花緒は、指先を板敷に揃えると深々と頭を下げる。
「黒蛇様。どうか私の力をお役立てください。私にできることがあるのなら、精いっぱい努めさせていただきます。黒蛇様にお仕えさせてください」
「そんなに畏まらないでくれ。俺はおまえを雇うのではない。あくまで対等な関係だ」
「いえ。そのようなわけには……」
花緒はひたすらに恐縮してしまう。自分が生かされているこの状況にあっては、桜河はあの虐げられていた環境から自分を救い出してくれた恩人だ。しかも彼は『常世』を統べる妖の王。とてもではないが対等に接することなどできない。
頑なに頭を下げたままの花緒に、黒蛇は困ったように笑った。
「顔を上げてくれ。おまえはもっと自分に自信をもったほうが良い」
「黒蛇様……」
「贄姫、名を何という?」
「泉水 花緒と申します。桜河様」
「花緒」
桜河の低く落ち着いた声音で名を呼ばれ、花緒は心臓が飛び跳ねる。誰かに優しく名を呼んでもらえることなど何時ぶりだろう。贄姫の痣が現れたから十年間、周囲からは「化け物」と罵られてずっと虐げられてきた。
憎まれ口しか叩かない妹、自分の顔を見れば罵倒するだけの父、忌々しいという態度を隠すこともしない使用人……。自分に関わる人など冷たい存在ばかりだと思っていた。だから、他人と接するときに恐怖心と警戒心が解けず、だからこそ黒蛇の優しい態度に困惑してしまうのだ。自分がどういう態度で接すれば良いのか分からなくて。
戸惑いを隠せない花緒に、桜河はそれ以上踏み込むことはなかった。僅かに口角を持ち上げながら言う。
「すぐにこちらの環境に慣れろというのも酷な話だ。少しずつ慣れてくれたら良い。決して無理はするな」
「ありがとうございます。ですが、桜河様の元に置いていただく以上、私でお役に立てそうなことがございましたら何なりとお申し付けください」
もう一度、床に指先を揃えて頭を下げてから、花緒は顔を上げる。
「あの、それで毒気を浄化する舞というものは、どのように行えばよいのでしょう?」
桜河や梵天丸、『常世』のために自分ができることと言えばそれしかない。『常世』を蝕む毒気を自分が抑えるなど大役だ。自分などで務められるかどうか分からない。けれども、桜河たちの期待に応えたかった。自分がここにいても良いと思える役目が欲しかったのかもしれない。
勇気を振り絞る花緒に、足元で丸くなっている梵天丸が鼻を鳴らす。
「贄姫。お神楽を舞うことはできるカ?」
「神楽、ですか? はい、ひと通り嗜んでまいりました」
泉水家で唯一習っていた習い事は舞だった。妹の珊瑚のように、華族の令嬢として相応しくなるためではない。贄姫の役割を果たすのに舞が必要だという伝承があったからだ。
離れの狭い部屋で、厳しい舞の先生に教わりながらの訓練だった。少しでも足運びが悪ければすぐに先生に扇で叩かれた。練習は過酷だったけれど、それでも自分は、何か一つでも特技を身につけられることに感謝はしていた。
泉水家が贄姫は『常世』の毒気を祓うために舞が必要だと知っていたのかはわからない。けれどもあの辛い訓練の日々が無駄ではなかったと分かって、花緒はほっとした。
桜河が期待を込めて少しだけ表情を緩める。
「それは良かった。神楽の舞についてはまた今度話すとしよう。花緒、今日はいろいろと目まぐるしくて疲れただろう。部屋で休むと良い」
「あ、はい。お気遣いありがとうございます」
さすがに顔に疲れが出ていたのだろうか。桜河が気を遣ってくれたようだった。すぐさま座敷の襖が開き、梅が入室する。
「花緒様。お部屋の準備は整っております。こちらへどうぞ」
「ゆっくり休むんだゾ、贄姫! これからたくさん働いてもらうからナ」
「は、はい! 精いっぱい努めさせていただきます」
花緒は梵天丸に応えてから、座ったままの桜河に小さく頭を下げる。まだ怯えの取り切れていない花緒に、桜河は微笑みを返した。
大丈夫だ、と桜河に背中を押されたようで――花緒は強張っていた体から少しずつ力が抜け始めていた。
***
(なんだか、思いもよらないことになってしまったわ……)
屋敷の奥深く。静まり返った湯殿で、花緒は白木の湯舟に浸かっていた。ほどよく温められた湯から、ゆらりと立ち上る白い蒸気。それをぼんやりと見つめながら、花緒は今までの出来事に思いを馳せていた。
泉水家で白打掛を着せられ、仄暗い森に現れた大池で黒蛇に出会い、そうして『常世』の町を抜けて屋敷へと連れられた。桜河から贄姫の役目を聞かされるまでは、妖の王に喰われて自分の命などとうに終わっていると思っていたのに――。
(これからが、贄姫としての務めの始まりなんだ)
浄化の巫女として、北の門から入り込む邪気を祓う。自分の唯一の特技である神楽を舞い、桜河や『常世』の者達の力になるのだ。
(私にしか、できないこと……)
上手くできるだろうか。自分などで桜河の期待に応えることはできるだろうか。
不安はあるけれど、それ以上に、自分がここにいても良い理由を与えられたようで嬉しかった。ここまで来たら、自分にできることをすべて出しきるしかない。それが自分に居場所をくれた桜河への恩返しだ。
(それに黒蛇様、妖の王として毒気を体内に溜め込んでいるとおっしゃっていたわ)
さきほどの表座敷で聞いた桜河と梵天丸の話。『贄』が現れるまでは、妖の王が常世の毒気を背負っているのだと言っていた。桜河には、自分が想像もできないほどの負担が掛かっているのだろう。彼に恩を返すためにも、一刻も早く力になりたかった。
そこでふと、花緒は今までのことを思い浮かべる。
(……そう言えば、黒蛇様は私が贄姫としてお役に立つためには『贄の契り』というものを交わす必要がある、とおっしゃっていたような)
それはどういったものなのだろう。自分と桜河は既に交わしているのだろうか。おそらく『贄の契り』を終えていなければ、自分は桜河の力にはなれないのだろう。
(頃合いを見て、今度夕餉をご一緒した時にでも黒蛇様に窺ってみよう)
花緒は木桶に湯を汲んで身体を流すと、足早に湯殿を後にした。
「黒蛇様。どうか私の力をお役立てください。私にできることがあるのなら、精いっぱい努めさせていただきます。黒蛇様にお仕えさせてください」
「そんなに畏まらないでくれ。俺はおまえを雇うのではない。あくまで対等な関係だ」
「いえ。そのようなわけには……」
花緒はひたすらに恐縮してしまう。自分が生かされているこの状況にあっては、桜河はあの虐げられていた環境から自分を救い出してくれた恩人だ。しかも彼は『常世』を統べる妖の王。とてもではないが対等に接することなどできない。
頑なに頭を下げたままの花緒に、黒蛇は困ったように笑った。
「顔を上げてくれ。おまえはもっと自分に自信をもったほうが良い」
「黒蛇様……」
「贄姫、名を何という?」
「泉水 花緒と申します。桜河様」
「花緒」
桜河の低く落ち着いた声音で名を呼ばれ、花緒は心臓が飛び跳ねる。誰かに優しく名を呼んでもらえることなど何時ぶりだろう。贄姫の痣が現れたから十年間、周囲からは「化け物」と罵られてずっと虐げられてきた。
憎まれ口しか叩かない妹、自分の顔を見れば罵倒するだけの父、忌々しいという態度を隠すこともしない使用人……。自分に関わる人など冷たい存在ばかりだと思っていた。だから、他人と接するときに恐怖心と警戒心が解けず、だからこそ黒蛇の優しい態度に困惑してしまうのだ。自分がどういう態度で接すれば良いのか分からなくて。
戸惑いを隠せない花緒に、桜河はそれ以上踏み込むことはなかった。僅かに口角を持ち上げながら言う。
「すぐにこちらの環境に慣れろというのも酷な話だ。少しずつ慣れてくれたら良い。決して無理はするな」
「ありがとうございます。ですが、桜河様の元に置いていただく以上、私でお役に立てそうなことがございましたら何なりとお申し付けください」
もう一度、床に指先を揃えて頭を下げてから、花緒は顔を上げる。
「あの、それで毒気を浄化する舞というものは、どのように行えばよいのでしょう?」
桜河や梵天丸、『常世』のために自分ができることと言えばそれしかない。『常世』を蝕む毒気を自分が抑えるなど大役だ。自分などで務められるかどうか分からない。けれども、桜河たちの期待に応えたかった。自分がここにいても良いと思える役目が欲しかったのかもしれない。
勇気を振り絞る花緒に、足元で丸くなっている梵天丸が鼻を鳴らす。
「贄姫。お神楽を舞うことはできるカ?」
「神楽、ですか? はい、ひと通り嗜んでまいりました」
泉水家で唯一習っていた習い事は舞だった。妹の珊瑚のように、華族の令嬢として相応しくなるためではない。贄姫の役割を果たすのに舞が必要だという伝承があったからだ。
離れの狭い部屋で、厳しい舞の先生に教わりながらの訓練だった。少しでも足運びが悪ければすぐに先生に扇で叩かれた。練習は過酷だったけれど、それでも自分は、何か一つでも特技を身につけられることに感謝はしていた。
泉水家が贄姫は『常世』の毒気を祓うために舞が必要だと知っていたのかはわからない。けれどもあの辛い訓練の日々が無駄ではなかったと分かって、花緒はほっとした。
桜河が期待を込めて少しだけ表情を緩める。
「それは良かった。神楽の舞についてはまた今度話すとしよう。花緒、今日はいろいろと目まぐるしくて疲れただろう。部屋で休むと良い」
「あ、はい。お気遣いありがとうございます」
さすがに顔に疲れが出ていたのだろうか。桜河が気を遣ってくれたようだった。すぐさま座敷の襖が開き、梅が入室する。
「花緒様。お部屋の準備は整っております。こちらへどうぞ」
「ゆっくり休むんだゾ、贄姫! これからたくさん働いてもらうからナ」
「は、はい! 精いっぱい努めさせていただきます」
花緒は梵天丸に応えてから、座ったままの桜河に小さく頭を下げる。まだ怯えの取り切れていない花緒に、桜河は微笑みを返した。
大丈夫だ、と桜河に背中を押されたようで――花緒は強張っていた体から少しずつ力が抜け始めていた。
***
(なんだか、思いもよらないことになってしまったわ……)
屋敷の奥深く。静まり返った湯殿で、花緒は白木の湯舟に浸かっていた。ほどよく温められた湯から、ゆらりと立ち上る白い蒸気。それをぼんやりと見つめながら、花緒は今までの出来事に思いを馳せていた。
泉水家で白打掛を着せられ、仄暗い森に現れた大池で黒蛇に出会い、そうして『常世』の町を抜けて屋敷へと連れられた。桜河から贄姫の役目を聞かされるまでは、妖の王に喰われて自分の命などとうに終わっていると思っていたのに――。
(これからが、贄姫としての務めの始まりなんだ)
浄化の巫女として、北の門から入り込む邪気を祓う。自分の唯一の特技である神楽を舞い、桜河や『常世』の者達の力になるのだ。
(私にしか、できないこと……)
上手くできるだろうか。自分などで桜河の期待に応えることはできるだろうか。
不安はあるけれど、それ以上に、自分がここにいても良い理由を与えられたようで嬉しかった。ここまで来たら、自分にできることをすべて出しきるしかない。それが自分に居場所をくれた桜河への恩返しだ。
(それに黒蛇様、妖の王として毒気を体内に溜め込んでいるとおっしゃっていたわ)
さきほどの表座敷で聞いた桜河と梵天丸の話。『贄』が現れるまでは、妖の王が常世の毒気を背負っているのだと言っていた。桜河には、自分が想像もできないほどの負担が掛かっているのだろう。彼に恩を返すためにも、一刻も早く力になりたかった。
そこでふと、花緒は今までのことを思い浮かべる。
(……そう言えば、黒蛇様は私が贄姫としてお役に立つためには『贄の契り』というものを交わす必要がある、とおっしゃっていたような)
それはどういったものなのだろう。自分と桜河は既に交わしているのだろうか。おそらく『贄の契り』を終えていなければ、自分は桜河の力にはなれないのだろう。
(頃合いを見て、今度夕餉をご一緒した時にでも黒蛇様に窺ってみよう)
花緒は木桶に湯を汲んで身体を流すと、足早に湯殿を後にした。

