翌日から、花緒は一刻も早く『常世』の生活に馴染めるように努めた。
 まず屋敷の皆の顔を覚えられるよう、梅と相談し、庭掃除や炊事等の家事仕事を手伝わせてもらえることになった。初めは、贄姫様に使用人のようなことをさせるわけにはいかないと反対されたけれど、後学を兼ねて屋敷の人間として何か手伝わせてほしいと懇願した。自分はまだ贄姫となって日が浅い。できることなど限られている。だからせめて、自分にできることで皆の役に立ちたかったのだ。
 また、贄姫の浄化の舞を行うにあたり、舞踊の稽古をつけてもらうことになった。さらに『常世』の歴史や贄姫の役割等の教養を身につけるため、家庭教師がついてくれることにもなったのだ。手厚い待遇に花緒は頭が上がらない。
 ある日の昼下がり。家庭教師の講義の初日を迎えた花緒は、教師の待つ座敷へ向かっていた。一人で縁側を歩いていると、中庭で庭作業をしている妖魔や、洗濯小屋で物干し竿に洗い物を干していた妖魔が手を振って来る。花緒は、そのような些細なやり取りが嬉しかった。泉水家にいた頃は自分に手を振ってくれる者などいなかったから。
 中庭を過ぎて、家庭教師の待つ座敷へ到着する。

(『常世』での先生……。どのような方なのだろう?)

 花緒は、興味と不安がない交ぜになった気持ちで障子の前に膝をつく。

「先生。花緒でございます」
「おお。お待ちしておりましたぞ。どうぞお入りなされ」

 室内からしわがれた声が返ってくる。どうやら家庭教師は老人であるらしい。
 花緒が静かに障子を開けると、部屋の中央に置かれた黒塗りの卓の奥に老齢の翁が座していた。好々爺然とした風貌をしており、小柄な背丈で顎には長い白髭を生やしている。何より特徴的なのは身長に対して大きな禿げ頭だ。
 翁は入室した花緒を見ても動じることなく、筒状の湯呑みからのんびりとお茶を啜る。

「ほっほっほ。これはこれはようこそいらっしゃいました。お初にお目にかかる。儂が花緒様の家庭教師を務めさせていただく爺じゃ」
「あの、先生も妖魔でいらっしゃるのですか?」
「左様。儂はぬらりひょんじゃからな。妖魔の中でも長く生きとるぞ。ざっと千年は生きとるわい」
「えっ……!」

 人間とは比べものにならないくらいの長寿だ。妖魔とは長生きなのだな、と花緒は感心する。千年も生きていたら知らぬことなどほぼないのではないだろうか。桜河は、とても素晴らしい先生を家庭教師につけてくれたのかもしれない。
 花緒は、敬愛の念を込めて畳敷きに指を揃え、頭を下げる。

「先生。泉水 花緒と申します。お会いできまして光栄でございます。本日から何卒よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。儂は瓢坊(ひょうぼう)と申しますじゃ。贄姫様のお役に立てるよう尽力いたしますぞ」

 瓢坊は挨拶もそこそこに、湯呑みを脇に避けて話し始める。

「それでは時間も限られております故、さっそく第一回の講義を始めますぞ。――花緒様。『常世』での贄姫の役割についてどの程度ご存知ですかな?」
「ええと。『現世』から東西南北の門を通じて『常世』へとやって来る魂の毒気を浄化することです。そのためにお神楽を舞い、舞を奉納いたします」

 卓を挟んで瓢坊の真向いに座した花緒。窺うように瓢坊の質問に答える。瓢坊はお茶を一口啜った。

「その通りですじゃ。桜河様の贄姫となった花緒様の舞には妖力が宿る。その舞は『現世』からもたらされた魂の穢れを祓うことができますじゃ。これは『現世』から『常世』に渡った贄姫にしかできぬこと。これが花緒様のお役目ですな」

 瓢坊は卓の上に『常世』の地図を広げる。

「桜河様の治める黒姫国。『現世』から魂が渡って来る北の門は、国の左上にございますじゃ。この門の前で、花緒様にはお神楽を舞い、舞を奉納していただきます。魂の邪気を祓い、場を清めるのです。この儀式を『浄化の儀』と呼びますじゃ」
「……瓢坊先生。そのことについてなのですが、私が贄姫となる前は桜河様がお一人で毒気の対処をなさっていたとお聞きしました。その、桜河様のお身体は大丈夫なのですか? ご無理をなさっておいでだったのでは……」

 花緒は桜河の生真面目な性格を思う。きっと黒姫国の妖魔を守るため、多少無理をしてでも一人で頑張ってしまうのではないだろうか。

(あまり感情を表に出さない方だから、辛くても隠してしまわれるかもしれない)

 もしも彼が一人で無理をして毒気を背負い、耐えているのだとしたら。

 ――自分は、一刻も早く浄化を行わなければならない。

 逸る気持ちのままに前のめりになる花緒。そんな花緒に瓢坊は優しい眼差しを向けた。