梅に案内されるままに後ろをついていく花緒。広い屋敷内の廊下を何本も曲がったところで、梅が一つの部屋の前で足を止めた。梅は廊下に膝を突くと、恭しく障子を開ける。
「こちらが贄姫様のお部屋でございます」
「――――!」
目の前に広がった室内の光景に、花緒は目を見開いた。
部屋の中心部には立派な螺鈿細工の脇息と文机があり、書き物用にと硯と紙が置かれている。部屋の隅には金の屏風や衣桁が置かれ、黒唐草の施された衣桁には金織物の上等な振袖が掛けられていた。行燈の灯りが部屋を仄暗く照らしている。お香が焚き染められているのか、白檀の甘い花のような香りに満たされていた。
お香などとても高価なものだ。泉水家では珊瑚が好んでよく使っていたが、自分の離れの部屋になど焚かれたことはなく、高貴な雰囲気に圧倒されてしまう。
たじろいで足を踏み入れられない花緒に、梅は目尻に皺を刻んで笑んだ。
「贄姫様はご遠慮深くていらっしゃいますね。こちらのお部屋の調度品は、すべて桜河様が選ばれた物なのです。贄姫様のお気に召すと良いのですが」
「え、く、黒蛇様が、ですか?」
「はい。贄姫様にお喜びいただけるようにと」
梅は、調度品を選定する桜河の様子を思い起こしたのか楽しそうに微笑んでいる。
しかし花緒は気が気でなくて仕方なかった。
(ただの贄に、ここまでするものなの……?)
部屋に置かれている家財は上等な品ばかりだ。おそらく相当な金額が掛かってしまっただろう。贄姫である自分に、なぜこんなにも良くしてもらえるのか、戸惑うばかりなのだ。
(なんだかいたたまれない……。けれども、ここに突っ立っているほうがよほど迷惑になってしまうかしら)
花緒は勇気を奮い立たせると、そろりそろりと部屋に足を踏み入れる。畳敷きの室内からは、白檀だけでなく仄かにい草の優しい匂いも香っていた。
さっそくとばかりに、梅が部屋にあった桐箪笥の引き出しを開ける。
「さあさあ、贄姫様。こちらからお好きな着物をお選びくださいませ。夕餉の前に湯浴みとお着替えを済ませてしまいましょう」
「ありがとうございます。わあ、こんなにたくさん……!」
桐箪笥の引き出しを覗き込むと、色とりどりの着物が敷き詰められていた。箪笥はこれ一つではなく両隣に複数置かれており、おそらく帯や髪飾り等の小物が収納されているのだろう。泉水家では着古したボロの単衣しか与えられていなかったため、自分で着物を選ぶということに戸惑ってしまう。
梅はそんな花緒を気遣うように見つめる。
「それでは、僭越ながらこの老婆が選ばせていただきましょう。そうですね……贄姫様はまるで雪のような白肌に同じく純白の美しい御髪をなさっておいでです。ですから、淡い優しい色の着物がお似合いになりそうですね」
梅が手に取ったものは、薄桃色を基調にして桜の花をあしらった小袖だった。生地に所狭しと咲き誇る花々の刺繍は、花畑のように華やかだ。色打掛よりも俄然動きやすい服装に花緒は内心ほっとする。今まで慣れない打掛姿で体が強張っていたのだ。
花緒は梅にそっと微笑みかける。
「素晴らしいお着物ですね。私などにはもったいないお品で気が引けてしまいます」
「桜河様が贄姫様にとお揃えになった物ですので、ぜひお召しになってくださいな。今着ていらっしゃる白の打掛はこちらでお預かりさせていただきますね」
梅が花緒の纏っている着物に目をやる。泉水家から『常世』へやって来るまでずっと身に着けていた物だ。土汚れが付着してしまっていた。
梅が僅かに目を見開く。
「まあ! こちらのお着物、よく拝見すると生地に青海波柄の紋様が入っておりますね。銀色ですから光の加減では見えづらいのですが、それが反って控えめで上品でございますね。上質な絹で仕立てられておるようです」
「そう、なのですか? 父に渡されるままに着てまいった物なのですが、恥ずかしながら着物について浅薄なもので……」
「贄姫様が『現世』からお召しになられたお着物です、大切に預からせていただきますね」
梅は目尻に皺を刻んで微笑む。おそらく着物を預かり、土汚れを綺麗に落としてくれる心づもりなのだろう。
花緒は、自分の持ち物を大切に扱ってもらえることが、まるで自分自身を大切にしてもらえているようで嬉しかった。梅の優しさがじんわりと胸に沁みる。
梅は明るく微笑んで両手を叩く。
「さあ、贄姫様! まずは湯殿で湯浴みを済ませてしまいましょう。桜河様より、まず数日間は贄姫様のお身体を休めるようにと仰せつかっております。湯浴みが終わりましたら、お部屋でゆっくりとお食事にいたしましょう」
「あ、は、はい……。何から何まで、ご配慮ありがとうございます」
花緒はお礼を伝えながらも、内心は混乱していた。
自分は贄姫だ。『常世』に着いたらすぐにでも桜河に喰われるものだと思っていた。それなのに一向に命を差し出すようなこともなく。むしろ手厚く歓迎されている。
(もっと身体の健康を取り戻してから喰らうということなのかしら……?)
わからない。けれども、自分に選択権などないのだ。今は言われるままに従うしかないのかもしれない。
梅に背中を押されながら、花緒は屋敷内の湯殿に向かう。
桜河の屋敷での花緒の日常が、始まろうとしていた。
「こちらが贄姫様のお部屋でございます」
「――――!」
目の前に広がった室内の光景に、花緒は目を見開いた。
部屋の中心部には立派な螺鈿細工の脇息と文机があり、書き物用にと硯と紙が置かれている。部屋の隅には金の屏風や衣桁が置かれ、黒唐草の施された衣桁には金織物の上等な振袖が掛けられていた。行燈の灯りが部屋を仄暗く照らしている。お香が焚き染められているのか、白檀の甘い花のような香りに満たされていた。
お香などとても高価なものだ。泉水家では珊瑚が好んでよく使っていたが、自分の離れの部屋になど焚かれたことはなく、高貴な雰囲気に圧倒されてしまう。
たじろいで足を踏み入れられない花緒に、梅は目尻に皺を刻んで笑んだ。
「贄姫様はご遠慮深くていらっしゃいますね。こちらのお部屋の調度品は、すべて桜河様が選ばれた物なのです。贄姫様のお気に召すと良いのですが」
「え、く、黒蛇様が、ですか?」
「はい。贄姫様にお喜びいただけるようにと」
梅は、調度品を選定する桜河の様子を思い起こしたのか楽しそうに微笑んでいる。
しかし花緒は気が気でなくて仕方なかった。
(ただの贄に、ここまでするものなの……?)
部屋に置かれている家財は上等な品ばかりだ。おそらく相当な金額が掛かってしまっただろう。贄姫である自分に、なぜこんなにも良くしてもらえるのか、戸惑うばかりなのだ。
(なんだかいたたまれない……。けれども、ここに突っ立っているほうがよほど迷惑になってしまうかしら)
花緒は勇気を奮い立たせると、そろりそろりと部屋に足を踏み入れる。畳敷きの室内からは、白檀だけでなく仄かにい草の優しい匂いも香っていた。
さっそくとばかりに、梅が部屋にあった桐箪笥の引き出しを開ける。
「さあさあ、贄姫様。こちらからお好きな着物をお選びくださいませ。夕餉の前に湯浴みとお着替えを済ませてしまいましょう」
「ありがとうございます。わあ、こんなにたくさん……!」
桐箪笥の引き出しを覗き込むと、色とりどりの着物が敷き詰められていた。箪笥はこれ一つではなく両隣に複数置かれており、おそらく帯や髪飾り等の小物が収納されているのだろう。泉水家では着古したボロの単衣しか与えられていなかったため、自分で着物を選ぶということに戸惑ってしまう。
梅はそんな花緒を気遣うように見つめる。
「それでは、僭越ながらこの老婆が選ばせていただきましょう。そうですね……贄姫様はまるで雪のような白肌に同じく純白の美しい御髪をなさっておいでです。ですから、淡い優しい色の着物がお似合いになりそうですね」
梅が手に取ったものは、薄桃色を基調にして桜の花をあしらった小袖だった。生地に所狭しと咲き誇る花々の刺繍は、花畑のように華やかだ。色打掛よりも俄然動きやすい服装に花緒は内心ほっとする。今まで慣れない打掛姿で体が強張っていたのだ。
花緒は梅にそっと微笑みかける。
「素晴らしいお着物ですね。私などにはもったいないお品で気が引けてしまいます」
「桜河様が贄姫様にとお揃えになった物ですので、ぜひお召しになってくださいな。今着ていらっしゃる白の打掛はこちらでお預かりさせていただきますね」
梅が花緒の纏っている着物に目をやる。泉水家から『常世』へやって来るまでずっと身に着けていた物だ。土汚れが付着してしまっていた。
梅が僅かに目を見開く。
「まあ! こちらのお着物、よく拝見すると生地に青海波柄の紋様が入っておりますね。銀色ですから光の加減では見えづらいのですが、それが反って控えめで上品でございますね。上質な絹で仕立てられておるようです」
「そう、なのですか? 父に渡されるままに着てまいった物なのですが、恥ずかしながら着物について浅薄なもので……」
「贄姫様が『現世』からお召しになられたお着物です、大切に預からせていただきますね」
梅は目尻に皺を刻んで微笑む。おそらく着物を預かり、土汚れを綺麗に落としてくれる心づもりなのだろう。
花緒は、自分の持ち物を大切に扱ってもらえることが、まるで自分自身を大切にしてもらえているようで嬉しかった。梅の優しさがじんわりと胸に沁みる。
梅は明るく微笑んで両手を叩く。
「さあ、贄姫様! まずは湯殿で湯浴みを済ませてしまいましょう。桜河様より、まず数日間は贄姫様のお身体を休めるようにと仰せつかっております。湯浴みが終わりましたら、お部屋でゆっくりとお食事にいたしましょう」
「あ、は、はい……。何から何まで、ご配慮ありがとうございます」
花緒はお礼を伝えながらも、内心は混乱していた。
自分は贄姫だ。『常世』に着いたらすぐにでも桜河に喰われるものだと思っていた。それなのに一向に命を差し出すようなこともなく。むしろ手厚く歓迎されている。
(もっと身体の健康を取り戻してから喰らうということなのかしら……?)
わからない。けれども、自分に選択権などないのだ。今は言われるままに従うしかないのかもしれない。
梅に背中を押されながら、花緒は屋敷内の湯殿に向かう。
桜河の屋敷での花緒の日常が、始まろうとしていた。

