あっという間に時刻は夕刻となった。桜河と二人で巡る市場は楽しかった。農家の女の売る野菜や果物、茶葉の鮮度を目で見て確かめたり。魚屋を開いている漁師に最近の漁業のあれこれを尋ねたり。歩き疲れた時は、桜河と食事処に入って蕎麦を食べたり、甘味処に入って餅を焼いたものを食べたりした。桜河が市場に足を運んだのは視察を兼ねていたのだ。自らの国を自らの足で歩く桜河の姿に、花緒は感心しきりだった。
そうして花緒と桜河は、町外れにある港にやって来ていた。川沿いにある水辺の石段には、小舟が何隻も並んでいる。船頭が荷物を下ろす音や、荷物を担ぐ人足が忙しなく行き交う足音が聞こえている。港全体に、魚の匂いや干物の香りが漂っている。漁師たちが網の手入れをしている先、川向うの山並みに夕陽が沈みかけている。
花緒と桜河は路地の石段に腰を下ろし、港の人々の営みを見守っていた。
「……綺麗ですね、桜河様」
「ああ。時がゆっくりと流れていくようだな」
川面に目をやりながら、桜河が答える。夕陽に縁どられた桜河の横顔は美しい。その輝きは彼の整った外見だけではなく。彼の内面の美しさの輝きでもあると今なら分かる。国主としての立ち振る舞いが、彼に冴え渡る輝きを添えているのだろう。
自分は彼の贄姫に選ばれたことを心から誇りに思う。『現世』で虐げられていた毎日も、ただ苦しかっただけではなく、意味のあるものだったのだと思え始めていた。
花緒は隣の桜河を見上げる。
「桜河様。本日は市場へ連れてきてくださってありがとうございます。とても楽しかったです。桜河様の治める国のことをまた一つ知ることができました」
「そうか。たくさん連れまわしたからな、疲れてしまったのではないかと心配していた。おまえが楽しかったのなら、良かった」
桜河が花緒と目を合わせて、ふっと笑う。穏やかな笑顔。今日一日一緒にいたことで、今までよりも桜河と打ち解けられた気がしていた。彼が自分に向けてくれる表情が、今までの畏まった笑顔と違い、素の表情を浮かべてくれていると感じる。きっと、自分もまたそうなのだろう。彼の前では自然と笑顔を浮かべられる自分に気づく。少しずつ少しずつ、自分も変わり始めているのだ。
そのまま二人は無言で、山間に沈みゆく夕陽を見つめる。言葉はないけれど、居心地が良かった。穏やかな時間が二人の間を流れていく。
桜河が着物の懐から小さな巾着を取り出した。それを花緒に差し出す。
「花緒。これを」
「え? これ、は――」
「開けてみてくれ」
桜河に促される。花緒は巾着袋の口に指を入れ、そっと開いた。
(あ――)
そこに大切に仕舞われていたもの。それは、さきほど花緒が小間物屋で見ていた銀細工の簪だった。手のひらに乗せると、簪の銀の鈴がシャラリとひそかな音を立てる。
桜河が後ろ頭を掻く。
「気になっていたのだろう? 俺からのせめてもの贈り物だ。女性に何かを贈ったことなどないから、こういった物で良いのかわからないのだが……」
「桜河様……」
彼の心遣いが嬉しかった。彼の不器用な優しさがくすぐったかった。自分こそ、誰かに何かを贈ったこともなければ、誰かに何かを贈られたこともない。自分にとって初めての贈り物だった。
花緒は簪をぎゅっと胸元に寄せる。
「嬉しいです。大切にいたします」
「そうか。……ずっと、気にかかっていたのだ。俺はおまえを半ば強引に『常世』に連れて来てしまった。そうして贄姫としての重責まで背負わせて……。何かお礼をしたいとずっと考えていたのだ」
「そうだったのですか。私は、桜河様に『常世』に連れてきていただけてありがたいと思っているのです。皆様に贄姫として必要としていただけることで、日々、活力が漲ってまいるのです」
泉水家では自分の居場所はなかった。人としての尊厳もなかった。だから『常世』に来てからというもの、自分はみるみる元気を取り戻していた。生きる活力を得られたのだ。自分が『現世』で虐げられていたことを桜河に伝えるわけにはいかない。だからその辺りは誤魔化して伝えるしかないけれど――。それでも桜河に感謝の気持ちを伝えたかった。
桜河は、「よかった……」と言わんばかりに、目もとを緩める。花緒の手の内にある簪に腕を伸ばした。
「それを貸しては貰えないだろうか?」
「え? はい」
花緒は桜河に簪を差し出す。彼はそれを受け取ると、長い指で花緒の結い上げた髪にそっと差し込んだ。シャラ、と後頭部で揺れる鈴の音が花緒の耳に届く。
「あ――……」
「よく、似合っている」
間近で桜河が金の瞳を細め、満足そうに笑んだ。自分の贈り物に間違いはなかった。その自信の滲み出ている少年のような表情。花緒は心臓が飛び跳ねる。桜河のこのような素の表情を間近で向けられ、無意識に顔がじわじわ熱くなる。
花緒は桜河の見つめる視線から逃れようと、顔を俯けた。
「桜河様。あの、あの、恥ずかしいです……」
「何故? おまえは美しいのだから、もっと前を向いていれば良い」
「うう……」
桜河に促され、花緒は上目遣いで顔を上げる。桜河と目が合った。彼は「それで良い」というふうに満足そうに唇の端を持ち上げる。
桜河につられて、花緒も照れ笑いを浮かべる。こうして桜河と二人で過ごす時間。気恥ずかしいこともあるけれど、なにより幸せだった。桜河の優しさは、自分のしまい込んでいた心を救い上げてくれる。花緒にとって、彼は大切な人なのだと感じ始めていた。まだこの気持ちが何なのかはわからないけれど。
だんだんと沈みゆく夕陽。その姿を、桜河と花緒は穏やかな気持ちで見守る。花緒の結い上げた髪には、銀の簪が夕陽を受けて優しい輝きを放っていた。
そうして花緒と桜河は、町外れにある港にやって来ていた。川沿いにある水辺の石段には、小舟が何隻も並んでいる。船頭が荷物を下ろす音や、荷物を担ぐ人足が忙しなく行き交う足音が聞こえている。港全体に、魚の匂いや干物の香りが漂っている。漁師たちが網の手入れをしている先、川向うの山並みに夕陽が沈みかけている。
花緒と桜河は路地の石段に腰を下ろし、港の人々の営みを見守っていた。
「……綺麗ですね、桜河様」
「ああ。時がゆっくりと流れていくようだな」
川面に目をやりながら、桜河が答える。夕陽に縁どられた桜河の横顔は美しい。その輝きは彼の整った外見だけではなく。彼の内面の美しさの輝きでもあると今なら分かる。国主としての立ち振る舞いが、彼に冴え渡る輝きを添えているのだろう。
自分は彼の贄姫に選ばれたことを心から誇りに思う。『現世』で虐げられていた毎日も、ただ苦しかっただけではなく、意味のあるものだったのだと思え始めていた。
花緒は隣の桜河を見上げる。
「桜河様。本日は市場へ連れてきてくださってありがとうございます。とても楽しかったです。桜河様の治める国のことをまた一つ知ることができました」
「そうか。たくさん連れまわしたからな、疲れてしまったのではないかと心配していた。おまえが楽しかったのなら、良かった」
桜河が花緒と目を合わせて、ふっと笑う。穏やかな笑顔。今日一日一緒にいたことで、今までよりも桜河と打ち解けられた気がしていた。彼が自分に向けてくれる表情が、今までの畏まった笑顔と違い、素の表情を浮かべてくれていると感じる。きっと、自分もまたそうなのだろう。彼の前では自然と笑顔を浮かべられる自分に気づく。少しずつ少しずつ、自分も変わり始めているのだ。
そのまま二人は無言で、山間に沈みゆく夕陽を見つめる。言葉はないけれど、居心地が良かった。穏やかな時間が二人の間を流れていく。
桜河が着物の懐から小さな巾着を取り出した。それを花緒に差し出す。
「花緒。これを」
「え? これ、は――」
「開けてみてくれ」
桜河に促される。花緒は巾着袋の口に指を入れ、そっと開いた。
(あ――)
そこに大切に仕舞われていたもの。それは、さきほど花緒が小間物屋で見ていた銀細工の簪だった。手のひらに乗せると、簪の銀の鈴がシャラリとひそかな音を立てる。
桜河が後ろ頭を掻く。
「気になっていたのだろう? 俺からのせめてもの贈り物だ。女性に何かを贈ったことなどないから、こういった物で良いのかわからないのだが……」
「桜河様……」
彼の心遣いが嬉しかった。彼の不器用な優しさがくすぐったかった。自分こそ、誰かに何かを贈ったこともなければ、誰かに何かを贈られたこともない。自分にとって初めての贈り物だった。
花緒は簪をぎゅっと胸元に寄せる。
「嬉しいです。大切にいたします」
「そうか。……ずっと、気にかかっていたのだ。俺はおまえを半ば強引に『常世』に連れて来てしまった。そうして贄姫としての重責まで背負わせて……。何かお礼をしたいとずっと考えていたのだ」
「そうだったのですか。私は、桜河様に『常世』に連れてきていただけてありがたいと思っているのです。皆様に贄姫として必要としていただけることで、日々、活力が漲ってまいるのです」
泉水家では自分の居場所はなかった。人としての尊厳もなかった。だから『常世』に来てからというもの、自分はみるみる元気を取り戻していた。生きる活力を得られたのだ。自分が『現世』で虐げられていたことを桜河に伝えるわけにはいかない。だからその辺りは誤魔化して伝えるしかないけれど――。それでも桜河に感謝の気持ちを伝えたかった。
桜河は、「よかった……」と言わんばかりに、目もとを緩める。花緒の手の内にある簪に腕を伸ばした。
「それを貸しては貰えないだろうか?」
「え? はい」
花緒は桜河に簪を差し出す。彼はそれを受け取ると、長い指で花緒の結い上げた髪にそっと差し込んだ。シャラ、と後頭部で揺れる鈴の音が花緒の耳に届く。
「あ――……」
「よく、似合っている」
間近で桜河が金の瞳を細め、満足そうに笑んだ。自分の贈り物に間違いはなかった。その自信の滲み出ている少年のような表情。花緒は心臓が飛び跳ねる。桜河のこのような素の表情を間近で向けられ、無意識に顔がじわじわ熱くなる。
花緒は桜河の見つめる視線から逃れようと、顔を俯けた。
「桜河様。あの、あの、恥ずかしいです……」
「何故? おまえは美しいのだから、もっと前を向いていれば良い」
「うう……」
桜河に促され、花緒は上目遣いで顔を上げる。桜河と目が合った。彼は「それで良い」というふうに満足そうに唇の端を持ち上げる。
桜河につられて、花緒も照れ笑いを浮かべる。こうして桜河と二人で過ごす時間。気恥ずかしいこともあるけれど、なにより幸せだった。桜河の優しさは、自分のしまい込んでいた心を救い上げてくれる。花緒にとって、彼は大切な人なのだと感じ始めていた。まだこの気持ちが何なのかはわからないけれど。
だんだんと沈みゆく夕陽。その姿を、桜河と花緒は穏やかな気持ちで見守る。花緒の結い上げた髪には、銀の簪が夕陽を受けて優しい輝きを放っていた。

