のことが常に気にかかってしまうのだ。
 それは彼女が、己の贄姫だからなのだろうか――。
 桜河は消化できない初めての気持ちを持て余す。きっといつかは答えが出るのだろうか。彼女といることで答えを見つけることができるのだろうか。
 群青に沈んだ池の水面には月の鏡が浮かんでいた。