梅に手を取られて自室に戻ってきた花緒。箪笥を開け、あれこれと着物を見比べている梅の背中を花緒は見守る。梅がくるりと振り向いた。

「うふふ。張り切ってしまってごめんなさいね。桜河様があのように女性を誘われるのは初めてのことなのです。老婆心ながら嬉しく思ってしまいまして」
「そうだったのですか。先日、山吹さんと町にお出かけしました時に、次は桜河様とご一緒すると約束しておりまして。その約束を果たそうとなさっているのかもしれません」
「なるほどなるほど。事前に約束なさるとは桜河様も隅に置けませんね」

 梅はおかしそうに声を立てて笑っている。その様子がとても愛情に満ちていた。梅にとって、桜河は孫のような存在なのかもしれない。
 梅が再度、箪笥にずらりと並べられた着物に目を滑らせる。

「そのように大切な日でしたら、尚更気合いを入れなければなりませんね。この梅、花緒様を精いっぱい美しい装いにさせていただきます」

 腕まくりをする梅。これは覚悟を決めなければと唾を呑み込む花緒。
 その後、梅がああだこうだと言いながら着物を選び。花緒はそんな梅のことを、幼い頃に自分を着飾らせてくれた母を思い浮かべながら見つめていた。


          ***


「桜河様! お待たせいたしました」

 無事に外出着に着替え終えた花緒。屋敷の門前で花緒の到着を待っていた桜河が顔を上げた。桜河は、鉄紺色の無地の羽織の中に裏葉色の木綿の着物を纏っている。普段の黒や紺の落ち着いた着物から一転、爽やかな印象を与える柔い緑が彼のもつ魅力を一等引き立てているようで、とくりと心臓が音を立てる。
 ふと自身の容姿に不安を覚え下を見やると、浅葱色の下駄と目が合った。花緒が着ているのは銀糸で桐唐草(きりからくさ)の地模様が織り込まれた瓶覗色(かめのぞきいろ)小紋(こもん)。藍色の帯に咲き誇る大輪の芙蓉の傍には銀細工の蝶がゆらゆらと舞い遊んでいる。自分ではあまり選ばない大柄な模様の帯は、最近の常世の流行なのだと梅が張り切って用意してきたものだった。派手な装いをしたことのない自分には身に余るのではないかと心配したが、着物の淡い色と調和して涼を感じさせる装いは不思議と自分によく馴染んだ。毎度のことながら、梅の選美眼には感心する。全体的にいつもより鮮やかな色合いに身を包んで着飾っている姿を鏡で見ると、これが本当に自分なのかと胸が高鳴った。果たして彼にはどう映るのだろうか。不安と、ほんの少しの期待をもって桜河の前に歩を進める。
 やって来た花緒を目にするなり、桜河が僅かに目を見開いて固まっていた。やはり似合っていないのだろうか。あまり着飾った経験がない自分は決して容姿に自信があるわけではない。それでも何故だか彼には、似合っていると思ってもらいたい自分がいたのもまた事実だった。分不相応な期待をもっていた自分が恥ずかしくなり、所在なく視線を彷徨わせる。
 その花緒の背中を、梅が軽く押す。

「花緒様。自信をお持ちになってください。お嬢様はとてもお美しいです。なにせこの老婆が腕によりを掛けましたから。ほら、桜河様が見惚れていらっしゃいますよ?」
「え?」
「――っ!」

 梅の言葉に、花緒は弾かれるように顔を上げる。こちらを凝視していた桜河と目が合った。彼は、はっと我に返って首の後ろに手を当てる。

「あ、いや……その……よく似合っている、と思う」
「あ……」

 ――『よく似合っている』。

 桜河の放ったその言葉が、花緒の心の中にぐるぐると駆け巡っていた。痛いぐらいに胸を叩く鼓動に上手く言葉を紡げずにいると、桜河の視線が花緒の顔から上に移る。

「その髪は……」
「あ、えっと、梅さんが結ってくださったんです……。すみません、変でしょうか」
「いや……なるほど、流石梅だな……とても美しい。髪も、着物も」

 たどたどしい桜河の賛辞。その不器用さが、お世辞ではなく彼が心から褒めてくれているのだと感じる。花緒はあまりにも気持ちがくすぐったくなってしまって、真っ赤に染まった顔を伏せる。恥ずかしくて、それ以上に嬉しくて、体が熱い。彼の目に留まることで、自分がこんなにも幸せに感じるとは思わなかった。
 最近の自分は、どうもおかしい。桜河の反応に一喜一憂してしまうのだ。花緒は、今まで感じたことのない不可解な感情に戸惑うばかりだった。
 桜河が笠を手に取り目深に被る。

「それでは参ろう。今日はおまえの見て回りたい場所へ行くぞ」
「はい」
「いってらっしゃいませ」

 梅や出迎えた使用人たちがにこやかに手を振る。
 桜河と花緒は連れ立って麓の町に繰り出した。