黒蛇様と契りの贄姫

 なおも少女の記憶は花緒に重くのしかかる。

『この役立たずが! あんたなんかさっさとこの家から居なくなればいいのよ!』
「やめてください、おかあ様……っ」

 少女が頭を抱えてか細い声で言う。震えている小さな背中が、絞り出すような悲鳴の嘆願が、怯えきった目が――花緒は全てが過去の自分と重なった。
 気持ちが乱れて、舞に集中できない。このままでは『浄化の儀』は失敗してしまうかもしれない。きちんとお役目を果たさなければ。自分が桜河に贄姫として選ばれたのだから。
 彼の期待に応えたい。このような情けない姿、彼に見られたくない――。
 花緒は桜河を振り返る。彼は強張った表情でこちらを凝視していた。いつも冷静な彼に似つかわしくないほど、焦りを滲ませている表情。

(桜河様……?)

 ――何。何かが起きている……?

 その時になって初めて。花緒は己の周囲が毒気に満ちあふれていることに気づく。さきほどまで徐々に参じていたはずの毒気。それが確実に戻って来ていた。大池の周囲で青白い輝きを放っていた花々の光も弱まっている。
 花緒は明らかな異常に気付く。

(どうして? 余計なことを考えたから?)

 少女の記憶に気を捉われてしまった。舞に祈りを込められていなかったせいだろうか。
 花緒は全身に冷や水を浴びたように震える。かろうじて舞い続けるけれども。指先が氷のように冷たくなる。動揺がこみ上げてくる。――どうしよう、どうしよう。
 焦りと緊張が花緒の心を支配する。このままでは失敗してしまう。

(なんとか立て直さないと……!)

 けれども、一度乱れてしまった舞の集中力を取り戻すことは難しい。
 桜河の隣に座っていた与太郎が、切羽詰まった表情で桜河に何かを訴えている。

「いかん! 『揺らぎ』が――」
(『揺らぎ』……?)

 響く神楽の隙間から微かに聞こえる与太郎の声。ほとんど聞こえない会話の中から、『揺らぎ』という言葉だけがはっきりと花緒の耳に届いた。『揺らぎ』とは何だ。お蓮からも瓢坊からも聞いたことがない。だが与太郎の声色から察するに、おそらく相当にまずい状況だということは分かる。
 なんとかしなければ。けれどもどうやって……!
 花緒は混乱する。そうしている間にも、毒気は辺りに満ち始める。あまりにも濃度が濃くなっては、ここにいる全員に危険が及んでしまう。

(私のせいだっ……。私が余計なことに気を取られてしまったから……)

 自分の未熟さを悔いる。これでは贄姫失格だ。花緒の神楽は完全に止まってしまっていた。その場に棒立ちになった花緒の目から涙が零れ落ちる。
 泣いても何も解決しないのに。状況は悪くなるばかりなのに。

(私に、桜河様の贄は務まらない……!)

 所詮は化け物と言われた忌み嫌われた子。そのような自分に毒気を祓い、霊魂を救うなど救世主じみたことは出来なかったのだ。分不相応だったのだ。
 その場に膝から崩れ落ちる花緒。自分の無力さが情けない。堪らず桜河と梵天丸は花緒に駆け寄る。

「花緒、大丈夫か!」
「桜河様……! 私……っ」

 桜河が花緒を守るように肩に手を添える。泣き顔を主に見せることも構わず、花緒は桜河をすがるように見つめた。花緒を危険に晒してしまった――深い後悔を滲ませる彼の表情が花緒の胸を抉る。
 贄姫の役目を果たしたい。自分の贄に選んだ桜河に応えたい。けれども、こうやってしまってはどうしたら良いのかわからない。
 その時だった。花緒の脳裏に、お蓮の言葉が蘇る。

 ――お神楽と申しますもの、贄姫の魂と霊魂を結び繋ぐ尊き御儀式にございます。どうぞ御心を研ぎ澄まして舞いなはれ――

(――……そうだ。まずは心を落ち着けなければ。桜河様もお蓮先生も美しいとおっしゃってくださった私の舞。あの時の感覚を思い出して)

 花緒は混乱していた気持ちを鎮める。自分はもう、泉水家で怯えて暮らしていた幼い頃の自分ではない。自分には居場所がある。信じてくれる人たちがいる。自分の力で守りたい大切な人たちがいるのだ。
 場を見かねた桜河が、花緒を守るように立ち上がろうとする。

「花緒、無理をするな。やはり俺が――」
「桜河様。……申し訳ありません。大丈夫です。やらせてください」

 桜河を制し、花緒は姿勢を正して仕切り直す。もう一度、その場で静かに一礼をした。仕切り直しを自分自身や周囲に示すように。

 ――シャラン、シャラシャラ、シャララ。

 静かに鈴の音を奏でる。花緒は頭の中で桜河の屋敷の光景を思い描いた。舞の稽古の風景。大広間で伸び伸びと舞っていた感覚を身体に降ろす。それと同時に、屋敷で自分の帰りを待っている山吹や蘭之介、梅やお蓮や瓢坊のことが頭を過った。

(必ず『浄化の儀』を成功させて、皆さんのところに帰りたい――……!)

 そう強く願う。花緒の表情には凛とした迫力が戻って来ていた。
 辺り一面を濃く覆ってしまった毒気の中で、花緒は力強く舞い続ける。

(お願い、鎮まって……!)

 花緒は祈りを込める。
 そう願った瞬間、鈴と花緒の身体がまばゆい光を放った――……。