花緒と山吹が駆けつけたのは、表通りの賑わいから離れた裏路地だった。日が当たりにくいからか、石畳は苔むしている。細い路地の両脇は竹垣に囲われ、時折風が吹き抜けてカタカタと音を立てていた。
普段は人の気配もまばらな場所なのだろう。それが幸いしたのか、思っていたよりも被害は少なそうだ。路地の行き止まりの壁を背に隻眼の男が佇んでいる。その手前に、さきほど悲鳴を上げた女が尻餅をついていた。他に巻き込まれたと思われる人間も妖魔もいない。二人は女に駆け寄り、声をかけた。幸い怪我はしていないようだが、酷く怯えて腰が抜けてしまったようだ。女の無事にホッと胸を撫でおろした花緒は、視線を奥に向け、凍りつく。
男は、明らかに異様な気配を放っていた。顔面に一つだけある大きな目。不気味に赤く光るそれは焦点が合っていない。何かに怯えるように周囲を見回している。指の爪で土を掻いたり、はたまた己の腕を傷つけたり。雄叫びを上げ続けている。
(あれが狂妖……! なんて、恐ろしい)
花緒は後ずさる。錯乱とはまさにその通りだ。狂妖は正気を失っている。
沸き上がる恐怖に思わず目を背けそうになるのをぐっと堪えた。
今この妖魔と向き合わずして、贄姫など務まるものか。
花緒は目を凝らすと、男から染み出る黒い靄に気づく。おそらくあれが毒気なのだろう。狂妖となると、自ら毒気を発生させてしまうのか。それが身体の許容量を超えると全身から血を吹き出して死んでしまうのだろう。
「花緒ちゃん。下がって」
山吹が花緒を庇うように前に出る。彼が柏手を打つと、風が寄り集まって一つの羽団扇が現れた。ヤツデの葉で作られたそれの柄を、山吹は手慣れたふうに手に取る。
山吹が背中の花緒をちらと振り向く。
「初めての町歩きが台無しになっちゃったね。けれど、君に狂妖を見せられて僥倖だったとも言えるか。妖魔が毒気に充てられるとどうなるか。最初は怖いだろうけれど、よく見ておいてほしい」
「わ、わかりました……!」
「それから、贄姫の血は狂妖や下等妖魔を惹きつけてしまう。怪我を負わないよう、絶対にその場を動かないで。大丈夫、すぐに終わるから」
山吹は、花緒を安心させるように片目を瞑ってみせる。花緒は頷いて一歩下がる。
今の自分にできること。それはなるべく山吹の足を引っ張らないことだ。
花緒は竹垣に身を隠し、目線だけを山吹と男へ向ける。その間に、山吹は駆け出して女と男の間に躍り出た。女は悲鳴を上げながら、腰が抜けたまま転がるようにその場から逃げ出していく。
山吹と男が対峙する。
「……一度、狂妖になってしまったら救う手立てはないからね。妖魔の魂を無に還す――『虚葬』させてもらうよ。御免!」
言うが早いが、山吹は羽を羽ばたかせて空へ舞い上がった。不意を突かれた男がぽかんと山吹を見上げる。山吹が羽団扇を大きく振り仰いだ。
「天の御風よ。今ここに顕現せよ――神通・風裂!」
山吹のいつもと違わぬ陽気な声が空に響く。その刹那、周囲の空気が震えた。見えざる力が渦を巻き、山吹がそれを纏う。山吹は、羽団扇で大きく風を仰ぐかのように反動のままに一回転した。途端、空を切り裂くほどの突風が耳をつんざく音と共に巻き起こる。一陣の旋風が、羽団扇で仰がれて場内を吹き抜けた。
男は風の渦に取り込まれ、竜巻の中に囚われる。「ぎゃああ!」断末魔の悲鳴が風の渦から響き渡った。花緒は思わずびくりと震える。
(死んで、しまった……?)
竜巻が去る。さきほどまで男がいた場所には、風の刃に全身を裂かれたものが倒れ伏していた。妖魔特有の黒い血が周囲に染み出し、線香を燻したような香りが辺りに漂う。
花緒が固唾を呑んで見守る中。男の肉体は砂のごとく崩壊し、吹き抜けた風に攫われて散っていった。妖魔は人間とは違い、死骸を残さない。人間は魂の輪廻転生を行い『現世』に還る。けれども『常世』の妖魔は転生することはない。だから、一度死ぬと肉体ごと跡形もなく消滅してしまうのだ。
山吹が軽やかに地に降り立つ。血生臭い光景とは無縁の世界で生きてきた十八の娘にはどう映っただろうか。花緒の様子を気遣うように振り返った。
普段は人の気配もまばらな場所なのだろう。それが幸いしたのか、思っていたよりも被害は少なそうだ。路地の行き止まりの壁を背に隻眼の男が佇んでいる。その手前に、さきほど悲鳴を上げた女が尻餅をついていた。他に巻き込まれたと思われる人間も妖魔もいない。二人は女に駆け寄り、声をかけた。幸い怪我はしていないようだが、酷く怯えて腰が抜けてしまったようだ。女の無事にホッと胸を撫でおろした花緒は、視線を奥に向け、凍りつく。
男は、明らかに異様な気配を放っていた。顔面に一つだけある大きな目。不気味に赤く光るそれは焦点が合っていない。何かに怯えるように周囲を見回している。指の爪で土を掻いたり、はたまた己の腕を傷つけたり。雄叫びを上げ続けている。
(あれが狂妖……! なんて、恐ろしい)
花緒は後ずさる。錯乱とはまさにその通りだ。狂妖は正気を失っている。
沸き上がる恐怖に思わず目を背けそうになるのをぐっと堪えた。
今この妖魔と向き合わずして、贄姫など務まるものか。
花緒は目を凝らすと、男から染み出る黒い靄に気づく。おそらくあれが毒気なのだろう。狂妖となると、自ら毒気を発生させてしまうのか。それが身体の許容量を超えると全身から血を吹き出して死んでしまうのだろう。
「花緒ちゃん。下がって」
山吹が花緒を庇うように前に出る。彼が柏手を打つと、風が寄り集まって一つの羽団扇が現れた。ヤツデの葉で作られたそれの柄を、山吹は手慣れたふうに手に取る。
山吹が背中の花緒をちらと振り向く。
「初めての町歩きが台無しになっちゃったね。けれど、君に狂妖を見せられて僥倖だったとも言えるか。妖魔が毒気に充てられるとどうなるか。最初は怖いだろうけれど、よく見ておいてほしい」
「わ、わかりました……!」
「それから、贄姫の血は狂妖や下等妖魔を惹きつけてしまう。怪我を負わないよう、絶対にその場を動かないで。大丈夫、すぐに終わるから」
山吹は、花緒を安心させるように片目を瞑ってみせる。花緒は頷いて一歩下がる。
今の自分にできること。それはなるべく山吹の足を引っ張らないことだ。
花緒は竹垣に身を隠し、目線だけを山吹と男へ向ける。その間に、山吹は駆け出して女と男の間に躍り出た。女は悲鳴を上げながら、腰が抜けたまま転がるようにその場から逃げ出していく。
山吹と男が対峙する。
「……一度、狂妖になってしまったら救う手立てはないからね。妖魔の魂を無に還す――『虚葬』させてもらうよ。御免!」
言うが早いが、山吹は羽を羽ばたかせて空へ舞い上がった。不意を突かれた男がぽかんと山吹を見上げる。山吹が羽団扇を大きく振り仰いだ。
「天の御風よ。今ここに顕現せよ――神通・風裂!」
山吹のいつもと違わぬ陽気な声が空に響く。その刹那、周囲の空気が震えた。見えざる力が渦を巻き、山吹がそれを纏う。山吹は、羽団扇で大きく風を仰ぐかのように反動のままに一回転した。途端、空を切り裂くほどの突風が耳をつんざく音と共に巻き起こる。一陣の旋風が、羽団扇で仰がれて場内を吹き抜けた。
男は風の渦に取り込まれ、竜巻の中に囚われる。「ぎゃああ!」断末魔の悲鳴が風の渦から響き渡った。花緒は思わずびくりと震える。
(死んで、しまった……?)
竜巻が去る。さきほどまで男がいた場所には、風の刃に全身を裂かれたものが倒れ伏していた。妖魔特有の黒い血が周囲に染み出し、線香を燻したような香りが辺りに漂う。
花緒が固唾を呑んで見守る中。男の肉体は砂のごとく崩壊し、吹き抜けた風に攫われて散っていった。妖魔は人間とは違い、死骸を残さない。人間は魂の輪廻転生を行い『現世』に還る。けれども『常世』の妖魔は転生することはない。だから、一度死ぬと肉体ごと跡形もなく消滅してしまうのだ。
山吹が軽やかに地に降り立つ。血生臭い光景とは無縁の世界で生きてきた十八の娘にはどう映っただろうか。花緒の様子を気遣うように振り返った。

