――妖の王『黒蛇』。
歴史書物の記録資料でしか想像のできなかった存在。その姿を目の当たりにした花緒たちは、あまりの恐ろしさに言葉を失っていた。
人を易々と丸呑みできそうなほど大きく裂けた口。矮小な人間など一締めで殺してしまえそうな長い尾は、池の水面でとぐろを巻いている。もたげた頭は、まるで獲物を捕らえるように花緒たちを見下ろしていた。
数人の護衛が尻餅をつきながら後ずさる。
「ひッ、ひいい! お助け!」
「こんなところで死にたくねえよお」
「お、おまえら、勝手に逃げるな!」
定正が眉を吊り上げたが、護衛たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。それを皮切りに、辺りは護衛たちが右往左往して阿鼻叫喚となる。皆がパニックに陥る中、花緒は死を覚悟してここまで来たからか、逃げ出そうとは思わなかった。
(……皆が混乱するのも無理もないわ。こんなにも恐ろしいのだもの)
花緒は地面に膝をついたまま、顔を上げる。
かつて『現世』を壊滅まで追い込んだ『常世』の王。その名のとおり、身も竦むほどの恐怖が背筋を走る。畏怖の念とは、今抱いている気持ちを指すのかもしれない。
「お父様! わたくしたちも逃げましょう! こんなところにいたら喰われてしまうわ」
「あ、ああ。だが――」
「この化け物を囮にすればいいのよ! どうせ喰われるのですもの。少しはわたくしたちの役に立って死んだほうがマシでしょう?」
言うが早いが、珊瑚は化け物と称した花緒の手首を掴み、背中を思いきり突き飛ばした。つんのめった花緒は、あわや縁から池に落ちそうになる。その身体を、尾の先を翻した黒蛇がそっと押し返した。
(え……?)
はっと花緒は視線を上げる。
――池に落ちないように助けてくれた……?
真相はわからない。けれど、こちらを見つめる金の双眸に不思議と敵意は感じられない。
花緒と黒蛇のやり取りに気づいていない珊瑚は、取り乱す。
「さっさと喰われてしまいなさい! 妖の王は美丈夫だなんて信じたわたくしが馬鹿だったわ。化け物同士、お似合いよ!」
「『黒蛇』、その娘がおまえの贄姫だ。好きに喰らうがいい!」
定正は吐き捨てると、珊瑚を庇いながらその場を逃げ出した。誰もが退散してしまい、その場に一人ぽつんと残される花緒。
(誰もいなくなってしまった……)
花緒は再びまじまじと黒蛇の姿を見やる。黒蛇も静かにこちらを見返してきた。黒に金の散りばめられた美しい鱗。けぶる甘い桜の香り。
どうしてだろう。黒蛇を見ていると、とても懐かしい気持ちになるのだ。まるで過去にどこかで出会ったことがあるような――。
刹那、黒蛇が大きく口を開いた。真っ赤な口内と鋭い牙が覗く。
――喰われる……!
咄嗟にそう思った。一気に体の内を恐怖が駆け巡る。あの牙が食い込んだら痛いだろうか。自分の贄の血が傷口から噴き出るのだろうか。そんなことを考えている余裕すらないのだろうか。
恐怖の反面、安堵の気持ちもあった。これで自分はあの監禁生活から解放される。黒蛇はもちろん、家族や『現世』の人々の役にも立てる。
それならば、自分が贄姫として生まれてきた意味があったのではないだろうか。
そう思うと救われる気がした。こんな自分を喰らってくれる黒蛇に感謝しなければいけない気がした。
(どうか私を、黒蛇様のお役に立ててください――……!)
黒蛇は花緒を一気に丸呑みした。だからだろうか、鋭い痛みは感じなかった。
黒蛇への感謝の気持ちと共に、花緒の頬を涙が一筋伝い落ちる。
視界が暗転した。
黒蛇と花緒が去った後、池の水面にさざめいていた波紋が消える。
辺りは静寂だけが残されていた。
歴史書物の記録資料でしか想像のできなかった存在。その姿を目の当たりにした花緒たちは、あまりの恐ろしさに言葉を失っていた。
人を易々と丸呑みできそうなほど大きく裂けた口。矮小な人間など一締めで殺してしまえそうな長い尾は、池の水面でとぐろを巻いている。もたげた頭は、まるで獲物を捕らえるように花緒たちを見下ろしていた。
数人の護衛が尻餅をつきながら後ずさる。
「ひッ、ひいい! お助け!」
「こんなところで死にたくねえよお」
「お、おまえら、勝手に逃げるな!」
定正が眉を吊り上げたが、護衛たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。それを皮切りに、辺りは護衛たちが右往左往して阿鼻叫喚となる。皆がパニックに陥る中、花緒は死を覚悟してここまで来たからか、逃げ出そうとは思わなかった。
(……皆が混乱するのも無理もないわ。こんなにも恐ろしいのだもの)
花緒は地面に膝をついたまま、顔を上げる。
かつて『現世』を壊滅まで追い込んだ『常世』の王。その名のとおり、身も竦むほどの恐怖が背筋を走る。畏怖の念とは、今抱いている気持ちを指すのかもしれない。
「お父様! わたくしたちも逃げましょう! こんなところにいたら喰われてしまうわ」
「あ、ああ。だが――」
「この化け物を囮にすればいいのよ! どうせ喰われるのですもの。少しはわたくしたちの役に立って死んだほうがマシでしょう?」
言うが早いが、珊瑚は化け物と称した花緒の手首を掴み、背中を思いきり突き飛ばした。つんのめった花緒は、あわや縁から池に落ちそうになる。その身体を、尾の先を翻した黒蛇がそっと押し返した。
(え……?)
はっと花緒は視線を上げる。
――池に落ちないように助けてくれた……?
真相はわからない。けれど、こちらを見つめる金の双眸に不思議と敵意は感じられない。
花緒と黒蛇のやり取りに気づいていない珊瑚は、取り乱す。
「さっさと喰われてしまいなさい! 妖の王は美丈夫だなんて信じたわたくしが馬鹿だったわ。化け物同士、お似合いよ!」
「『黒蛇』、その娘がおまえの贄姫だ。好きに喰らうがいい!」
定正は吐き捨てると、珊瑚を庇いながらその場を逃げ出した。誰もが退散してしまい、その場に一人ぽつんと残される花緒。
(誰もいなくなってしまった……)
花緒は再びまじまじと黒蛇の姿を見やる。黒蛇も静かにこちらを見返してきた。黒に金の散りばめられた美しい鱗。けぶる甘い桜の香り。
どうしてだろう。黒蛇を見ていると、とても懐かしい気持ちになるのだ。まるで過去にどこかで出会ったことがあるような――。
刹那、黒蛇が大きく口を開いた。真っ赤な口内と鋭い牙が覗く。
――喰われる……!
咄嗟にそう思った。一気に体の内を恐怖が駆け巡る。あの牙が食い込んだら痛いだろうか。自分の贄の血が傷口から噴き出るのだろうか。そんなことを考えている余裕すらないのだろうか。
恐怖の反面、安堵の気持ちもあった。これで自分はあの監禁生活から解放される。黒蛇はもちろん、家族や『現世』の人々の役にも立てる。
それならば、自分が贄姫として生まれてきた意味があったのではないだろうか。
そう思うと救われる気がした。こんな自分を喰らってくれる黒蛇に感謝しなければいけない気がした。
(どうか私を、黒蛇様のお役に立ててください――……!)
黒蛇は花緒を一気に丸呑みした。だからだろうか、鋭い痛みは感じなかった。
黒蛇への感謝の気持ちと共に、花緒の頬を涙が一筋伝い落ちる。
視界が暗転した。
黒蛇と花緒が去った後、池の水面にさざめいていた波紋が消える。
辺りは静寂だけが残されていた。

