黒蛇様と契りの贄姫

 桜河に招かれるままに、花緒は遠慮がちに入室する。末席に腰かけようとすると、桜河が首を横に振った。

「そこではない。花緒は俺の隣へ」
「え……」

 花緒は行き場を失って、その場に突っ立つ。桜河が手で示す先は、彼の隣に当たるやや下座の席だった。当然、蘭之介や山吹よりも上座。新参者の自分が座る位置ではない。
 身動きができなくなっている花緒に、山吹が助け船を出す。

「桜河はああ見えて独占欲が強いんだよ。隣に座ってやって、花緒ちゃん」
「何でもいいから座れ。俺は空腹なんだよ」

 蘭之介が、さっさと桜河のほうへ行けとばかりに手を払う。蘭之介の言葉で皆の膳に目をやれば、どの料理にも箸をつけていないようだった。花緒がやって来ることを待っていてくれたのだろう。今まで、誰かが自分の食事を待っていてくれたことなどなかった。皆の優しさが自分に向けられていることが申し訳なくなってしまう。
 いつまでも棒立ちしていては逆に迷惑をかけてしまう。そう思い直した花緒は、桜河に示された膳の前に座する。
 桜河が、花緒が座ったことを一瞥して皆の顔を見まわした。

「皆、用意はよいか。これから花緒が贄姫として共に暮らす。仲良くしてやってくれ」
「精いっぱいお役目を全うさせていただきます。何卒よろしくお願いいたします」

 花緒は誠意が伝わるよう、床に指を揃えて深々と頭を下げる。挨拶が終わると、皆が前の目で静かに膝を正した。主人の桜河が箸を手に取ると、皆がそれに倣って箸を持つ。

「では、いただこう」

 桜河が一礼して、膳の物を一口、静かに口に運ぶ。それを合図に、山吹、蘭之介が慎ましい所作で膳に手を伸ばした。花緒もまた漆黒のお膳の上に目を向け、並べられている四季折々の料理の数々に目を奪われた。
 炊き立ての白米からは、白い湯気が上がりほのかに甘い香りがする。隣には豆腐と茸の味噌汁。主菜はこんがりと焼かれた塩鮭だ。小鉢には柔らかく煮込まれた里芋と蓮根。香の物は胡瓜の漬物だ。さらに鶏肉と野菜の小鍋も添えられている。
 いつもの夕餉も丁寧に作られたものだけれど、今日は大人数で食事をいただくからかさらに豪勢であるようだ。今宵は清酒の瓶も用意されている。
 泉水家では、玄米や雑穀米、それに豆腐や野菜料理が中心だった。贄姫として最低限の栄養は保証されていたものの、家族が日々食べていた白米や肉や魚が花緒の膳に並んだことはなかったのだ。だから、目の前の色とりどりの料理の数々に気後れしてしまう。
 花緒はおそるおそる桜河に窺う。

「あの、桜河様。このような貴重なお料理を私などが口にしてよろしいのでしょうか?」
「どうした。口に合わないか?」
「と、とんでもございません! とても美味しそうなお食事で思わず見惚れてしまって」

 花緒は、自分の失言に唇を噛む。
 自分は桜河の贄姫なのだ。家族から冷遇され虐げられていたような娘が贄姫として選ばれたと知られてしまえば、桜河がどう思われるか。桜河の信用問題のために、贄姫に選ばれるべくして選ばれた人間だと周囲に思われなくてはならない。

(それに、桜河様がご自身を責められることがあったら大変だわ。ご自分が贄姫に選んだために、私が不当な目に遭ったなどと思われてしまったら……)

 桜河には何の責任もない。『現世』で贄姫を化け物扱いしてきた人間たちの問題だ。『現世』での自分の置かれていた状況は、桜河に知られてはいけない。余計なことで彼を傷つけたくはなかった。

(桜河様に心配をかけてはいけないわ。なるべく悟られないようにしないと)

 花緒は改めて自分に言い聞かせる。ふと、そんな自分を見つめていた山吹と目が合った。こちらを気にかけているような、もの言いたげな表情をしている。まるで自分の心中を見透かされているようで、花緒はその視線から逃れるように顔を俯けた。
 桜河は花緒が控えめな性格と知っているからか、それ以上何かを問うことはなく。穏やかに花緒に食事を勧める。

「花緒が楽しい時間を送れるよう、屋敷の料理人が心尽くしで作った料理だ。遠慮せずに食べてくれ」

 自分のことを屋敷の皆が迎えてくれている――その気遣いがありがたかった。今まではどこへ行っても虐げられていた自分。自分はここにいてもよいと許されている気がして、瞳が涙で滲んでくる。
 このような温かい空間で、誰かと一緒に食事を取ることができる。それがかけがえのないことに花緒は感じられていた。
 おずおずと箸を進める花緒を、桜河たちが優しく見守る。しばらく談笑しながら食事をし、皆の膳が終わりに近づいた頃。花緒は思いきって桜河に問いかける。

「桜河様。一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「構わない」
「以前お話でおっしゃられていた『贄の契り』は、どのようなものなのでしょう? 桜河様と私はもう済んでいるものなのでしょうか?」
「……いや、まだだ」
「まだ……」

 桜河の返答に、花緒は項垂れる。花緒の不安を感じ取ったのか、桜河が言い添える。

「心配しなくても良い。おまえさえよければ、今晩執り行おうと思っている」
「今晩、ですね。ありがとうございます。どちらへ参ればよろしいでしょうか?」
「――俺の私室へ来てほしい」

 桜河の何気ない一言に、花緒は身体を強張らせる。
 皆が寝静まった時間に殿方の部屋を訪れて妖の王と贄姫の契りを交わす。今までの桜河の話をまとめるとそのようになる。それは一体、どのような手順なのだろう。

(私は桜河様と、どのようなことを行うのだろう……)

 言葉を失う花緒。一連の話を聞いていた山吹が清酒を盛大に吹き出した。

「おいおい桜河、それは言葉足らずだろ! 花緒ちゃん、安心して大丈夫だよ。何もやましいことをするわけじゃないから」
「や、やましいこと……」

 花緒は戸惑って体を縮こませる。夜伽というものがあることは知識の上では知っていた。けれども山吹の様子を見るに、そういった行為をするわけではないのだろう。
 肝心の桜河はと言えば、自分の発言の何が問題だったのかと首を傾げている。蘭之介がため息を吐いている辺り、桜河の朴念仁は今に始まったものではないと思われた。