「花緒様はお優しい方でいらっしゃいますなあ。桜河様のご体調をお気にかけてくださっておるのですな」
「は、はい。桜河様は弱き者を守ってくださる誠実な方だと思うのです。無力な私のことも優しく導いてくださいました。ですから、ご無理をなさっていないか心配で……って、私などが差し出がましいことを。申し訳ございません」
「いやいや。謝ることなどなにもありはしませんぞ。桜河様は幸せ者じゃ。花緒様のように身を案じてくださるおなごが傍にいるのですからな」

 ほっほっほ、と瓢坊は上機嫌に笑っている。花緒は顔から火が出そうだった。自分で思っている以上に、自分は桜河を気にかけているらしい。それはきっと、彼のことを身近に感じ始めているからだろう。それを実感して気恥ずかしくなってしまう。
 瓢坊はひとしきり笑った後、ふと表情を引き締める。

「桜河様のお身体にはご負担がかかっております。それは事実でございますぞ」
「やはり、そうなのですか……」
「『現世』からもたらされる毒気は、妖魔の気を狂わせるもの。桜河様はそれを身に受けるのです。たとえ自身の体内で解毒できるとはいえ、辛いことに変わりはない」
「はい……」
「桜河様のお力になってくだされ、花緒様。貴方の存在は、きっと桜河様の支えになりましょうぞ。それはひいては黒姫国を守ることにも繋がりますからな」
「承知いたしました。これからも精進してまいります。ご指導よろしくお願いいたします、瓢坊先生」

 花緒が頭を下げると、瓢坊は満足げに頷いた。

「今日の講義はここまでといたしましょう。お疲れさまでしたな、花緒様」
「ご指導ありがとうございました」

 花緒は瓢坊に頭を下げ、座敷を退室する。すると縁側に腰かけていた男性がくるりと振り向いた。

「お疲れさま、花緒ちゃん」
「山吹様! もしかしてお待ちくださっていたのですか?」
「うん。このあと一緒に町に出かけて甘味でもどうかなと思って」

 山吹は人好きのする表情でへらりと笑う。山吹は甘いものが好きなようで、よく饅頭を片手に屋敷を徘徊しているのを見かけたことがある。
 それはさておき、山吹は今、一緒に町に行こうと言っただろうか。『常世』に来て数日が経つけれど、花緒は未だに桜河の屋敷から出たことがなかった。
 急な誘いでたじろぐ花緒。山吹が後ろ頭を掻く。

「……いや、実を言うとね。これから花緒ちゃんには『常世』の毒気の浄化を担ってもらうでしょう? だから、黒姫国の様子を知っておいてもらうべきだと思ってね」
「山吹様のおっしゃる通り、私も自分の目で黒姫国の現状を把握しておきたいです。そうすれば自分のやるべきことが自ずと見えてくると思うので」

 花緒が意気込んで答えると、山吹が目を見開いた。

「おお、素晴らしい心がけだね、花緒ちゃん。桜河は良い子を選んだなあ」
「か、からかわないでください!」
「へいへい。――あ、それからさ」

 山吹が、ふと思いだしたように足を止める。

「そろそろその『山吹様』って呼ぶのやめようよ。君は桜河の贄姫。おれは桜河の従者。立場としては同格か君のほうが上。『山吹』って呼び捨てで呼んでくれて構わないよ」
「え? それは、その……」

 花緒はうろたえる。殿方を呼び捨てしたことなどない。しかも相手は桜河の側近だ。立場云々は抜きにしても、とてもではないが新参者の自分が呼び捨てできる方ではない。

(けれども、『山吹様』のままでは納得してくださらないだろうな……)

 山吹は、飄々としていて柔軟そうに見えて、実は頑固で意志が固い。なかなか自分の意見を曲げないところがある。桜河の屋敷で一緒に暮らす中で、花緒が感じていたことだ。
 それを踏まえて、花緒は妥協点を提案する。

「……あの、呼び捨てはさすがに憚られますので。山吹さん、でお許しください」
「うーん。まあ、今はそれでいいか。それじゃ花緒ちゃん、行こうか」

 縁側から跳ねるように立ち上がった山吹が軽快に柏手を叩いた。途端、彼の背中に羽毛に覆われた立派な羽が現れる。鷹や鷲といった猛禽類を思わせる見た目だった。

(烏天狗は風を操る神通力を持つのだとか。山吹さんはどのような異能を備えていらっしゃるのかしら)

 山吹は妖の王である桜河の側近だ。おそらく相当な実力者なのだろう。彼の捉えどころのない飄々とした性格からは窺い知れないけれど。
 山吹は立派な羽をその背に顕現させた後、くるりと花緒を振り向いた。

「それじゃあ花緒ちゃん。お手をどうぞ」
「……え?」

 山吹はにこやかに片手を差し出す。花緒はたじろいだ。
 山吹はさらに満面の笑みを浮かべた。

「花緒ちゃん、烏天狗の異能を知っている? 神通力で風を操ることもできるし、この背中の羽で空を駆けることができるんだ」
「空を?」
「うん。だから町までひとっ飛びってわけ。俺と手を繋ぐことで花緒ちゃんも空を飛ぶことができるよ。だから、お手をどうぞ」
「それは、大変ありがたいのですが……」

 烏天狗の神通力で常世の空を飛翔する。きっと素晴らしい景色を拝むことができるだろう。けれども、当然に自分は空を飛んだことなどない。正直、好奇心よりも恐怖心が勝っていた。できれば、地上を往く方法はないだろうか……。
 花緒はおずおずと質問する。

「山吹さんのご厚意は大変ありがたいのですが、お手数をおかけするわけにはいきません。町には牛車等で向かうことはできないのですか?」
「できないこともないけれど、時間が掛かるね。おれの翼で空を飛んだほうが早い」
「それは、その通りなのでしょうけれど……」

 山吹の意思は固そうだ。これ以上、駄々をこねては迷惑になるだろう。
 自分は居候の身だ。ここは腹を括るべきなのだろう。
 花緒は観念する。

「……わかりました。山吹さん、空を飛ぶことは初めてで取り乱してしまうかもしれませんが、ご容赦ください」
「律儀だなあ。ま、大丈夫だって。きっと素晴らしい体験になるはずだから」

 花緒は、差し出された山吹の左手に、自分の右手を重ねる。山吹が目を閉じ、何事かの妖術を短く唱えた。途端、花緒の足元から柔らかな風が巻き起こる。花緒の純白の髪と薄桃色の単衣の袖口が巻き上げられる。あれよあれよという間に、花緒の下駄が地面から浮いた。山吹の神通力によって、花緒の身体が持ち上げられたのだ。
 花緒の手をそっと取った山吹が、心配そうに眉を顰める。

「ああ。ずいぶんと華奢な手だね。君はもう少し物を食べたほうが良い」
「そんな。もう充分に美味しいお食事をいただいております」
「ふむ。それなら尚更甘味を食べないとね。君に足りていないのは糖分だ。君が健康的だと桜河も喜ぶからね」
「う、うーん。そういうものでしょうか……」

 そんな会話をしているうちに、山吹は自慢の羽を大きく広げた。烏に似た三本の指に鋭い爪のついた足で、しっかりと地を蹴る。山吹は烏天狗の妖魔だ。見た目は人間だけれども、足は烏のそれの形をしていた。彼が身に纏っている山伏の修験装束から彼の妖魔の足先が覗き、とても良く似合っていた。

「花緒ちゃん。しっかり掴まっていてね!」

 花緒と手を取り合った山吹が飛び上がる。巻き上がる風。一気に高度が上がる視界。花緒は思わず目を瞑る。風の勢いが落ちた頃にそっと目を開けると――花緒の眼下に『常世』の美しい町並みが広がっていた。