――『贄の契り』。
『贄』のもつ異能――『浄化』は、自身の血に妖力を流し込むことで初めてその力を発揮する。しかし『贄』は現世の人間であるが故、妖力をもたない。そこで、妖の王は自身の妖力の一部を『贄』に渡すことで『贄』に魂の浄化をしてもらう。
(これを『贄の契り』と言う……)
深夜。単身で桜河の私室へ向かう花緒。頭の中で桜河に言われた『贄の契り』のことを反芻していた。桜河の私室は屋敷の奥深くにある。屋敷に来たばかりの花緒には一人で辿り着くことはできない。そのため桜河の妖力の一部を宿した薄紫色の蝶が、ふわりふわりと花緒の目の前を舞って桜河の私室へと導いていた。
(桜河様のお力ってすごいのね)
己の妖力を別のものに宿して遠隔操作ができるのだ。妖の王とは、自分などの想像も及ばないほどに崇高な存在なのだろう。
(……そのような方と私などで、契約が成り立つのかしら)
自分で釣り合いが取れるのか戸惑うばかりだ。自分の力不足が原因で『贄の契り』が失敗に終わるようなことがあったらどうしたものか。
頭の中で悶々としている内に、白砂の敷かれた中庭を横切り、いつしか屋敷の最奥へと続く一本の長い廊下に出た。ここまで来るとひと気はなく、静けさに満ちている。通り過ぎる部屋のの明かりを頼りに歩を進める。
やがて襖を隔ててひっそりと設けられた奥の間に辿り着いた。縁側に面しており、裏庭を一望できる構造になっているようだ。
蝶はひらひらと舞いながら、襖の僅かな隙間から室内へ入っていった。おそらくこの部屋が桜河の寝所なのだろう。
花緒は襖の前でごくりと唾を呑み込む。これから二人きりで桜河にまみえるという緊張からどくりどくりと心臓が音を立てる。
(……いよいよだわ。どうか無事に契りを交わせますように)
花緒は心の中で強く祈る。桜河の『贄姫』になれなかったら、きっと自分はここにはいられないだろうから。
「桜河様。花緒でございます。夜分に恐れ入ります」
「待っていた。入ってくれ」
桜河の返答を確認し、花緒は緩やかに襖を開ける。畳に手を付くと、一度頭を下げてから静かに座敷へと身を滑らせた。
室内はとても簡素だった。障子から漏れる月明りが畳の上に光の帯を描いている。行燈の灯りが部屋の隅に置かれた香炉を照らし、白檀の香りがほのかに漂っていた。壁には掛け軸が一幅。墨で見事な桜が描かれていた。桜河にぴったりだと花緒は思う。
部屋の中央には低い漆塗りの卓が置かれている。桜河はその脇に膝を正して座していた。何か読み物をしていたのか、和紙に墨で文字の書かれた書物の頁を捲っている。
桜河は顔を上げると、相変わらずの無表情で花緒に目を向ける。
「夜更けに呼び立てて済まない。疲れていないか?」
「大丈夫でございます。むしろ『贄の契り』を上手くこなせるのか不安で目が冴えてしまって……。精いっぱい努めさせていただきます」
知らず知らずのうちに拳を握って前のめりになる花緒。桜河がくすりと笑った。
「そのように気負わなくとも平気だ。そんなに難しいことをするわけではない」
「そう、なのですか……?」
「ああ。儀式はすぐに済む。準備をするから、少し待っていてくれ」
桜河は立ち上がると、飾り棚に置かれていた朱色の漆塗りの大盃を手に取った。それを花緒の待つ卓の上に下ろした後、再度飾り棚に向かい、今度は白い無地の酒器を手にして戻って来る。
それらの卓の上に並べた桜河。卓を挟んで花緒と桜河は正座をして向き合う。静寂が二人の間に流れる。聴こえてくるのは、裏庭で密かに鳴く虫の音だけ。部屋の隅に置かれた行燈の灯りがゆらゆらと揺れ、花緒と桜河の陰を伸ばしている。
桜河が深く息を吸い込んだ。
「――では、これより『贄の契り』を執り行う」
花緒は指先を床に揃え、深々と頭を下げて応えた。
『贄』のもつ異能――『浄化』は、自身の血に妖力を流し込むことで初めてその力を発揮する。しかし『贄』は現世の人間であるが故、妖力をもたない。そこで、妖の王は自身の妖力の一部を『贄』に渡すことで『贄』に魂の浄化をしてもらう。
(これを『贄の契り』と言う……)
深夜。単身で桜河の私室へ向かう花緒。頭の中で桜河に言われた『贄の契り』のことを反芻していた。桜河の私室は屋敷の奥深くにある。屋敷に来たばかりの花緒には一人で辿り着くことはできない。そのため桜河の妖力の一部を宿した薄紫色の蝶が、ふわりふわりと花緒の目の前を舞って桜河の私室へと導いていた。
(桜河様のお力ってすごいのね)
己の妖力を別のものに宿して遠隔操作ができるのだ。妖の王とは、自分などの想像も及ばないほどに崇高な存在なのだろう。
(……そのような方と私などで、契約が成り立つのかしら)
自分で釣り合いが取れるのか戸惑うばかりだ。自分の力不足が原因で『贄の契り』が失敗に終わるようなことがあったらどうしたものか。
頭の中で悶々としている内に、白砂の敷かれた中庭を横切り、いつしか屋敷の最奥へと続く一本の長い廊下に出た。ここまで来るとひと気はなく、静けさに満ちている。通り過ぎる部屋のの明かりを頼りに歩を進める。
やがて襖を隔ててひっそりと設けられた奥の間に辿り着いた。縁側に面しており、裏庭を一望できる構造になっているようだ。
蝶はひらひらと舞いながら、襖の僅かな隙間から室内へ入っていった。おそらくこの部屋が桜河の寝所なのだろう。
花緒は襖の前でごくりと唾を呑み込む。これから二人きりで桜河にまみえるという緊張からどくりどくりと心臓が音を立てる。
(……いよいよだわ。どうか無事に契りを交わせますように)
花緒は心の中で強く祈る。桜河の『贄姫』になれなかったら、きっと自分はここにはいられないだろうから。
「桜河様。花緒でございます。夜分に恐れ入ります」
「待っていた。入ってくれ」
桜河の返答を確認し、花緒は緩やかに襖を開ける。畳に手を付くと、一度頭を下げてから静かに座敷へと身を滑らせた。
室内はとても簡素だった。障子から漏れる月明りが畳の上に光の帯を描いている。行燈の灯りが部屋の隅に置かれた香炉を照らし、白檀の香りがほのかに漂っていた。壁には掛け軸が一幅。墨で見事な桜が描かれていた。桜河にぴったりだと花緒は思う。
部屋の中央には低い漆塗りの卓が置かれている。桜河はその脇に膝を正して座していた。何か読み物をしていたのか、和紙に墨で文字の書かれた書物の頁を捲っている。
桜河は顔を上げると、相変わらずの無表情で花緒に目を向ける。
「夜更けに呼び立てて済まない。疲れていないか?」
「大丈夫でございます。むしろ『贄の契り』を上手くこなせるのか不安で目が冴えてしまって……。精いっぱい努めさせていただきます」
知らず知らずのうちに拳を握って前のめりになる花緒。桜河がくすりと笑った。
「そのように気負わなくとも平気だ。そんなに難しいことをするわけではない」
「そう、なのですか……?」
「ああ。儀式はすぐに済む。準備をするから、少し待っていてくれ」
桜河は立ち上がると、飾り棚に置かれていた朱色の漆塗りの大盃を手に取った。それを花緒の待つ卓の上に下ろした後、再度飾り棚に向かい、今度は白い無地の酒器を手にして戻って来る。
それらの卓の上に並べた桜河。卓を挟んで花緒と桜河は正座をして向き合う。静寂が二人の間に流れる。聴こえてくるのは、裏庭で密かに鳴く虫の音だけ。部屋の隅に置かれた行燈の灯りがゆらゆらと揺れ、花緒と桜河の陰を伸ばしている。
桜河が深く息を吸い込んだ。
「――では、これより『贄の契り』を執り行う」
花緒は指先を床に揃え、深々と頭を下げて応えた。

