定正に縄を引かれて花緒がやって来たのは、岩場だらけの森であった。人がかろうじて歩けるくらいの砂利に覆われた細道。その両脇には鬱蒼とした森が聳えている。曇天のためか日の光はない。今にも何か妖魔が飛び出してきそうなほど、薄気味悪い所だった。
(この先に、常世へと続く門があるのかしら……)
機械的に足を進めながら、花緒はぼんやり考える。
現世と常世の境界は曖昧だ。現世の東西南北の四方に常世へと続く門があると言われている。それは禁足地になっている山奥であったり、奥深い森林であったり、神を祀る神社であったり、無人の小島であったりする。これから花緒が連れて行かれるのは、その内の森林の最奥にある北の門だ。
砂利道は次第に幅が狭くなる。その分、両脇の樹木がせり出してきた。周囲がより鬱蒼と小暗くなってくる。常世の気配が冷気となって肌を突き刺してきた。この世ならざる者の気配が身体にまとわりついてくる。
「……ずいぶんと薄気味悪くなってきましたわね」
後ろからしぶとく付いてきていた珊瑚が、堪りかねて言う。贄姫の一行は数人の護衛を付けているため、いざ妖魔に襲われたとしても対処できる。けれども、普通は名家の令嬢が同行するような旅ではない。妖魔に遭遇すれば命の危険があるからだ。花緒は贄姫であるため、ただでさえ魑魅魍魎を惹きつけてしまうのだから。
(それでも珊瑚が同道するのは、妖の王に会うため――)
珊瑚の目的はただ一つ。今代の妖の王である『黒蛇』と相まみえることだ。黒蛇は妖魔の姿であるときは巨大な恐ろしい蛇の姿であるという。だが、ひとたび人の姿をとると世にも美しい美丈夫であるらしい。そう伝えられているとはいえ、黒蛇の人型をその目で見た者はもう生きてはおらず、数ある歴史書物の中にそれらしい記載が残されているだけだ。そもそも、黒蛇が人の姿で『現世』に現れたのは、過去に贄姫を捧げることに失敗した事件のときのみ。実際のところ、皆『黒蛇』の実物を知らないのだ。
妖の王は常世を統べる統治者だ。彼の持つ異能はどの妖魔よりも強いと聞く。地位と、名誉と、そして麗しい見目。黒蛇は全ての要素を兼ね揃えた完璧な存在だ。
(きっと珊瑚は、黒蛇の花嫁の座を狙っているのだわ)
妖の王の花嫁ともなれば、常世はもちろん、現世でも一目置かれる。望めば何でも手に入る立場になるだろう。常世で暮らさなければならないというところは難点であるが、それさえ苦にならなければ現世の帝にすら意見を述べられるようになるかもしれない。
珊瑚は、花緒を黒蛇の贄として喰らわせた後、自分を花嫁にと名乗り出ようとしている。だからこのような危険な旅に同行しているのだ。
(――……それでもいい。この人生を終わらせられるのであれば)
妖の王に喰われ、贄姫の役目を全うすることができれば、迷惑をかけてしまった家族に少しでも罪滅ぼしができるだろう。自分に痣が現れてからというもの、家族仲が悪化してしまったのだから。贄姫を生んでしまった母親もまた、花緒ともども一族全員から非情な扱いを受けた。それでも母親だけは花緒を愛し、慈しんでいた。けれどもある日、精神に異常をきたし、あまりの扱いに耐え切れず花緒を置いて自死してしまったのだ。花緒は軟禁部屋で母の死を聞かされたのみで、母の葬儀に参列することもできなかった。
狭い砂利道を奥へ奥へと歩き進める。時折、この辺りで暮らしている野うさぎが顔を覗かせる。皆決まって、花緒のことを黒い円らな瞳で心配そうに見上げていた。自分は何故か、昔から生き物に好かれやすかった。贄姫の異能がそのような性質を持っているのか。それとも生命の源と言われる水を冠する泉水家に生まれたからなのかはわからない。それでも人に避けられながら生きてきた自分には、動植物を慈しみ愛される喜びは心の支えの一つだった。
やがて少しだけ開けた小石の原に出た。朱色の大鳥居がそびえ立っている。その下に大池が広がっている。花緒たちがやって来ると歓迎するかのように篝火が独りでに点々と灯る。その灯りが大池の水面に幾つも映り込み、大層華やかになった。
さすがの定正も足を止め、息を呑む。
「ここが常世へと続く北の門か……」
「なんだか不気味ですわね」
珊瑚が応じる。両腕を縄で縛られたまま、花緒も顔を上げた。
(綺麗……)
常世への景色を前に、直感的にそう思った。珊瑚の言うとおり、異様な気配はある。けれどもそれ以上に、大池に映っている水面で揺れる篝火も、半分朽ちかけている鳥居も、鬱蒼と茂っている仄暗い森も――不思議と自分を落ち着けてくれるものだった。
その時だった。うるさいほどに鳴いていた蛙や虫の声が一斉に止み、辺りが静寂に包まれた。花緒の面前に桜の花びらが一枚舞い落ちる。あ、と思った途端、大池を取り囲んでいた木々に桜が満開に咲き誇ったのだ。目も眩むような光景。美しい夜桜が花緒たちを包み込む。夜風が場内を吹き抜けた。さあ……と一斉に桜の花びらが舞い踊り、大池の水面に波紋が起きる。夜桜の優しい香りが鼻をくすぐった。
花びらが竜巻のごとく水面に寄り集まる。花緒たちが呆気に取られていると、その花びらの内から美しくも恐ろしい大蛇が姿を現した。花緒たちの立つ池の縁に大蛇の陰が落ちるほどの大きさだ。艶めく黒い鱗を持つ巨大な黒蛇。鱗の所々に、妖の王を示す金の鱗が散りばめられている。印象的な見た目だった。
黒蛇から発せられる、常世の毒気を孕んだ臭気が辺りに充満する。臭気と言えども、むせ返るような桜の花の甘い香りだった。その色香に酔いそうになる。頭がぼうっとぐらついた。
(あの恐ろしい大蛇に喰われるの……?)
実際の妖の王を面前にして、今更ながらに恐怖がこみ上げる。足が竦み、花緒はその場にへたり込んでしまった。
(この先に、常世へと続く門があるのかしら……)
機械的に足を進めながら、花緒はぼんやり考える。
現世と常世の境界は曖昧だ。現世の東西南北の四方に常世へと続く門があると言われている。それは禁足地になっている山奥であったり、奥深い森林であったり、神を祀る神社であったり、無人の小島であったりする。これから花緒が連れて行かれるのは、その内の森林の最奥にある北の門だ。
砂利道は次第に幅が狭くなる。その分、両脇の樹木がせり出してきた。周囲がより鬱蒼と小暗くなってくる。常世の気配が冷気となって肌を突き刺してきた。この世ならざる者の気配が身体にまとわりついてくる。
「……ずいぶんと薄気味悪くなってきましたわね」
後ろからしぶとく付いてきていた珊瑚が、堪りかねて言う。贄姫の一行は数人の護衛を付けているため、いざ妖魔に襲われたとしても対処できる。けれども、普通は名家の令嬢が同行するような旅ではない。妖魔に遭遇すれば命の危険があるからだ。花緒は贄姫であるため、ただでさえ魑魅魍魎を惹きつけてしまうのだから。
(それでも珊瑚が同道するのは、妖の王に会うため――)
珊瑚の目的はただ一つ。今代の妖の王である『黒蛇』と相まみえることだ。黒蛇は妖魔の姿であるときは巨大な恐ろしい蛇の姿であるという。だが、ひとたび人の姿をとると世にも美しい美丈夫であるらしい。そう伝えられているとはいえ、黒蛇の人型をその目で見た者はもう生きてはおらず、数ある歴史書物の中にそれらしい記載が残されているだけだ。そもそも、黒蛇が人の姿で『現世』に現れたのは、過去に贄姫を捧げることに失敗した事件のときのみ。実際のところ、皆『黒蛇』の実物を知らないのだ。
妖の王は常世を統べる統治者だ。彼の持つ異能はどの妖魔よりも強いと聞く。地位と、名誉と、そして麗しい見目。黒蛇は全ての要素を兼ね揃えた完璧な存在だ。
(きっと珊瑚は、黒蛇の花嫁の座を狙っているのだわ)
妖の王の花嫁ともなれば、常世はもちろん、現世でも一目置かれる。望めば何でも手に入る立場になるだろう。常世で暮らさなければならないというところは難点であるが、それさえ苦にならなければ現世の帝にすら意見を述べられるようになるかもしれない。
珊瑚は、花緒を黒蛇の贄として喰らわせた後、自分を花嫁にと名乗り出ようとしている。だからこのような危険な旅に同行しているのだ。
(――……それでもいい。この人生を終わらせられるのであれば)
妖の王に喰われ、贄姫の役目を全うすることができれば、迷惑をかけてしまった家族に少しでも罪滅ぼしができるだろう。自分に痣が現れてからというもの、家族仲が悪化してしまったのだから。贄姫を生んでしまった母親もまた、花緒ともども一族全員から非情な扱いを受けた。それでも母親だけは花緒を愛し、慈しんでいた。けれどもある日、精神に異常をきたし、あまりの扱いに耐え切れず花緒を置いて自死してしまったのだ。花緒は軟禁部屋で母の死を聞かされたのみで、母の葬儀に参列することもできなかった。
狭い砂利道を奥へ奥へと歩き進める。時折、この辺りで暮らしている野うさぎが顔を覗かせる。皆決まって、花緒のことを黒い円らな瞳で心配そうに見上げていた。自分は何故か、昔から生き物に好かれやすかった。贄姫の異能がそのような性質を持っているのか。それとも生命の源と言われる水を冠する泉水家に生まれたからなのかはわからない。それでも人に避けられながら生きてきた自分には、動植物を慈しみ愛される喜びは心の支えの一つだった。
やがて少しだけ開けた小石の原に出た。朱色の大鳥居がそびえ立っている。その下に大池が広がっている。花緒たちがやって来ると歓迎するかのように篝火が独りでに点々と灯る。その灯りが大池の水面に幾つも映り込み、大層華やかになった。
さすがの定正も足を止め、息を呑む。
「ここが常世へと続く北の門か……」
「なんだか不気味ですわね」
珊瑚が応じる。両腕を縄で縛られたまま、花緒も顔を上げた。
(綺麗……)
常世への景色を前に、直感的にそう思った。珊瑚の言うとおり、異様な気配はある。けれどもそれ以上に、大池に映っている水面で揺れる篝火も、半分朽ちかけている鳥居も、鬱蒼と茂っている仄暗い森も――不思議と自分を落ち着けてくれるものだった。
その時だった。うるさいほどに鳴いていた蛙や虫の声が一斉に止み、辺りが静寂に包まれた。花緒の面前に桜の花びらが一枚舞い落ちる。あ、と思った途端、大池を取り囲んでいた木々に桜が満開に咲き誇ったのだ。目も眩むような光景。美しい夜桜が花緒たちを包み込む。夜風が場内を吹き抜けた。さあ……と一斉に桜の花びらが舞い踊り、大池の水面に波紋が起きる。夜桜の優しい香りが鼻をくすぐった。
花びらが竜巻のごとく水面に寄り集まる。花緒たちが呆気に取られていると、その花びらの内から美しくも恐ろしい大蛇が姿を現した。花緒たちの立つ池の縁に大蛇の陰が落ちるほどの大きさだ。艶めく黒い鱗を持つ巨大な黒蛇。鱗の所々に、妖の王を示す金の鱗が散りばめられている。印象的な見た目だった。
黒蛇から発せられる、常世の毒気を孕んだ臭気が辺りに充満する。臭気と言えども、むせ返るような桜の花の甘い香りだった。その色香に酔いそうになる。頭がぼうっとぐらついた。
(あの恐ろしい大蛇に喰われるの……?)
実際の妖の王を面前にして、今更ながらに恐怖がこみ上げる。足が竦み、花緒はその場にへたり込んでしまった。

