黒蛇様と契りの贄姫

(ひとまず桜河様に受け入れてもらえてよかった……)

 屋敷の中庭にある朱塗りの橋。花緒は、そこから眺められる松の木や池を泳ぐ錦鯉に目をやっていた。
 座敷での『揺らぎ』の説明後――慣れないことばかりで疲れただろうと桜河に気を遣われた花緒。しばしの間、休憩時間を貰ってこうして一人で散策に出ていた。桜河や梵天丸、山吹や蘭之介、与太郎は、今後の花緒の修練の方法を話し合うため、まだ座敷での話し合いを続けている。
 無茶な要求を押し通した自覚はある。今の状態で妖力を自在に操るのは奇蹟に等しいと山吹は言う。この身に眠るのは最強の王、桜河の妖力。才がなければ単なる暴走に収まらないかもしれない。だけど桜河の限界が迫っている以上、悠長なことは言っていられない。今はただ、僅かな可能性を信じて進むしかないのだ。花緒は胸に誓う。

(それにしても――)

 さきほど決意をした自分の頭を撫でてくれた桜河の大きな手。それを思い出して、花緒の心臓がとくんと鳴る。

(本当に、最近の自分はどこかおかしい。気が付くと桜河様のことばかり考えている気がする……)

 もやもやとした正体不明の気持ちを持て余す。はあ、と花緒は溜め息をついた。
 桜河が嬉しそうにしていると自分も嬉しい。桜河が悲しいと自分も悲しい。桜河が笑みを自分に向けてくれるだけで胸が温かいものでいっぱいになる。この気持ちは――。

「こいやなぁ」

 ――え……。

「………………恋!?」

 突然、真後ろから掛けられた声に花緒は勢いよく振り返る。お蓮がひらひらと手を振っていた。まったく気配を感じなかった。

「お蓮さん! すみません、びっくりしちゃって……」
「かんにんなぁ。何度も声かけたんやけど、あんさん全然気づかんとけったいな顔して池眺めてはったから。何見てるんやろ思てここまで来てもうたわ。鯉好きなん?」
「え!? はい! いえ、あ……こいって、鯉……あぁ……」
「あんさん、大丈夫? 良かったら少しお話しよか」
「は、はい。もちろんです」

 お蓮は優雅な仕草で花緒の隣に並ぶと、そっと欄干にしなやかな手を置いた。
 先ほどは聞き間違いだったけれど、悶々と絡まった思考の中に飛び込んできた『恋』という単語。その言葉に突如雷に打たれたような衝撃を受け、花緒の心臓がばくばくと早鐘を打っていた。

「なんやぎょうさん溜め息ついてはったけど、そないに思いつめんと。お顔がしおしおになってまうで」
「し……しおしお……」
「桜河はんやろ?」
「!? ……な、なんで……!」
「ふっふ。あんさん見とったら、うちやのうても分かりますえ。桜河はんのこと、えらい好いたはるんやねぇ?」

 お蓮にまじまじと問いかけられる。自分の気持ちに確信が持てなかった花緒は、困ったように微笑んだ。
 自分は恋愛感情というものがよくわからない。異性を異性として好きになったことがないのだ。自分は、常世の皆のことが好きだ。けれども、桜河に対する好きとはどこか違う気がする。
 花緒は、このどうしようもない気持ちを解決したい。その一心でお蓮に問いかける。

「お蓮先生。私、気が付くと桜河様のことばかり考えているんです。どうしたら彼に喜んでもらえるだろう、とか。どうしたら笑ってくれるだろう、とか。できれば辛いお顔や悲しいお顔はしないでほしいな、とか……」
「あらあら……ふっふ、あんさんほんまにかいらしいなぁ」
「なっ……ちょっと、私は真面目なんです! そんなに笑わないでください!」

 ついにお蓮は腹を抱えて笑い出してしまう。花緒はこれ以上ないくらい顔に熱が集まる。きっと自分は真っ赤になっているだろう。

(好き……。私が、桜河様のことを……?)

 これが恋い慕うという気持ちなのだろうか。四六時中、彼のことが気になってしまったり。彼の一挙一動に振り回されてしまったり。
 彼に、自分を見て欲しいと思ってしまったり――。

「……――――っ」

 恋を自覚したからだろうか。花緒は居たたまれなくなってその場に蹲る。
 お蓮が腰を屈め、そんな花緒の肩に優しく手を置いた。

「そないに恥ずかしがらんでもええのに。あんさんに想うてもろて、桜河はんは幸せもんやなぁ」

 お蓮はにっこりと人好きのする笑みを浮かべると、足元に広がる池へと視線を外す。橋の下では二匹の鯉が戯れている。離れては近づき、近づいては離れて。ゆらゆらと泳ぐ黒と白を見つめながら、お蓮はぽつりぽつりと話し始めた。

「……桜河はんなぁ。これまでずっと、なんでもおひとりで抱えてきゃはったんえ。いつもむつかしいお顔して、誰にも弱みを見せんと……歴代最強の妖の王なんて言われてはるけど、戴冠したんは百二十歳の時やさかい、ほんまはもっと周りの大人に頼りたかったやろうに……『最強の王』っちゅう言葉はな、文字通り桜河はんが『最強』やって民に知らしめると同時に、桜河はんが人に頼れへんくなってもうた呪いの足枷でもあんねん」

 お蓮の言葉にはっとする。『歴代最強の妖の王』。多くの人々が口にするその言葉が、桜河にとってどんな意味をもつのか、これまで考えたことがなかった。百二十歳――現世でいうところの十二歳。まだまだ周囲の大人たちに守られるべき少年だ。そんな年頃で国の一番上に立ち、民を守らなければならない立場に立たされた彼は一体、どれだけの責任を背負ってきたのだろうか。桜河の肩に乗っているものの重さにやっと気づく。
 花緒の顔を覗き込んで、お蓮がにこやかに笑む。それは彼女のいつもの艶やかな笑みとは違い、心の柔らかい部分を見せるような素朴な笑みだった。

「せやけど桜河はん、随分雰囲気やらこなったんよ。前は刺々しい雰囲気で屋敷でも山吹はんや蘭之介はん以外ほとんど話すことなかってんけどなぁ。きょうび、忙しなく方々頭下げて回ってはるのをよう見るようになったんどすえ。あんさんがここに来て苦労せんように……桜河はんもあんさんのこと、ほんまに大事に思ってはるんよ」
「桜河様……」

 知っていたつもりだった。だけど、こうして第三者の口から改めて聞かされる桜河の気遣いに、花緒は胸がいっぱいになる。

「やから、桜河はんの隣に立つのがあんさんなら――だあれも反対しいひんよ。これからもずっと、桜河はんを支えとおくれやす」

 ――恋心。自分にはまだ、それがどのような気持ちなのかはっきりはわからないけれど。

 それでも自分は桜河に惹かれて始めているのだと。花緒は少しずつ少しずつ、自覚を持ち始めていた。