翌日。屋敷の大広間へと向かう花緒。朝靄の残る廊下、横に広がる庭園から何頭もの蝶がひらひらとやってきては花緒の周りで戯れている。これから始まる舞の稽古を前に緊張している自分を鼓舞してくれているのだろうか。束の間の安らぎに顔が綻ぶ。そうして襖の前で足を止めたと同時に、ひとつの声に招かれた。
「――来はったなぁ。入っといで」
声の主は襖の中にいるようだ。鈴の鳴るような、柔らかくも落ち着きのある女の声だった。花緒は一つ、呼吸を深くした。
(……大丈夫、行こう)
意を決して襖を開くと、黒髪を丁寧に結い上げた女が中央に座していた。その奥には、雅楽器を手にした伶人たちがずらりと並んでいる。常世特有のものなのか、見慣れない楽器を手にしている者たちもいる。
自分の舞は常世で通じるのだろうか。一気に緊張が高まる。
「ほ、本日はよろしくお願いいたします」
花緒は畳に三つ指を揃え、頭を垂れる。心臓が痛いぐらいに早鐘を打っていた。顔を上げられない花緒の頭上に、けらけらと女の笑い声が降り注ぐ。
「そないに緊張しなさんな。お体強張っとっては、あんじょう舞えまへんよ」
「も、申し訳ございません……」
その通りだ、と花緒はしゅんとする。ゆっくりと顔を上げると、女の目が妖しげに細められた。滑らかな白い肌、それを際立たせる上品な濃紺の着物。美しくもどこか可愛らしい顔立ち。それでいて、人ならざる妖しい気配。女の不思議な魅力に花緒は息を呑む。
それを知ってか知らずか、女は赤く塗りこめられた唇を吊り上げる。
「うちはお神楽の師範、女郎蜘蛛のお蓮と申します。よろしゅうおたの申します。早速でございますけども、やらなあかんことがぎょうさんおすえ、舞のお稽古へ入らしていただきます。まずはあんさん、こちらを」
お蓮は、手に持っていた神楽鈴を花緒に手渡した。五色の布がついた金細工の棒の先に、上から三つ、五つ、七つ――合わせて十五の小さな鈴が連なっている。巫女が神楽舞を舞う時に手に持つ道具だ。厄除けや鎮魂の儀式の際に用いられる。妖力が込められているのだろうか、泉水家での稽古で使っていたものと違い、重厚感と不思議な力を感じられる。一目で神聖なものだと分かる代物だった。
(重い……)
お蓮は膝の上に両手を重ね、花緒をじっと見つめる。
「それは贄にしか扱えぬ特別な鈴どすえ。普通のものよりも少しばかり重みがあるさかい、手に馴染むまで時間がかかるかもしれまへんが、慣れとくれやっしゃ。そこに込められた妖力は、持ち主の心を映す鏡。大切に扱いなはれ」
「は、はい……!」
花緒は鈴を受け取ると大切に抱きしめる。贄にしか扱えない鈴。これからこの鈴と共に、この国を守っていくのだ。気持ちを一層引き締め、お蓮に向き合う。
「ほな、今日は一つ、足運びからまいりまひょ」
「承知いたしました。まだまだ未熟者です。どうかご容赦ください」
***
そこからの二週間はあっという間だった。足運びから始まり、所作、鈴の扱い、雅楽との調和、振付――どれも泉水家で習ったころよりも懇切丁寧に教えてもらったことで、改めて舞の奥深さを実感する。時に厳しく、時に優しく。お蓮の指導を一つも逃すまいと必死に食らいつく日々。稽古で得た感覚を忘れぬよう、遅くまで一人反復した夜。毎日欠かさず感謝を込めて磨き大切にしてきた鈴は、最初の輝きはそのままにすっかりと手に馴染んだ。そうして丁寧に丁寧に与えられた全てを吸収していった花緒は、舞の才能をみるみる開花させていった。
泉水家に居た頃の稽古はとにかく辛いことが多かった。辛くなければ頑張ったことにならない、泉水家の人間として認めてもらえないと、自分自身に呪いをかけていたようにも思う。だけれど、お蓮の指導を受けてからは、きつい練習の中に確かにもう一つの感情が共存しているのを感じていた。
何の取り柄もない自分がたった一つ、泉水家で習うことを許されていた舞。一つの芸として身につけさせてもらったことに感謝はあれど、それ以上でもそれ以下でもないと思っていた。でも、今は違う。楽しい。舞をすることが、こんなにも楽しい。できることが、こんなにも嬉しい。舞を習い始めた幼い頃の感覚が、自分はこんなにも舞が好きだったのだと思い出させる。無くしたわけではなかった。ずっとずっと、心の奥底に大切にしまってあったのだ。
***
「今日は、最初から一通り舞っとおくれやす。この二週間のあんさんの成果、しかと見届けさせてもらいますえ。これまでもお教えした通り、お神楽と申しますもの、贄姫の魂と霊魂を結び繋ぐ尊き御儀式にございます。どうぞ御心を研ぎ澄まして舞いなはれ」
花緒は頷く。贄姫の神楽はただ美しく舞えばいいというものではない。己の所作ひとつひとつに真心を込めて、祈りそのものとなって神前に己を捧げなければならない。邪を祓う神の御業をその身に降ろすのだ。
花緒の集中力が研ぎ澄まされる。花緒は左右の足に静かに体重を移し、腰から膝、足首へと重心を滑らせていく。すり足で前へ進んだところで、お蓮が指示を出す。
「足運びはどうぞ、さらにお静かに。ひとつ音もお立てなきよう」
花緒はしゃがんだままの姿勢で移動し、手首を柔らかく回して神楽鈴を鳴らす。
すぐさまお蓮の指示が飛ぶ。
「どうぞ、鈴の音が乱れませぬよう」
額に汗を滲ませながら、花緒は必死に舞ってゆく。研ぎ澄まされていく舞は、一つ一つの動きに神聖な気配が宿り始めた。
外の木々が風に揺れる。朝の光が大広間に差し込んだ。その光を身に纏い、花緒はまるで白い蝶が舞うように舞衣の袖口をはためかせる。シャラン、シャラシャラ、シャララ。清らかな鈴の音。神の巫女が舞い降りたかのようだった。
お蓮が眩しそうに目を細める。
「まあ、いとも麗しや――」
神気の漂う大広間。花緒の稽古の様子をこっそりと窺いに来た桜河が、一心に神楽を舞う花緒の姿に目を奪われる。桜河の存在に気づいていない花緒は、清らかな舞台で蝶のように舞い続けた。
「――来はったなぁ。入っといで」
声の主は襖の中にいるようだ。鈴の鳴るような、柔らかくも落ち着きのある女の声だった。花緒は一つ、呼吸を深くした。
(……大丈夫、行こう)
意を決して襖を開くと、黒髪を丁寧に結い上げた女が中央に座していた。その奥には、雅楽器を手にした伶人たちがずらりと並んでいる。常世特有のものなのか、見慣れない楽器を手にしている者たちもいる。
自分の舞は常世で通じるのだろうか。一気に緊張が高まる。
「ほ、本日はよろしくお願いいたします」
花緒は畳に三つ指を揃え、頭を垂れる。心臓が痛いぐらいに早鐘を打っていた。顔を上げられない花緒の頭上に、けらけらと女の笑い声が降り注ぐ。
「そないに緊張しなさんな。お体強張っとっては、あんじょう舞えまへんよ」
「も、申し訳ございません……」
その通りだ、と花緒はしゅんとする。ゆっくりと顔を上げると、女の目が妖しげに細められた。滑らかな白い肌、それを際立たせる上品な濃紺の着物。美しくもどこか可愛らしい顔立ち。それでいて、人ならざる妖しい気配。女の不思議な魅力に花緒は息を呑む。
それを知ってか知らずか、女は赤く塗りこめられた唇を吊り上げる。
「うちはお神楽の師範、女郎蜘蛛のお蓮と申します。よろしゅうおたの申します。早速でございますけども、やらなあかんことがぎょうさんおすえ、舞のお稽古へ入らしていただきます。まずはあんさん、こちらを」
お蓮は、手に持っていた神楽鈴を花緒に手渡した。五色の布がついた金細工の棒の先に、上から三つ、五つ、七つ――合わせて十五の小さな鈴が連なっている。巫女が神楽舞を舞う時に手に持つ道具だ。厄除けや鎮魂の儀式の際に用いられる。妖力が込められているのだろうか、泉水家での稽古で使っていたものと違い、重厚感と不思議な力を感じられる。一目で神聖なものだと分かる代物だった。
(重い……)
お蓮は膝の上に両手を重ね、花緒をじっと見つめる。
「それは贄にしか扱えぬ特別な鈴どすえ。普通のものよりも少しばかり重みがあるさかい、手に馴染むまで時間がかかるかもしれまへんが、慣れとくれやっしゃ。そこに込められた妖力は、持ち主の心を映す鏡。大切に扱いなはれ」
「は、はい……!」
花緒は鈴を受け取ると大切に抱きしめる。贄にしか扱えない鈴。これからこの鈴と共に、この国を守っていくのだ。気持ちを一層引き締め、お蓮に向き合う。
「ほな、今日は一つ、足運びからまいりまひょ」
「承知いたしました。まだまだ未熟者です。どうかご容赦ください」
***
そこからの二週間はあっという間だった。足運びから始まり、所作、鈴の扱い、雅楽との調和、振付――どれも泉水家で習ったころよりも懇切丁寧に教えてもらったことで、改めて舞の奥深さを実感する。時に厳しく、時に優しく。お蓮の指導を一つも逃すまいと必死に食らいつく日々。稽古で得た感覚を忘れぬよう、遅くまで一人反復した夜。毎日欠かさず感謝を込めて磨き大切にしてきた鈴は、最初の輝きはそのままにすっかりと手に馴染んだ。そうして丁寧に丁寧に与えられた全てを吸収していった花緒は、舞の才能をみるみる開花させていった。
泉水家に居た頃の稽古はとにかく辛いことが多かった。辛くなければ頑張ったことにならない、泉水家の人間として認めてもらえないと、自分自身に呪いをかけていたようにも思う。だけれど、お蓮の指導を受けてからは、きつい練習の中に確かにもう一つの感情が共存しているのを感じていた。
何の取り柄もない自分がたった一つ、泉水家で習うことを許されていた舞。一つの芸として身につけさせてもらったことに感謝はあれど、それ以上でもそれ以下でもないと思っていた。でも、今は違う。楽しい。舞をすることが、こんなにも楽しい。できることが、こんなにも嬉しい。舞を習い始めた幼い頃の感覚が、自分はこんなにも舞が好きだったのだと思い出させる。無くしたわけではなかった。ずっとずっと、心の奥底に大切にしまってあったのだ。
***
「今日は、最初から一通り舞っとおくれやす。この二週間のあんさんの成果、しかと見届けさせてもらいますえ。これまでもお教えした通り、お神楽と申しますもの、贄姫の魂と霊魂を結び繋ぐ尊き御儀式にございます。どうぞ御心を研ぎ澄まして舞いなはれ」
花緒は頷く。贄姫の神楽はただ美しく舞えばいいというものではない。己の所作ひとつひとつに真心を込めて、祈りそのものとなって神前に己を捧げなければならない。邪を祓う神の御業をその身に降ろすのだ。
花緒の集中力が研ぎ澄まされる。花緒は左右の足に静かに体重を移し、腰から膝、足首へと重心を滑らせていく。すり足で前へ進んだところで、お蓮が指示を出す。
「足運びはどうぞ、さらにお静かに。ひとつ音もお立てなきよう」
花緒はしゃがんだままの姿勢で移動し、手首を柔らかく回して神楽鈴を鳴らす。
すぐさまお蓮の指示が飛ぶ。
「どうぞ、鈴の音が乱れませぬよう」
額に汗を滲ませながら、花緒は必死に舞ってゆく。研ぎ澄まされていく舞は、一つ一つの動きに神聖な気配が宿り始めた。
外の木々が風に揺れる。朝の光が大広間に差し込んだ。その光を身に纏い、花緒はまるで白い蝶が舞うように舞衣の袖口をはためかせる。シャラン、シャラシャラ、シャララ。清らかな鈴の音。神の巫女が舞い降りたかのようだった。
お蓮が眩しそうに目を細める。
「まあ、いとも麗しや――」
神気の漂う大広間。花緒の稽古の様子をこっそりと窺いに来た桜河が、一心に神楽を舞う花緒の姿に目を奪われる。桜河の存在に気づいていない花緒は、清らかな舞台で蝶のように舞い続けた。

