花緒が目を覚ましたのは、空に紫色の雲の伸びる夕暮れ時だった。もうずいぶんと見慣れた部屋の風景。どうやら桜河の屋敷にある自室のようだ。
 掛け布団を剥いで起き上がろうとしたところで、ふと隣に人の気配があることに気付く。

(……?)

 何気なくそちらを見やると、すぐそばに桜河の端正な顔があった。驚きすぎて息を呑む花緒の耳に、桜河の穏やかな寝息が聞こえてくる。どうやらすっかり寝入ってしまっているらしい。気づけば、自分の手を桜河がしっかりと握ってくれている。繋がれた手を通して彼の温かい体温が伝わって来る。花緒は音が聞こえそうなほどに心臓が早鐘を打った。

(これは、一体、どういう状況?)

 自分が置かれている状況が分からず、花緒は混乱する。恥ずかしくて爆発してしまいそうだけれど、桜河が健やかに寝ている手前、手を振りほどくこともできない。
 どうしてこのような状態になっているのか。花緒は記憶を思い起こす。
 たしか神楽殿で『浄化の儀』を行って――集中力の乱れから途中で浄化が上手くできなくなってしまった。それでも何とか気持ちを立て直して、舞を続けることでだんだんと毒気が散じていって……。無理をしたせいか身体に負担がかかり、神楽舞を舞い終わったところで自分の記憶は途切れていた。夢うつつの中で、桜河が崩れ落ちる自分を支えてくれていた気がする。自分を見下ろす桜河が、あまりにも蒼白な表情をしていて――。

(あっ……)

 花緒は、今の状況がすとんと腑に落ちる。自分は儀式の直後に気を失った。あのあと、きっと桜河が自分を屋敷まで運んでくれたのではないだろうか。そうして気を失ったままの自分の様子を見に来てくれていたのではないだろうか。

(桜河様だって、私が足を引っ張ってしまったせいでお疲れだと思うのに……)

 こうして眠りこけてしまうほど、傍に付いていてくれたのだろうか。
 とくん、と心臓が鳴る。桜河のさりげない優しさが、切なくなるほどに嬉しい。

(桜河様は、どうしてこんなにも優しくしてくださるのだろう……)

 自分が贄姫だからなのだろう。だからこそ、初めての『浄化の儀』で贄姫としての務めを果たしたかったのに――。結果は、こうして気を失ってしまうほどの失態だった。毒気の浄化が上手くいったのかもはっきりしない。中途半端な自分が情けなかった。やはり自分などには、誰かの期待に応える力などないのだ。
 ふと桜河の寝顔が、僅かだけれどやつれていることに気付く。妖の王であり、その中でも歴代最強の妖力を誇るとはいえ、彼だって無敵ではないのだ。毒気を解毒する負担がかかり続ければ、彼は疲弊してしまう。
 花緒は唇を噛みしめる。

(……そうだ、弱気になっては駄目。初めてが上手くいかなかったからって、ここで諦めるわけにはいかない)

 自分は贄姫として黒姫国を守る一端となると誓ったのだ。ここで諦めてしまったら、自分は今度こそ居場所を失ってしまう。そしてこの優しい人が――桜河が一身に毒気を受け続けることなるだろう。

「それだけは……――させられない」

 まだきっと、自分にできることがあるはず。諦めるには早すぎる!
 花緒がそう思い直し、桜河と繋がれた手に少しだけ力を込めた時だった。

「ん……」

 桜河の整った眉がぴくりと動く。花緒はたじろいだ。この状況をいかに躱したらいいものか。そんなことを考えている暇もなく、瞼を開けた桜河の間近で目が合った。切れ長の深い金の瞳に吸い込まれそうになる。
 花緒は場を凌ぐため、さりげなく桜河の手を離した。上体を起こして姿勢を正す。

「あ、お、桜河様。おはよう、ございます。このたびは、大変ご迷惑をおかけし――」
「花緒! 気がついたのか!」
「きゃ!」

 驚くほどの剣幕で飛び起きた桜河は、勢いのままに花緒の腕を引いた。そのまま桜河の広い胸に抱き込まれる。ふわりと匂う白檀の香り。桜河もまた好んで焚いているのだろうか。男性らしい厚い胸板に戸惑うばかりの花緒。振り払うこともできずにいると、桜河は構わずに花緒の背に腕を回した。花緒の体温を確かめるかのように強く抱きしめる。

「良かった……! おまえが無事で――……!」
「お、桜河様、あのっ……!」
「俺は、もう『二度と』贄を失いたくはない」
(え――……)

 花緒の肩口に顔を埋め、桜河が振り絞るように言う。その掠れた声の叫びが、花緒の心に小さな石を落とした。

 ――『もう二度と贄を失いたくはない』。

(桜河様には、私以外にも贄がいたということ――……?)

 自分でもわからないもやもやとした感情。花緒は桜河の腕の中で身じろぎすらせず、ただただ戸惑うばかりだった。