姿見に映った慣れない打掛姿の自分に、花緒は顔を俯けていた。
 上質な白の絹糸に細かい青海波(せいがいは)柄が施された生地でできたそれには、ほかに一切の装飾は見られない。皮肉にも、これから贄姫として捧げられることを祝福する白無垢のようにも思えた。
 長年虐げられていた自分にとっては、綺麗なお着せを着せてもらうだけでも僥倖なのだろう。そう思わなければ、これから自分に訪れる恐怖に打ち勝てそうもなかった。
 人の子の住む現世(うつしよ)から、妖魔の住む常世(とこよ)に堕とされる。それが妖の王に捧げられる贄姫の宿命だった。魑魅魍魎が跋扈すると言われる常世。そこはおそらく、花緒にとっては地獄のような場所だろう。本来、人の子のいる域ではないのだから。
 常世に堕とされた瞬間、妖の王に食い千切られて命を終えるのかもしれない。痛みと恐怖に苛まれながら。想像すると身が竦む。それでも誰からも愛されなかった自分にはふさわしい最期なのかもしれない。それさえ耐えればこの人生から解放されると思えば、少しは救われる気持ちになった。
 花緒は、折り畳んだ和紙を胸元に忍ばせる。昨日拾った桜の花びらが入ったものだ。旅立つ自分への餞別として持っていくつもりだった。一人ではないと思えるから。
 花緒は、今日だけは離れの部屋ではなく母屋に足を踏み入れていた。母屋の一室で、使用人たちが着付けを終えて退室したところだ。このような特別な待遇を受けているのは、花緒の門出を祝うからではない。やっと化け物が屋敷からいなくなって清々するという嫌がらせだった。これでおまえの顔を見なくて済む、妖の王に気に入られるよう最後に着飾ってやるから二度と戻って来るな、ということなのだろう。
 そう思うと、十年振りに足を踏み入れた懐かしい母屋も、自分には不釣り合いなほど高価な着物や白粉も虚しいだけだった。
 そのとき、不機嫌そうな足音が縁側から近付いてきた。その人物は花緒の部屋の前で足を止めると、無遠慮に障子を開け放った。

珊瑚(さんご)……)

 やって来たのは三つ下の妹の珊瑚だった。栗色の艶やかな髪を背に流している美少女だ。桃色に白い小花の散らされた着物姿が愛らしい。けれども珊瑚は、その可愛らしい外見にはそぐわず、綺麗な眉を跳ね上げて高飛車に言う。

「いつ見ても汚らわしい部屋! まったく、こんなところは本来わたくしが足を運ぶ場所ではありませんのに。お父様ったら人使いが荒いわ」
「…………っ」

 花緒は何も言い返せずに俯く。贄姫の痣が現れるまでは普通に接してくれていた妹。けれども今は、姉の花緒に対してあまりにも冷たい。

(でも、珊瑚がこのような態度を取ることになったのは、私のせいだから……)

 自分に贄姫の痣さえ現れなければ、ごく普通の仲の良い家族でいられたはずだ。自分が家族の輪を乱してしまったのだ。だから自分は、珊瑚に対して何も言う資格はない。
 後方に控えていた使用人が珊瑚に耳打ちする。

「珊瑚様。そろそろお時間でございます」
「ああ、そうね。ほら、さっさと立ちなさいよ」

 立ち上がった花緒の両手を、珊瑚が手にしていた縄でぐるぐる巻きにした。まるで囚人のようにも、飼い犬のようにも思われる所業に花緒は目を見開く。
 珊瑚が不愉快そうに眉根を寄せる。

「なあに? なにか言いたいことでもあるわけ?」
「…………」

 花緒は何も答えずに顔を俯ける。
 珊瑚が縄を引っ張り、花緒は引きずられるように歩き出す。

(昔は仲の良かった妹の背中が、今はこんなにも遠い……)

 自分に贄姫の痣さえ現れなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
 そう思うと、花緒は自分の存在が恨めしくて仕方なかった。
 珊瑚に縄を引かれ、花緒はよろけるように下駄を履き、歩を進める。普段は鼻緒の取れかかった草履を履いているけれど、今日は白い着物に合わせた立派な下駄だ。履きなれていないせいか、高さに慣れなくて転びそうになる。珊瑚が忌々しそうに縄を引いた。

「さっさと歩きなさいよ。わたくしの手を煩わせるつもり?」

 珊瑚は顔を背けると、それきり何も言わずに歩き出す。先ほどよりも少し速足になっているのは意地悪のつもりなのだろう。それでも花緒に何か言い返すことはできない。珊瑚の気を損ねないよう、必死に後をついていく。
 天気は生憎の曇天だった。まるで自分の人生を表しているかのようだ。誰に愛されることもなく、最後は生贄として人生を終える。自分の最期の日にふさわしい天気模様だ。
 頬に冷たい何かが当たる。どうやらお誂え向きに小雨も降ってきたようだ。
 珊瑚が忌々しそうに吐き捨てる。

「やだ、雨が降って来たじゃない。まあいいわ。化け物のあんたにはぴったりの日ね」
「……っ」

 何かを言い返せるはずもない。珊瑚の元に女官が走り寄り、朱色の番傘を渡す。もちろん花緒にそんなものはない。傘を差して悠々と歩く珊瑚の後ろを、花緒は雨に打たれるまま囚人のように歩く。
 屋敷の裏口を抜けると、父親の泉水 定正(いずみ さだまさ)が待ち構えていた。紺色の着流し姿だ。娘の最後の日だというのに着飾ってすらいない。
 定正の前で珊瑚が足を止めた。

「お父様。連れてまいりましたわ」
「ご苦労。後は私がやる。下がってよいぞ、珊瑚」
「かしこまりましたわ」

 定正は珊瑚から縄を受け取ると、それをぐいと引っ張る。急に掛かった力に、花緒はよろめいて石畳に膝をついた。定正が舌打ちする。

「このくらいのことで情けない。しゃんと立ちなさい。おまえは泉水家の長女なのだぞ」
「も、申し訳――」
「立て。もうおまえの顔など見たくもない。泉水家の威光に泥を塗りおって」

 定正が腹立たしそうに吐き捨てる。
 華族の地位にある泉水家にとって、贄姫の娘が生まれたことは恥だった。人の子にとって、異能を持つ妖魔は畏怖の対象であり、忌み嫌われるもの。その妖の王に献上する生贄が当家に生まれることは、その家の血を汚すことに他ならないのだ。妖魔の万病を癒すと言われる贄姫の血は、低級の妖魔である魑魅魍魎を惹きつける。家を妖魔に襲撃される危険に晒すため、贄姫の誕生は喜ばれるものではなかった。
 人の子はなぜ妖魔を恐れるのか――。それは、過去に現世が常世に取り込まれる寸前となった事態を招いたからだった。その昔、人の子は一度だけ間違いを犯した。誕生した贄姫を妖の王に献上しなかったのだ。愛する娘を両親が手放せなかったことが原因だった。その一度の過ちで、人の子の住む現世は焦土と化した。贄姫の血の匂いに惹かれた低級の妖魔が現世を跋扈し、手あたり次第に人の子を喰らった。贄姫を献上されなかった妖の王が正気を失って乱心し、常世が無法地帯となったことが要因だった。
 その騒動は、新たな贄姫を妖の王に捧げて許しを請うまで収束しなかったと言う。それ以来、贄姫は人の世に騒乱を起こす災いの種として畏怖の対象となった。人ではなく妖の王への供物として物のごとく扱われた。
 贄姫は、余計な波風を立てぬよう十八歳を迎えるまで人の目から避けられ隔離して育てられる。花緒が離れの部屋に閉じ込められているのは、災いを招く存在に近づきたくないという恐怖の現れなのだ。家族でさえ花緒を畏怖し、忌み嫌う原因だった。