それから数日が経ち――。花緒は次第に『常世』での生活に慣れていった。贄姫として特に何かを強いられることもなく、ただただ平穏な毎日が過ぎて行く。
美味しい食事と清潔な環境で、花緒の体調はみるみる良くなっていった。梅が毎日丁寧に塗り込んでくれた椿油のおかげで髪が艶を取り戻し。最低限の栄養しか採っていなかったせいでかさついていた肌も潤いを取り戻していった。
何より、桜河の屋敷で暮らす妖魔たちと少しずつ会話を交わすようになり、花緒は忘れかけていた笑顔を取り戻し始めたのだ。今までずっと、化け物である自分が他人を刺激しないように感情を押し殺していた。花緒にとって、その変化が一番の驚きだった。人間らしい感情を取り戻せただけでも、花緒は『常世』に連れてきてくれた桜河に感謝したい気持ちだった。
(もう、このまま黒蛇様の贄となって生涯を終えても後悔はないわ)
花緒の心情はそこまで変化していたけれど――一向に、桜河に喰われる気配はない。覚悟を決めて『常世』にやって来た分、拍子抜けしてしまう思いだった。
(どういうことなのだろう……。私は言われたままにしていればいいのかしら)
戸惑いを隠せないままに、花緒が中庭を見渡せる縁側に差し掛かった時だった。
「花緒様! まあまあ、ここにいらしたのですね!」
「梅さん!」
小走りにやって来たのは花緒の世話係の梅だ。『常世』で日々を送るうちに親しくなり、今では互いに名で呼び合うようになっていた。
花緒は梅に親しみを込めて笑いかける。
「そんなに急いで、何かあったんですか?」
「ええ。さきほど桜河様より、今晩の夕餉を花緒様とご一緒なさりたいと仰せつかりました。夕刻が近づきましたら湯浴みを済ませ、お召し替えいたしましょう」
「……! そう、ですか……。わかり、ました」
ついに主人との夕餉を迎えられると張り切っている梅。対する花緒はというと、強張った表情で頷くことが精いっぱいだった。
桜河との初めての夕食……。それは最後の晩餐とも言えるのではないだろうか。
(遂に、黒蛇様に喰われる時が来たのかもしれない……)
不思議と、海が凪いだような静かな気持ちだった。やっと自分の運命を受け入れる時が来たのだ。今日まで丁重に扱っていただけたことが奇跡。この温かだった日々の思い出があれば、自分は後悔することなく死を受け入れられると思った。
贄姫として生贄になる覚悟は決まった。
***
梅に着替えを手伝ってもらい、彼女が選んだ薄桃色の小袖を羽織った後。花緒は桜河の待つ奥座敷へとやって来ていた。
案内を終えた梅が廊下に膝をつき、室内に声をかける。
「桜河様。花緒様をお連れいたしました」
「入ってくれ」
桜河の低い響きのある声音が返ってくる。花緒はそれだけで緊張して心臓が跳ねてしまった。桜河と取る初めての食事。一体どのように間を持たせたら良いのだろう。
梅が障子を開けると、座敷内には桜河と梵天丸の姿があった。
「贄姫。元気そうだナ」
「こちらに座ってくれ。贄姫」
白木の膳の前に座していた桜河が手招きをする。桜河は、花緒の姿を見るなり僅かに目元を緩めて微笑んだ。遂に最期の時が来たのかと覚悟を決めていた花緒は、桜河と梵天丸の穏やかな様子に出鼻をくじかれてしまう。
出入口にぼうっと突っ立ってしまい、桜河が訝し気に首を傾げる。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「あ、いいえ! ご相伴に預かります」
花緒は我に返り、いそいそと桜河と梵天丸の下座に座す。白木の膳には、炊きたての白米が湯気を上げ、味噌汁、焼き魚、そして季節の野菜の煮物が色とりどりに並べられていた。本当に、毎食丁寧にこしらえられた料理だ。
まず家長である桜河が膳に箸をつけ、続いて花緒も手を合わせてから料理をいただく。焼き魚をほぐして口に運ぶと、程よい塩気が口内に広がった。
(美味しい……。これが最後の食事となっても、私にはもったいないくらいだわ)
ふと障子に目をやれば、夕暮れの薄明りが控えめに差し込んでいた。中庭の松の木の陰が畳に映り込み、ゆらゆらと揺れている。庭番が静かに松葉を掃く音が聴こえ、耳に心地よかった。
花緒は、『常世』での最後の時を噛みしめる。桜河の屋敷に招かれてからというもの、毎日が平穏で小さな幸せを感じる日々だった。贄である自分には充分すぎるほどの贈り物であったと思う。
桜河も梵天丸も必要以上に口を開くことはなく、静かで穏やかな夕餉の時間が過ぎて行く。こうして二人と一緒に過ごす時間が、花緒はかけがえのないものに思えた。
美味しい食事と清潔な環境で、花緒の体調はみるみる良くなっていった。梅が毎日丁寧に塗り込んでくれた椿油のおかげで髪が艶を取り戻し。最低限の栄養しか採っていなかったせいでかさついていた肌も潤いを取り戻していった。
何より、桜河の屋敷で暮らす妖魔たちと少しずつ会話を交わすようになり、花緒は忘れかけていた笑顔を取り戻し始めたのだ。今までずっと、化け物である自分が他人を刺激しないように感情を押し殺していた。花緒にとって、その変化が一番の驚きだった。人間らしい感情を取り戻せただけでも、花緒は『常世』に連れてきてくれた桜河に感謝したい気持ちだった。
(もう、このまま黒蛇様の贄となって生涯を終えても後悔はないわ)
花緒の心情はそこまで変化していたけれど――一向に、桜河に喰われる気配はない。覚悟を決めて『常世』にやって来た分、拍子抜けしてしまう思いだった。
(どういうことなのだろう……。私は言われたままにしていればいいのかしら)
戸惑いを隠せないままに、花緒が中庭を見渡せる縁側に差し掛かった時だった。
「花緒様! まあまあ、ここにいらしたのですね!」
「梅さん!」
小走りにやって来たのは花緒の世話係の梅だ。『常世』で日々を送るうちに親しくなり、今では互いに名で呼び合うようになっていた。
花緒は梅に親しみを込めて笑いかける。
「そんなに急いで、何かあったんですか?」
「ええ。さきほど桜河様より、今晩の夕餉を花緒様とご一緒なさりたいと仰せつかりました。夕刻が近づきましたら湯浴みを済ませ、お召し替えいたしましょう」
「……! そう、ですか……。わかり、ました」
ついに主人との夕餉を迎えられると張り切っている梅。対する花緒はというと、強張った表情で頷くことが精いっぱいだった。
桜河との初めての夕食……。それは最後の晩餐とも言えるのではないだろうか。
(遂に、黒蛇様に喰われる時が来たのかもしれない……)
不思議と、海が凪いだような静かな気持ちだった。やっと自分の運命を受け入れる時が来たのだ。今日まで丁重に扱っていただけたことが奇跡。この温かだった日々の思い出があれば、自分は後悔することなく死を受け入れられると思った。
贄姫として生贄になる覚悟は決まった。
***
梅に着替えを手伝ってもらい、彼女が選んだ薄桃色の小袖を羽織った後。花緒は桜河の待つ奥座敷へとやって来ていた。
案内を終えた梅が廊下に膝をつき、室内に声をかける。
「桜河様。花緒様をお連れいたしました」
「入ってくれ」
桜河の低い響きのある声音が返ってくる。花緒はそれだけで緊張して心臓が跳ねてしまった。桜河と取る初めての食事。一体どのように間を持たせたら良いのだろう。
梅が障子を開けると、座敷内には桜河と梵天丸の姿があった。
「贄姫。元気そうだナ」
「こちらに座ってくれ。贄姫」
白木の膳の前に座していた桜河が手招きをする。桜河は、花緒の姿を見るなり僅かに目元を緩めて微笑んだ。遂に最期の時が来たのかと覚悟を決めていた花緒は、桜河と梵天丸の穏やかな様子に出鼻をくじかれてしまう。
出入口にぼうっと突っ立ってしまい、桜河が訝し気に首を傾げる。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「あ、いいえ! ご相伴に預かります」
花緒は我に返り、いそいそと桜河と梵天丸の下座に座す。白木の膳には、炊きたての白米が湯気を上げ、味噌汁、焼き魚、そして季節の野菜の煮物が色とりどりに並べられていた。本当に、毎食丁寧にこしらえられた料理だ。
まず家長である桜河が膳に箸をつけ、続いて花緒も手を合わせてから料理をいただく。焼き魚をほぐして口に運ぶと、程よい塩気が口内に広がった。
(美味しい……。これが最後の食事となっても、私にはもったいないくらいだわ)
ふと障子に目をやれば、夕暮れの薄明りが控えめに差し込んでいた。中庭の松の木の陰が畳に映り込み、ゆらゆらと揺れている。庭番が静かに松葉を掃く音が聴こえ、耳に心地よかった。
花緒は、『常世』での最後の時を噛みしめる。桜河の屋敷に招かれてからというもの、毎日が平穏で小さな幸せを感じる日々だった。贄である自分には充分すぎるほどの贈り物であったと思う。
桜河も梵天丸も必要以上に口を開くことはなく、静かで穏やかな夕餉の時間が過ぎて行く。こうして二人と一緒に過ごす時間が、花緒はかけがえのないものに思えた。

