黒蛇様と契りの贄姫

 固唾を呑んで見守る花緒。桜河は酒器を手に取ると、中に入っていた御神酒を盃へ流し込んだ。透明な清酒は、朱塗りの盃に注がれて緩やかに水面を揺らしている。
 桜河は胸元から古刀を取り出すと、その刃で指先を僅かに切った。彼の血が一滴、御神酒の中心部に落ちる。赤い一点はすぐに溶け込み、清酒は元の透明さを取り戻した。
 桜河は片手で盃を示す。

「妖の王である俺の血を混ぜ込んだ神酒を飲み交わすこと。それが妖の王と贄姫の『贄の契り』だ。これを行えば契約は成る」
「承りました。御神酒でございますね」
「酒が苦手なら無理に呑む必要はない。口に当てるだけで大丈夫だ」

 未だ酒を口にしたことのない花緒は、無意識に緊張した表情を浮かべていたらしい。桜河が少しだけ微笑みながら助け舟を出した。

「まずは贄姫である花緒から盃の酒に口に当ててくれ」
「承知いたしました。頂戴いたします」

 花緒は大盃を両手で掬うように持ち上げる。緊張で手が震え、盃の御神酒がゆらゆらと水面を描いた。
 これを口にすれば、自分は正式に桜河の贄姫となるのだ。『現世』と縁を切る代わり、『常世』で大きな責任を背負うことになる。自分がお役目をこなせるのか不安はある。けれども贄姫である自分にしかできないことなのだ。それから逃げるような不義理はしたくなかった。また、自分を『現世』から連れ出してくれた桜河に恩返しがしたかった。自分を必要としてくれる居場所を守りたかったのだ。
 決意と覚悟は決まった。震えの止まった手で、花緒は盃を傾ける。盃に付けた唇に冷たい液体がそっと触れた。仄かなお酒の香りが鼻腔をくすぐる。
 一連の動作を終えると、花緒は盃を厳かに卓に上に降ろした。それを確認した桜河は、今度は自分が盃に手を伸ばし、彼の薄い唇に清酒を触れさせた。
 桜河の仕草を見つめていた花緒は、桜河が御神酒を口に当てた途端、首元に焼けるような痛みが走って顔を顰めた。

「うっ……!」

 首元には『贄』の証である桜の痣があったはずだ。それが熱を持ったのだろう。思わず首元を手で押さえる花緒の目線の先で、桜河もまた胸元を押さえていた。

「く……」
「桜河様!」

 初めて見る彼の苦悶の表情。花緒は自分の痛みも忘れて桜河の傍らに駆け寄る。彼は黒羽織の内側に手を差し入れていて、少しはだけてしまった胸元に、花緒と同じ桜の痣が覗いていた。

(私と同じ痣が桜河様の胸元にも……)

 桜河の桜の痣は、赤い光を帯びながら脈動している。おそらく自分の痣も同様に呼応しているのだろう。
 やがて光が収束すると同時に熱と痛みも引いていく。桜河の苦しそうに歪んでいた表情も緩んでいき、花緒はほっと息を吐いた。
 傍らの花緒に、桜河は笑みを向ける。その額には薄っすらと汗が滲んでいて、彼の痛みが相当なものであったのだと思わせた。

「……心配をかけてすまない。これで契約は成った」
「ありがとうございます。無事に済んでよかった……。桜河様は、大丈夫ですか?」
「問題ない。他の者に妖力を分け与えるときは、それ相応の痛みを伴うものなのだ。己の体に負担が掛かるからなのだろう。妖力を持たない人間に分けたのは初めての経験だったが、妖魔に分けるよりも数段痛みが強かった」

 桜河が、どこかいたずらっぽくも見える顔で答える。初めて見せる彼の砕けた表情に花緒は目を奪われる。『贄の契り』を交わしたことで、ほんの僅かだけれど、彼との距離が近づいた気がした。
 桜河が気遣うように、花緒に手を差し伸べる。

「おまえは大事ないか? 体のどこかに異変を感じたりはしないか?」
「は、はい。これといって特に違和感はございません。強いて言えば、体が軽くなったと申しますか、『常世』の空気に馴染んだ気がいたします」

 『現世』で暮らしてきた花緒にとって、『常世』の空気はどこか重く感じるところがあった。それは妖魔たちが放つ妖力が原因なのか、それとも東西南北の門を通して入って来る毒気が原因だったのかはわからない。それに対して耐性が付いた気がするのだ。
 これなら『常世』で毒気の浄化を担っていける――そう思った。
 桜河は姿勢を正し、花緒に向き直る。

「期待している。おまえの力を貸してほしい。これからよろしく頼む、花緒」
「はい……!」

 桜河に信頼の込められた目線を向けられ、花緒は頭を下げた。
 今まで自分の力を必要とされたことなど、頼りにされたことなどなかった。期待を向けてくれる彼の信頼に、精いっぱい応えようと花緒は心に誓う。
 こうして花緒は、正式に桜河の贄姫となった。