大池を吹き抜ける風が、花緒の巫女装束を緩やかに煽る。肌がひりつくほどの毒気が辺りを漂っている。桜河や梵天丸のように高位の妖魔でなければ正気を保てないだろう。花緒は妖魔ではないため直接毒気の影響を受けることはない。けれども、妙な圧迫感や吐き気を感じていた。毒気は、人間にとっても良い影響をもたらすものではないのだろう。
花緒は蛇門から目を離し、周囲を窺った。
(あ……!)
気がつけば、どこからともなく霊魂たちが集まって来ていた。まるで妖の王である桜河と贄姫の花緒に吸い寄せられるように。霊魂は老若男女様々だ。何らかの出来事で『現世』で命を落とし、転生のために『常世』にやって来たばかりの者達なのだろう。
彼らの霊体からは、毒気の黒い靄が立ち込めている。濃度はそれぞれ違うようだが、皆等しく毒気を放出している。
霊魂たちは大池のほとりに跪く。皆、水面に向かって白い手を伸ばしていた。花緒もつられるように大池に目を向ける。するとそこには、現世のものと思われるいくつもの情景が映し出されていた。あれは霊魂たちの過ぎし日の思い出なのだろうか。
――あの霊魂たちの毒気を自分が祓い、浄化するのだ。
花緒は自分の役割を実感して、無意識に神楽鈴を持つ手に力を込める。
梵天丸が桜河の肩から花緒のそれに飛び移る。
「花緒。緊張しているのカ?」
「はい……」
「大丈夫ダ。オイラも桜河もいる。何が起きても花緒を助けてやるゾ」
「余計なことは気にせず舞に集中するといい」
桜河も同意する。花緒は頼もしい二人を背に門前へ進み出た。事前に桜河と打ち合わせたところによると、蛇門に集う霊魂たちから発せられている毒気。これを神楽の舞で浄化することが『浄化の儀』での贄姫の役目であるそうだ。
(桜河様のおっしゃる通りだ。私は余計なことは何も考えずに舞を舞えばいい)
お蓮との稽古の日々が脳裏をよぎる。自分なりに精いっぱい真面目に取り組んできた。自信を持っていい。けれども、贄姫の舞はただ美しく舞えば良いというものではない。贄姫の魂と霊魂とを繋ぎ、真心を込めて舞えてこそ毒気を祓い、魂を浄化できる。つまり、贄姫の心情が成功を左右するのだ。
(それは、贄姫の持つ神楽鈴に妖力が宿っているため――)
お蓮の話では、贄の行う『浄化』には、贄にしか扱えない特別な神楽鈴を用いる。一般的に扱われる神楽鈴よりも一回り大きいのだ。重量があるのは、贄の鈴には特殊な妖力が込められているから。鈴の妖力は贄の妖力と共鳴して増幅し、『浄化』の力に変換することができる。そういった仕組みだ。
また、鈴の妖力は鈴が磨かれることによって研ぎ澄まされていくとお蓮から教わった。大切に扱われた鈴には強大な力が宿ると。だからこそ花緒は、舞の稽古後に鈴を磨くことを欠かさなかった。
神楽鈴に最大限の妖力を込めなければ、毒気の浄化は上手くいかない。そのためには舞に真心を込め、神の御業を身体に降ろさなければならない。そのためには心を落ち着け、精神を研ぎ澄まさなければならないのに――。
(どうしよう、怖い……!)
いざ妖門の毒気を前にして、花緒は足が竦んでいた。自分の積み上げてきたものに自信をもちたい。けれども自分の舞で、本当にこの恐ろしい毒気を祓えるのだろうか。失敗したら、どうしよう――。桜河に贄姫の任を解かれ、屋敷から追い出されてしまうかもしれない。そうしたら自分に居場所はなくなる。もう後がないのだ。
気がつけば、どんどんと自分で自分を追い込んでいた。どきどきと、緊張と不安から心臓の音が大きくなる。神楽鈴を持つ手が冷や汗で滑り落ちそうだ。
――落ち着け、落ち着け。
そう気持ちを静めようとするほどに空回りする。深呼吸をしようと吐き出した息が震えた。花緒の緊張をよそに、梵天丸が顔を上げた。
「花緒。見るのダ。『現世』から霊魂がやってくるゾ」
「え?」
梵天丸の視線の先。白い衣を纏った霊魂が蛇門を潜ってやって来る。どうやら若い女のようだ。おそらく『現世』での名を失い、記憶も薄れているのだろう――目が虚ろだ。女は足元がおぼつかない様子で、裸足でよろよろと花畑を歩く。そうしてふらりと池の縁に座り込んだ。女の『現世』での思い出の情景が水面に映る。花緒が女の仕草を目で追っていると、女がふと顔を上げ、花緒と視線を合わせる。女は青白い顔で微笑んだ。
貴方の救いを待っています――そう伝えるかのように。
花緒は蛇門から目を離し、周囲を窺った。
(あ……!)
気がつけば、どこからともなく霊魂たちが集まって来ていた。まるで妖の王である桜河と贄姫の花緒に吸い寄せられるように。霊魂は老若男女様々だ。何らかの出来事で『現世』で命を落とし、転生のために『常世』にやって来たばかりの者達なのだろう。
彼らの霊体からは、毒気の黒い靄が立ち込めている。濃度はそれぞれ違うようだが、皆等しく毒気を放出している。
霊魂たちは大池のほとりに跪く。皆、水面に向かって白い手を伸ばしていた。花緒もつられるように大池に目を向ける。するとそこには、現世のものと思われるいくつもの情景が映し出されていた。あれは霊魂たちの過ぎし日の思い出なのだろうか。
――あの霊魂たちの毒気を自分が祓い、浄化するのだ。
花緒は自分の役割を実感して、無意識に神楽鈴を持つ手に力を込める。
梵天丸が桜河の肩から花緒のそれに飛び移る。
「花緒。緊張しているのカ?」
「はい……」
「大丈夫ダ。オイラも桜河もいる。何が起きても花緒を助けてやるゾ」
「余計なことは気にせず舞に集中するといい」
桜河も同意する。花緒は頼もしい二人を背に門前へ進み出た。事前に桜河と打ち合わせたところによると、蛇門に集う霊魂たちから発せられている毒気。これを神楽の舞で浄化することが『浄化の儀』での贄姫の役目であるそうだ。
(桜河様のおっしゃる通りだ。私は余計なことは何も考えずに舞を舞えばいい)
お蓮との稽古の日々が脳裏をよぎる。自分なりに精いっぱい真面目に取り組んできた。自信を持っていい。けれども、贄姫の舞はただ美しく舞えば良いというものではない。贄姫の魂と霊魂とを繋ぎ、真心を込めて舞えてこそ毒気を祓い、魂を浄化できる。つまり、贄姫の心情が成功を左右するのだ。
(それは、贄姫の持つ神楽鈴に妖力が宿っているため――)
お蓮の話では、贄の行う『浄化』には、贄にしか扱えない特別な神楽鈴を用いる。一般的に扱われる神楽鈴よりも一回り大きいのだ。重量があるのは、贄の鈴には特殊な妖力が込められているから。鈴の妖力は贄の妖力と共鳴して増幅し、『浄化』の力に変換することができる。そういった仕組みだ。
また、鈴の妖力は鈴が磨かれることによって研ぎ澄まされていくとお蓮から教わった。大切に扱われた鈴には強大な力が宿ると。だからこそ花緒は、舞の稽古後に鈴を磨くことを欠かさなかった。
神楽鈴に最大限の妖力を込めなければ、毒気の浄化は上手くいかない。そのためには舞に真心を込め、神の御業を身体に降ろさなければならない。そのためには心を落ち着け、精神を研ぎ澄まさなければならないのに――。
(どうしよう、怖い……!)
いざ妖門の毒気を前にして、花緒は足が竦んでいた。自分の積み上げてきたものに自信をもちたい。けれども自分の舞で、本当にこの恐ろしい毒気を祓えるのだろうか。失敗したら、どうしよう――。桜河に贄姫の任を解かれ、屋敷から追い出されてしまうかもしれない。そうしたら自分に居場所はなくなる。もう後がないのだ。
気がつけば、どんどんと自分で自分を追い込んでいた。どきどきと、緊張と不安から心臓の音が大きくなる。神楽鈴を持つ手が冷や汗で滑り落ちそうだ。
――落ち着け、落ち着け。
そう気持ちを静めようとするほどに空回りする。深呼吸をしようと吐き出した息が震えた。花緒の緊張をよそに、梵天丸が顔を上げた。
「花緒。見るのダ。『現世』から霊魂がやってくるゾ」
「え?」
梵天丸の視線の先。白い衣を纏った霊魂が蛇門を潜ってやって来る。どうやら若い女のようだ。おそらく『現世』での名を失い、記憶も薄れているのだろう――目が虚ろだ。女は足元がおぼつかない様子で、裸足でよろよろと花畑を歩く。そうしてふらりと池の縁に座り込んだ。女の『現世』での思い出の情景が水面に映る。花緒が女の仕草を目で追っていると、女がふと顔を上げ、花緒と視線を合わせる。女は青白い顔で微笑んだ。
貴方の救いを待っています――そう伝えるかのように。

