黒蛇様と契りの贄姫

 花緒は、巫女装束に袖を通していた。お蓮から譲り受けた神楽鈴を手に取る。日々丹精を込めて磨き上げている鈴。花緒の気を鎮めるようにシャランと鳴る。
 桜河と約束をした一か月後――『浄化の儀』の日だ。この一か月、お蓮の下で舞の研鑽を積んできた。だからきっと上手くいく。そう思える気持ちと、自分の力が及ぶのかという不安がないまぜになっていた。
 花緒は和紙に包んだ桜の花弁を胸元にしまい込む。『現世』から持参したものだ。『常世』に来てからもずっと共にいてくれた大切な物――。この花弁もまた自分に力を貸してくれる気がして、花緒は真っ白な千早の上からそっとそれに手を添えた。
 準備は万端だ。気を落ち着けようと短く息を吐きだした矢先。障子の外から梅の声が掛けられた。

「花緒様。ご準備は整われたでしょうか。桜河様が門前でお待ちでございます」
「大丈夫です。今、参ります」

 花緒はもう一度、姿見に映る自分と目を合わせる。鼓舞するように強く頷いた。

 ――大丈夫。きっと上手くいく。

 障子を開け、梅の案内で屋敷の門へと向かう。玄関脇に並べられた編み目の美しい草履に白足袋の足を丁寧に通した。花緒は立ち上がり、家の中に向かって静かに一礼をする。すると、廊下の奥から山吹と蘭之介が見送りに出て来た。
 花緒に歩み寄ると、まず山吹がひらひらと手を振る。

「花緒ちゃん。気をつけてね。無理はしないで」
「くれぐれも桜河の足を引っ張るなよ」
「はい。肝に銘じます」

 花緒は、蘭之介の厳しい視線に応える。
 二人に認めてもらうには、まだまだ道のりは長そうだ。今日の『浄化の儀』の結果がその第一歩となるのだろう。それでも、花緒のことを気にかけて見送りに出てきてくれたのだろう。二人の心遣いがありがたかった。
 花緒は「行って参ります」と山吹と蘭之介に一礼する。しゃんと背筋を伸ばして、屋敷の玄関を後にした。先導する梅に付いて石畳を一歩ずつ進む。苔むした灯篭や、手入れの行き届いた植え込みを横目に、やがて黒塗りの大きな門の前に辿り着いた。そこにはいつもと変わらない様子の桜河の姿がある。彼の肩口には梵天丸の姿もあった。
 桜河はやって来た花緒に気付くなり、僅かに口角を持ち上げる。

「花緒。支度は整ったようだな」
「はい。お待たせいたしました」
「二人とも。さっさと行くゾ」

 梵天丸がふわふわの尻尾を振る。門番が頭を下げた。重厚な門扉をゆっくりと開ける。朝露に濡れた敷石の先には、まだ人通りの少ない町並みが広がっている。
 自分たちが守るべき人々――桜河と梵天丸、花緒はそれを見やる。互いに頷き合った。

「蛇門までは俺の妖力で転移できる。花緒、俺の傍に」
「はい」

 花緒は桜河に寄り添うように立つ。すると桜河がおもむろに花緒の肩に手を回した。きっと転移の際にはぐれてしまわないようにするためだろう。けれども花緒は不意打ちにどきりと心臓が飛び跳ねる。近頃は桜河の一挙一動に翻弄されている自分に気づく。

 ――自分は一体、どうしてしまったのだろう……。

 気持ちの動揺に戸惑うばかりだ。
 そんなことを考えている間に、花緒を支える桜河の周囲に桜の花びらが舞い踊った。視界を覆い尽くすほどの桜吹雪。桜河の妖力が発動したのだと分かる。

(あれ……? この花びら、どこかで――)

 巫女装束の千早の裏側に潜ませている花びら。自分が『現世』から『常世』に持参したものだ。目の前を舞う花弁は、それに酷似している気がする。
 桜河の妖力と、何か関係があるのだろうか――。
 花緒が思考していると、やがて桜吹雪が収まった。さきほどまで桜河の屋敷だった景色が様変わりしている。

(ここは――……)

 周囲に立ち込める白い濃霧。自分の足元が見えないほどだ。空はじっとりとした曇天。左右は鬱蒼と茂る雑木林に囲まれている。目の前には林の奥へと続く一本道。道の先は靄に覆われていて目視できない。もしかしたらここは、蛇門のある禁足地への入り口であるのかもしれない。
 梵天丸を肩に乗せた桜河が振り返る。

「花緒。行こう。足元に気をつけて」
「し、承知いたしました」

 慣れているのだろう、ためらうことなく歩き始めた桜河に、花緒も慌ててついていく。
 一本道をひたすら進んでいくと、だんだんと靄の白から大池が姿を現す。周囲に色濃く漂う線香の臭い。この独特の臭気には覚えがある。山吹と町で狂妖を目撃したあの日、その正体を知ったのだ。常世の死の臭い。目がしみるほどの煙たさが、ここが常世で最も死に近い場所なのだと知らしめる。
 そして、眼前に広がるこの大池。忘れもしない、自分が常世に連れられた際に最初に見た場所だ。初めて来たときには闇夜に紛れて気づかなかったが、大池の真ん中には中島が浮かんでいた。蛇門を構えるこの池は、まさしく蛇の目を思わせる円い島が浮かぶ様にちなんで蛇目池(じゃのめいけ)と呼ぶのだと瓢坊から教わっていた。

(戻って来た……)

 あの時は見知らぬ場所に連れて来られて恐ろしいだけだった。けれども今は違う。この世界は自分の居場所。自分が守るべき場所なのだ。恐ろしさは完全にはなくならない。けれども以前とは違い、花緒はしっかりと地に足を付けて立つことができていた。
 大池の縁には、朱塗りの鳥居がひっそりとある。北の妖門――蛇門だ。鳥居の上部に掲げられている神額が朽ちた桜の木で出来ている。神額の表面に妖術らしい文字で『蛇門』と刻まれており、妖しい光を放ちながら蠢いていた。
 自分はあの大鳥居を通って常世へやって来たのかと、花緒は思い返していた。つい数か月前のことであるはずなのに、それからいろいろなことを経験したからか、懐かしくさえ感じる。ふと足元に視線を落とすと見慣れぬ花が咲いていた。花の群を辿ると池の縁全体に咲いていることに気づく。

(ここには、あのように綺麗な花が咲いていたのね)

 やはり初めてここに来た時には気がつかなかった。大池を囲うように、青白い光を称えた花々が揺れている。どこか清らかを感じる光沢を放っている。妖力を宿しているのだろうか。花緒が見つめていると、花々がさわさわと揺れ、光に縁どられた花びらを空へと舞いあげた。まるで花緒の訪れを歓迎するかのように。花弁は風に乗り、大池の水面に落ちる。大池に緩やかな波紋が生まれた。
 桜河が目を見張る。

「……どうやらおまえは、花々に愛されているようだな。このような現象は初めてだ」
「どういうわけか、昔から動植物に好かれやすいようなのです。泉水家の出であることが関係しているのでしょうか」
「……どうだろうな」

 桜河は少し間を置いて答える。何か知っているふうにも感じる。けれども、今は話す気はないのか、それとも彼の中で確証を得られていないのか。それ以上、桜河が何かを言及することはなかった。
 花緒は桜河から大鳥居へと目線を戻す。今は『浄化の儀』に集中するべきだ。
 蛇門。『現世』から『常世』へ人の霊魂が通る境界。青い光を放つ花弁が周囲を舞う。それが大池の水面に映り込む幻想的な風景の中、花緒は神楽鈴を持つ手に力を込めた。