桜河は花緒の動揺には気が付いていないようだった。むしろ、己が花緒を感情のままに抱きしめていたことに気づいたらしい。はっと我に返り、花緒の身体を離す。

「か、花緒、すまない……! 許可もなく、触れてしまった……」
「あ、い、いいえ! 大丈夫です……。私のほうこそ、ご心配をかけてしまって申し訳ございません」
(聞けない……)

 桜河に、自分の他にも贄がいたのかということ。その者はどのような人物だったのかということ。男性だったのか、それとも女性だったのか……。桜河にとってその人は、どのような関係だったのか――。
 聞けないのではない。聞きたくなかったのかもしれない。
 その贄が、もしも女性だったら。桜河にとってその女性が大切な人だったとしたら。

『二度と失いたくない』と自責の念に駆られてしまうくらいに――。

 自分が新たに贄姫に選ばれたということは、その人はおそらく何らかの理由でいなくなってしまったのだろう。深い事情はわからない。けれどももし、その人が桜河にとっての想い人だとしたら……。

(……っ)

 ずきん、と胸が痛んで花緒は困惑する。何なのだろう、この気持ちは。桜河にとっての贄は自分だけではなかった。自分ではないその人が彼の想い人であったのかもしれない。そうだとしたら、自分は彼にとってただの二人目の贄にしか過ぎない。

(……桜河様は、私が贄だから大切にしてくださっていただけ。それ以上の理由などない。そんなこと、わかりきっていたはずなのに――)

 なぜこんなにも悲しい気持ちになってしまうのだろう。
 俯いて黙り込んでしまった花緒の顔を、桜河が気遣うふうに覗き込む。

「花緒、どうしたのだ? どこか具合が悪いのか?」
「いいえ、いいえ、大丈夫です……! それよりも桜河様、このようなところで眠っておられて……。私などの傍に付いていてくださったのですか?」
「無論だ。おまえは、あの『浄化の儀』の後、三日間も眠っていたのだぞ」
「みっ……」

 花緒は息を呑む。あの儀式からそれほど日が経っているとは思わなかった。そうということは、桜河は三日近く自分の傍に付いていてくれたのだろうか。ずいぶんと心配をかけてしまったに違いない。
 桜河が手を伸ばし、花緒の真っ白な髪を一房掬い上げる。知らず知らず俯いていた花緒は、その優しい仕草に驚いて顔を上げた。目が合うと、桜河が穏やかに目を細める。

「――……本当に、無事でよかった。儀式の終わりにおまえが倒れた時は、気がおかしくなるかと思った。そのくらい心配だったのだ」
「桜河様……」

 それが花緒自身を心配してくれているのか。それとも花緒の前にいた贄のことを思い起こしてのことなのか。花緒には判断が付かない。けれども、それを問うこともできず、花緒は曖昧に微笑んだ。

「……ありがとう、ございます。私はこの通り大丈夫でございます。むしろ、儀式を上手く遂行できずに申し訳ございません。全て私の不徳の致すところでございます」
「気にすることはない。順当とは言えなかったかもしれないが、結果的に儀式は上手くいった。おまえは贄姫の役目を立派に果たしたのだ」
「桜河様、ありがとうございます……!」

 桜河の気遣いが嬉しかった。それと共に申し訳なかった。嬉しさと悔しさ。その気持ちがない交ぜになって、花緒の瞳からぱたぱたと涙が零れ落ちる。
 花緒は驚いて、着物の袖で涙を押さえようとする。

「も、申し訳ございません……! このような、はしたないっ……」

 涙を止めようとするけれど。一回零れ出てしまったからか、堰を切ったように次々と涙が溢れてしまう。……強がってはいるけれど、自分は怖かったのだと思う。初めての儀式。初めての浄化。その時に起きてしまった不測の事態――。

「花緒……」

 桜河は戸惑った様子で花緒を見つめている。

(ああ、桜河様を困らせてしまっている。早く、涙を止めなきゃ)

 そうして謝罪をしなければ。もっと強い贄となります。次こそは儀式を上手く成功させます、と――。
 それなのに上手く笑顔を浮かべられない。

(どうして止まってくれないの……!)

 花緒が、涙を止めようと強く目を閉じた時だった。桜河が腕を伸ばし、花緒を包み込むように抱きしめる。花緒は自然と彼の胸元に顔を埋めることになる。驚いて目を見開いている花緒の頭を、桜河の手がぎこちなく撫でる。

「花緒。泣くな。おまえにそのように泣かれると、俺はどうしたらいいのか分からない」
「桜河、様。申し訳ございませっ……」
「謝るな。おまえは良くやった。こうして無事に生きてくれているだけで、俺はとても――……安心しているんだ。もう、あのような無茶はしないと約束してくれ」

 耳元で切実に紡がれる言葉。
 このように優しくされたら、もっと涙が止まらなくなってしまう。
 もう、この優しい人に心配をかけたくなかった。辛い顔をさせたくなかった。さきほどは、自分の他にも贄がいたことに戸惑ってしまったけれど――そのようなこと、さしたる問題ではないではないか。自分はただ、この人の期待に応えて贄姫の務めを果たす。この人が守る黒姫国を共に守る一員になれたら、それで充分なのだ。それ以上、何を望むことがあるだろう。
 花緒は気持ちが温かいもので満たされていく。いつの間にか涙も止まっていた。間近にある桜河を見上げ、泣き笑いの笑顔を浮かべる。

「桜河様。約束いたします。もう、ご心配をおかけするようなことはしないと」
「……っ」

 桜河が、花緒の笑顔を凝視する。その耳元が赤くなっていることに、花緒は気が付かなかった。
 部屋の障子から、夕暮れの穏やかな明かりが畳に差し込んでいる。長く伸びた二人の影は、お互いの信頼を深め合うように見つめ合っていた。
 やがて桜河はそっと花緒の身体を離す。立ち上がると、花緒を振り返った。

「では、俺はこれで失礼する。おまえはゆっくりと休んでくれ」
「はい。傍に付いていてくださり、ありがとうございました。……では、また後で」

 『また会いたい』という言葉が無意識に出て、花緒はそんな自分に驚いてしまう。なんとも恥ずかしくなってしまうが、言ってしまった手前、もう引っ込みがつかない。じんわりと顔が熱くなる中で、桜河の反応を待つ。彼も少し驚いたように目を見開いた後、優しく瞳を細めて微笑んだ。

「……ああ。また後で」



 障子を閉めて花緒の部屋を退出した桜河。さきほど見た、花緒の気恥ずかしそうな可憐な笑顔が頭から離れない。

「…………」

 桜河は表情を引き締める。
 失いたくないもの、大切なものを守るために自分にできることは――。
 桜河は密かに拳を強く握りしめる。そうして静かにその場を立ち去った。