――あの人たちの気持ちに応えたい。私にもできることがあるのなら。
花緒の気持ちが奮い立つ。不安や恐怖、動揺は完全には拭えない。けれども、さきほどよりも手の震えは治まった。これならばきっと舞えるはず。
花緒の心が鎮まったことを見計らい、桜河が彼女の肩に片手を乗せる。
「花緒。神楽を舞う準備は整ったか?」
「はい。ご心配をおかけしました。だいぶ落ち着いてまいりました」
花緒は隣に並んだ桜河を見上げて微笑む。
その時、頃合いを待っていたかのように花緒たちの目の前に狐火が五つ浮かび上がった。それらは揺らめきながら、やがて四つともが次第に妖魔の形を取る。妖魔は、白く尖った耳に豊かな毛を持つ尾を持っていた。妖狐の一族だ。頭首と思われる老齢の妖狐が白袴、他の四人は紫袴を着ている。
白袴の妖狐が前に進み出る。恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました。桜河様。贄姫様」
「与太郎、蛇門は変わりないか。見ての通り、今回の『浄化の儀』は贄と共に行う」
「承知いたしました。遂に桜河様も贄姫様をお選びになられたのですね。我ら妖狐一族、贄姫様のお神楽の楽人を務めさせていただきましょう」
桜河に与太郎と呼ばれた妖狐が、再度深々と頭を下げた。与太郎は老齢だが、周囲に付き従っている四人の妖狐は若者もおり、年齢は様々だ。皆、男性のようだった。
与太郎の口振りから察するに、彼らが神楽を舞う際に神楽囃子を演奏するのだろう。
花緒も一礼する。
「お初にお目にかかります。花緒と申します。本日はよろしくお願いいたします」
「贄姫様にとって初めての『浄化の儀』でございますね。我々、妖狐一族は、妖の王より代々この蛇門のある森一帯を守るお役目を賜った一族でございます。贄姫様のお神楽を支えられるよう、我々一同、力を尽くす所存でございます」
与太郎は挨拶を済ませると、蛇目池のほうを振り返った。片手を大池の中島へと伸ばした。途端、中島に水柱が上がる。それが左右に真っ二つに割れると、どこに隠されていたのか立派な神楽殿が姿を現した。
(わ、あ……!)
中島に突如として現れた神楽殿は、朱塗りの柱と屋根だけで壁はない。ただ、開放的な高床式の舞台構造で、大池の中央に建てられていることが特徴的だった。自然と一体化しているようで、霊魂の毒気を祓う『浄化の儀』にふさわしい造りだ。
(なんて立派な神楽殿。与太郎様たちがずっと守ってくださっていたのね)
妖の王と贄のため。ひいては黒姫国のために、妖狐一族は神楽殿は元より、蛇門、蛇目池、この聖域の森を守り続けてきたのだ。
花緒はごくりと唾を呑み込む。胸の奥から緊張感がこみ上げてくる。
与太郎がこちらを振り返る。
「それでは皆様まいりましょう」
与太郎が指示を出すと、控えていた四人の妖狐が両手を神楽殿に向ける。すると、大池の水面の上に青白い光の帯が伸びた。光の道は神楽殿へと続いている。代々、森一帯を守護している妖狐の一族特有の異能なのかもしれない。
淡く光り輝く道を、与太郎たちは淀みない足取りで進んでいく。花緒も桜河に促されてその道に足を踏み出した。光の帯に導かれるままに歩いていくと、道は神楽殿の板敷の間で途絶えていた。全員が渡りきると、道は役目を終えたかのように散じた。
気がつけば、四人の妖狐が神楽殿の端にまとまって座っている。それぞれが神楽笛・篳篥・箏・太鼓の楽器を手にしていた。花緒に与太郎が声をかける。
「贄姫様、ご準備が整いましたら舞殿の中央へ」
桜河が花緒の背中をそっと押す。
「花緒。大丈夫だ。行ってこい」
「はい……!」
花緒は胸に手を当てて一度深呼吸をする。気持ちが昂らないよう、鎮める。桜河が、梵天丸が、与太郎たちが花緒の一挙一動に注目する。花緒は舞い手として神楽殿の中央に進み出た。周囲を滞留している毒気で肌がひりついた。
(――……何となくだけれど、息苦しい)
無意識に身体が毒気に拒否反応を示しているのだろう。花緒の持つ贄の血は浄化の異能を持つ。毒気と浄化は相対するものだからだ。
神楽鈴も、稽古で持っていた時よりも重く感じる。それだけこの空間にいることで身体に負担が掛かっているのだ。長居は無用。腰が引けている場合ではなく、手早く済ませてしまうべきなのだろう。
舞姫である花緒の草履が小さな音を立てる。水辺に佇んでいた霊魂たちが、申し合わせたかのように立ち上がる。神楽殿に立つ花緒に一斉に注目した。
花緒は霊魂たちに静かに一礼をする。顔を上げ、蛇門を見据えた。彼女の凛とした横顔が青白い花明かりに縁どられる。
皆の息遣いさえ聞こえない静寂の中。花緒は神楽鈴を持つ腕をゆっくりと広げた。指先まで神経を研ぎ澄ませる。神の御業をこの身に降ろす。真心を込めて舞うのだ。
巫女装束の袖がふわりと宙を舞う。立ち昇る青白い光源の中で舞う花緒は、あまりにも神聖だった。神と人とを繋ぐ橋渡しを思わせる。まるで流れる水のように滑らかな舞に、霊魂たちはもちろん、桜河たちも目を離せずにいた。
(……大丈夫。上手く舞えている、と思う)
軽やかに足を運びながら、花緒は思う。自分でも、神聖な気が高まっていることを感じる。自分の内に流れる贄の血が熱を持ち、体から力が溢れてくるのだ。
花緒がシャラン、と鈴の音を鳴らすごと、周囲の毒気が散じていく。一面に咲き乱れる青白い花の明かりが次第に増していく。それは神気のようで、舞い続ける花緒の祈りに応えるように大池に舞い上がった。
花緒は強く祈りを込める。
(大神様。御神意のもと、どうかこの地に集う迷える魂をお救いくださいませ)
花緒の瞳は真っ直ぐに前を見つめている。裾が風をはらみ、白い衣が毒気の闇に浮かび上がる。
――シャラン、シャラシャラ、シャララ。
鈴の音が冴え渡る。花緒の妖力に反応し、鈴もまた青白い輝きを発する。舞は次第に高まっていき、鈴の最後の一振りで場の毒気を完全に取り除ける――その瞬間だった。
『あんたなんか居なきゃよかった!』
(え――……)
突如として耳に聴こえた声。花緒は僅かに動きを止める。
咄嗟に声のしたほうに目を向けると、一際どす黒い毒気を纏った塊を捉えた。靄に包まれたそれはやがて、大池の縁に蹲る一人の少女の姿を取る。少女の見つめる先にあるのは大池の水面。そこには、彼女の現世の記憶が映し出されている。
自分は贄姫としてこの場の霊魂と魂を繋いでいるからだろうか。花緒には、水面に映っている少女の記憶が鮮明に視えていた。
『あんたなんて生きている価値もないくせに!』
「やめて……やめてッ……!」
少女が震えながら頭を抱えている。水面にあるのは彼女の母親だろうか。少女の怯え方からして、おそらく母親から酷い扱いを受けていたのだろう。
花緒はその幼い少女の姿が、泉水家で虐待されていた自分のそれと重なる。あの時の恐怖が思い出される。父親から折檻されることのないよう、ひたすら目立たないように怯えて暮らしていた。珊瑚と顔を合わせれば罵られていた。屋敷の使用人たちからは化け物扱いされて満足に食事も出されなかった。
人として無価値であった自分。それが、目の前の霊魂の少女の記憶にあった『生きている価値もない』という言葉と重なる。まるで自分に言われているかのように。
(嫌だ……。思い出したくない……!)
そう思えば思うほど、気持ちがざわついていく。鎮めようと思っても、泉水家で虐げられていた記憶が次々と脳裏をよぎった。
花緒は少女から流れ込む記憶に気を取られる。動揺が収まらない。舞の足運びがおろそかになっていることにも気づけずに。鈴の音が冴えを失っていることにも気づかずに。
桜河と梵天丸が花緒の異変に気付く。
濃く淀んだ毒気が這い出し、青白い花々の神気を穢し、神楽殿に充満し始めた。
花緒の気持ちが奮い立つ。不安や恐怖、動揺は完全には拭えない。けれども、さきほどよりも手の震えは治まった。これならばきっと舞えるはず。
花緒の心が鎮まったことを見計らい、桜河が彼女の肩に片手を乗せる。
「花緒。神楽を舞う準備は整ったか?」
「はい。ご心配をおかけしました。だいぶ落ち着いてまいりました」
花緒は隣に並んだ桜河を見上げて微笑む。
その時、頃合いを待っていたかのように花緒たちの目の前に狐火が五つ浮かび上がった。それらは揺らめきながら、やがて四つともが次第に妖魔の形を取る。妖魔は、白く尖った耳に豊かな毛を持つ尾を持っていた。妖狐の一族だ。頭首と思われる老齢の妖狐が白袴、他の四人は紫袴を着ている。
白袴の妖狐が前に進み出る。恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました。桜河様。贄姫様」
「与太郎、蛇門は変わりないか。見ての通り、今回の『浄化の儀』は贄と共に行う」
「承知いたしました。遂に桜河様も贄姫様をお選びになられたのですね。我ら妖狐一族、贄姫様のお神楽の楽人を務めさせていただきましょう」
桜河に与太郎と呼ばれた妖狐が、再度深々と頭を下げた。与太郎は老齢だが、周囲に付き従っている四人の妖狐は若者もおり、年齢は様々だ。皆、男性のようだった。
与太郎の口振りから察するに、彼らが神楽を舞う際に神楽囃子を演奏するのだろう。
花緒も一礼する。
「お初にお目にかかります。花緒と申します。本日はよろしくお願いいたします」
「贄姫様にとって初めての『浄化の儀』でございますね。我々、妖狐一族は、妖の王より代々この蛇門のある森一帯を守るお役目を賜った一族でございます。贄姫様のお神楽を支えられるよう、我々一同、力を尽くす所存でございます」
与太郎は挨拶を済ませると、蛇目池のほうを振り返った。片手を大池の中島へと伸ばした。途端、中島に水柱が上がる。それが左右に真っ二つに割れると、どこに隠されていたのか立派な神楽殿が姿を現した。
(わ、あ……!)
中島に突如として現れた神楽殿は、朱塗りの柱と屋根だけで壁はない。ただ、開放的な高床式の舞台構造で、大池の中央に建てられていることが特徴的だった。自然と一体化しているようで、霊魂の毒気を祓う『浄化の儀』にふさわしい造りだ。
(なんて立派な神楽殿。与太郎様たちがずっと守ってくださっていたのね)
妖の王と贄のため。ひいては黒姫国のために、妖狐一族は神楽殿は元より、蛇門、蛇目池、この聖域の森を守り続けてきたのだ。
花緒はごくりと唾を呑み込む。胸の奥から緊張感がこみ上げてくる。
与太郎がこちらを振り返る。
「それでは皆様まいりましょう」
与太郎が指示を出すと、控えていた四人の妖狐が両手を神楽殿に向ける。すると、大池の水面の上に青白い光の帯が伸びた。光の道は神楽殿へと続いている。代々、森一帯を守護している妖狐の一族特有の異能なのかもしれない。
淡く光り輝く道を、与太郎たちは淀みない足取りで進んでいく。花緒も桜河に促されてその道に足を踏み出した。光の帯に導かれるままに歩いていくと、道は神楽殿の板敷の間で途絶えていた。全員が渡りきると、道は役目を終えたかのように散じた。
気がつけば、四人の妖狐が神楽殿の端にまとまって座っている。それぞれが神楽笛・篳篥・箏・太鼓の楽器を手にしていた。花緒に与太郎が声をかける。
「贄姫様、ご準備が整いましたら舞殿の中央へ」
桜河が花緒の背中をそっと押す。
「花緒。大丈夫だ。行ってこい」
「はい……!」
花緒は胸に手を当てて一度深呼吸をする。気持ちが昂らないよう、鎮める。桜河が、梵天丸が、与太郎たちが花緒の一挙一動に注目する。花緒は舞い手として神楽殿の中央に進み出た。周囲を滞留している毒気で肌がひりついた。
(――……何となくだけれど、息苦しい)
無意識に身体が毒気に拒否反応を示しているのだろう。花緒の持つ贄の血は浄化の異能を持つ。毒気と浄化は相対するものだからだ。
神楽鈴も、稽古で持っていた時よりも重く感じる。それだけこの空間にいることで身体に負担が掛かっているのだ。長居は無用。腰が引けている場合ではなく、手早く済ませてしまうべきなのだろう。
舞姫である花緒の草履が小さな音を立てる。水辺に佇んでいた霊魂たちが、申し合わせたかのように立ち上がる。神楽殿に立つ花緒に一斉に注目した。
花緒は霊魂たちに静かに一礼をする。顔を上げ、蛇門を見据えた。彼女の凛とした横顔が青白い花明かりに縁どられる。
皆の息遣いさえ聞こえない静寂の中。花緒は神楽鈴を持つ腕をゆっくりと広げた。指先まで神経を研ぎ澄ませる。神の御業をこの身に降ろす。真心を込めて舞うのだ。
巫女装束の袖がふわりと宙を舞う。立ち昇る青白い光源の中で舞う花緒は、あまりにも神聖だった。神と人とを繋ぐ橋渡しを思わせる。まるで流れる水のように滑らかな舞に、霊魂たちはもちろん、桜河たちも目を離せずにいた。
(……大丈夫。上手く舞えている、と思う)
軽やかに足を運びながら、花緒は思う。自分でも、神聖な気が高まっていることを感じる。自分の内に流れる贄の血が熱を持ち、体から力が溢れてくるのだ。
花緒がシャラン、と鈴の音を鳴らすごと、周囲の毒気が散じていく。一面に咲き乱れる青白い花の明かりが次第に増していく。それは神気のようで、舞い続ける花緒の祈りに応えるように大池に舞い上がった。
花緒は強く祈りを込める。
(大神様。御神意のもと、どうかこの地に集う迷える魂をお救いくださいませ)
花緒の瞳は真っ直ぐに前を見つめている。裾が風をはらみ、白い衣が毒気の闇に浮かび上がる。
――シャラン、シャラシャラ、シャララ。
鈴の音が冴え渡る。花緒の妖力に反応し、鈴もまた青白い輝きを発する。舞は次第に高まっていき、鈴の最後の一振りで場の毒気を完全に取り除ける――その瞬間だった。
『あんたなんか居なきゃよかった!』
(え――……)
突如として耳に聴こえた声。花緒は僅かに動きを止める。
咄嗟に声のしたほうに目を向けると、一際どす黒い毒気を纏った塊を捉えた。靄に包まれたそれはやがて、大池の縁に蹲る一人の少女の姿を取る。少女の見つめる先にあるのは大池の水面。そこには、彼女の現世の記憶が映し出されている。
自分は贄姫としてこの場の霊魂と魂を繋いでいるからだろうか。花緒には、水面に映っている少女の記憶が鮮明に視えていた。
『あんたなんて生きている価値もないくせに!』
「やめて……やめてッ……!」
少女が震えながら頭を抱えている。水面にあるのは彼女の母親だろうか。少女の怯え方からして、おそらく母親から酷い扱いを受けていたのだろう。
花緒はその幼い少女の姿が、泉水家で虐待されていた自分のそれと重なる。あの時の恐怖が思い出される。父親から折檻されることのないよう、ひたすら目立たないように怯えて暮らしていた。珊瑚と顔を合わせれば罵られていた。屋敷の使用人たちからは化け物扱いされて満足に食事も出されなかった。
人として無価値であった自分。それが、目の前の霊魂の少女の記憶にあった『生きている価値もない』という言葉と重なる。まるで自分に言われているかのように。
(嫌だ……。思い出したくない……!)
そう思えば思うほど、気持ちがざわついていく。鎮めようと思っても、泉水家で虐げられていた記憶が次々と脳裏をよぎった。
花緒は少女から流れ込む記憶に気を取られる。動揺が収まらない。舞の足運びがおろそかになっていることにも気づけずに。鈴の音が冴えを失っていることにも気づかずに。
桜河と梵天丸が花緒の異変に気付く。
濃く淀んだ毒気が這い出し、青白い花々の神気を穢し、神楽殿に充満し始めた。

