破れた障子から覗く月明り。その青白い光を見上げて、花緒は目を細めた。
薄暗い離れの部屋には、自分以外に人影はない。いつもの孤独な夜だった。
時は日本文化と西洋文化が入り混じる和洋折衷の時代。
まだ人と妖の住む土地の境界が曖昧だった頃――。
帝都の華族・泉水家は、この地方一帯を治める大地主だ。その名家の長女として生まれた花緒。彼女が八歳を迎えた時、彼女の身体に異変が訪れた。彼女の首元に桜の痣が咲いたのだ。
それは、妖の王――『黒蛇』の贄姫となる印だった。
(この痣が現れてから、もう十年か……)
花緒は今年、齢十八歳になる。ちょうど贄姫として妖の王に捧げられる年齢だ。痣が現れてからの十年は辛かった。幼い頃は母親も、他の家族も花緒を愛し、慈しんで育ててくれていた。けれども八歳で痣が現れて贄姫となってからは、花緒は冷遇されていた。
贄姫の血は妖魔にとっては万病を癒す万能薬だと言われている。けれども人にとっては毒物なのだ。
花緒は一度、使用人によってわざと過度に熱された茶を受け取り、それを取り落として湯呑茶碗を割ったことがあった。その破片でわずかに指先を切り、割れた茶碗に血が付着してしまった。それを見た使用人が顔をしかめ、これ見よがしに面倒そうに破片をかき集めた時だった。花緒の血に触れた直後、使用人は全身から血を噴き出して無残な姿で亡くなったのである。まるで毒物を取り込んで拒絶反応を示したかのように。
その経緯もあり、花緒は家族や屋敷の者達から化け物扱いされていた。八歳までは屋敷の母屋で何不自由なく暮らしていたけれども、痣が現れてからは離れの粗末な部屋に軟禁された生活を送っている。自分はここで、妖の王に喰われる刻を待つだけなのだ。
妖の王に贄姫として捧げられる刻――それが贄姫の血を持つ娘が十八歳となる時だった。そして花緒は今日、十八の誕生日を迎えたのだ。
「――……明日で、全部終わる」
もう一度、月夜を見上げる。月だけは、いつも変わらずに空から花緒を見守ってくれていた。月を見上げるこの時間だけが、花緒にとって日課であり安らぎの時間だった。
そのとき、さぁ……と夜風が吹き抜けた。風に乗って桜の花びらが舞う。
「夜桜……?」
薄闇の中、花緒は驚いて明かり取りの窓を見上げる。連日のように屋根を叩いた雨音がぱたりと止み、長引いた黴雨の終わりを感じる初夏の季節だ。何処かで季節外れの桜が咲いているのだろうか……。
小窓は自分の頭よりもうんと上にある。確かめようにも、窓を覗くことさえ難しい。
この檻のような生活では満足に日の光が浴びられず、花緒の肌は病的に青白かった。さらに贄の痣が現れてからというもの、元々は黒だった髪も日に日に色を失い、雪のように白くなっている。花緒は、今にも消えてしまいそうなほど全身真っ白なのだ。贄として儚く命を散らす運命を表すかのように。
明かり取りの格子の隙間から桜の花びらが一枚、花緒の膝元に舞い込んだ。
花緒は柔らかく微笑み、それを手に取る。
「ありがとう。まるで励ましに来てくれたみたいね」
明日、妖の王の贄として命を捧げる自分のことを弔ってくれるかのように。
花緒は胸もとから和紙の切れ端を取り出すと、そっと桜の花びらを包み込む。
(明日はこの花びらを持ってゆこう。お守り代わりに)
今晩、自分のもとに舞ってきたこの花びらに不思議な縁を感じていた。持っているとほっとするような、そんな気がしたのだ。
和紙にくるんだ桜の花びらを胸に、花緒は床につく。
明日は妖の王の贄として捧げられる儀式の日――。
あっという間だったような、やっとその日がやって来たような。
そんな思いを抱きながら、静かに夜は更けていった。
薄暗い離れの部屋には、自分以外に人影はない。いつもの孤独な夜だった。
時は日本文化と西洋文化が入り混じる和洋折衷の時代。
まだ人と妖の住む土地の境界が曖昧だった頃――。
帝都の華族・泉水家は、この地方一帯を治める大地主だ。その名家の長女として生まれた花緒。彼女が八歳を迎えた時、彼女の身体に異変が訪れた。彼女の首元に桜の痣が咲いたのだ。
それは、妖の王――『黒蛇』の贄姫となる印だった。
(この痣が現れてから、もう十年か……)
花緒は今年、齢十八歳になる。ちょうど贄姫として妖の王に捧げられる年齢だ。痣が現れてからの十年は辛かった。幼い頃は母親も、他の家族も花緒を愛し、慈しんで育ててくれていた。けれども八歳で痣が現れて贄姫となってからは、花緒は冷遇されていた。
贄姫の血は妖魔にとっては万病を癒す万能薬だと言われている。けれども人にとっては毒物なのだ。
花緒は一度、使用人によってわざと過度に熱された茶を受け取り、それを取り落として湯呑茶碗を割ったことがあった。その破片でわずかに指先を切り、割れた茶碗に血が付着してしまった。それを見た使用人が顔をしかめ、これ見よがしに面倒そうに破片をかき集めた時だった。花緒の血に触れた直後、使用人は全身から血を噴き出して無残な姿で亡くなったのである。まるで毒物を取り込んで拒絶反応を示したかのように。
その経緯もあり、花緒は家族や屋敷の者達から化け物扱いされていた。八歳までは屋敷の母屋で何不自由なく暮らしていたけれども、痣が現れてからは離れの粗末な部屋に軟禁された生活を送っている。自分はここで、妖の王に喰われる刻を待つだけなのだ。
妖の王に贄姫として捧げられる刻――それが贄姫の血を持つ娘が十八歳となる時だった。そして花緒は今日、十八の誕生日を迎えたのだ。
「――……明日で、全部終わる」
もう一度、月夜を見上げる。月だけは、いつも変わらずに空から花緒を見守ってくれていた。月を見上げるこの時間だけが、花緒にとって日課であり安らぎの時間だった。
そのとき、さぁ……と夜風が吹き抜けた。風に乗って桜の花びらが舞う。
「夜桜……?」
薄闇の中、花緒は驚いて明かり取りの窓を見上げる。連日のように屋根を叩いた雨音がぱたりと止み、長引いた黴雨の終わりを感じる初夏の季節だ。何処かで季節外れの桜が咲いているのだろうか……。
小窓は自分の頭よりもうんと上にある。確かめようにも、窓を覗くことさえ難しい。
この檻のような生活では満足に日の光が浴びられず、花緒の肌は病的に青白かった。さらに贄の痣が現れてからというもの、元々は黒だった髪も日に日に色を失い、雪のように白くなっている。花緒は、今にも消えてしまいそうなほど全身真っ白なのだ。贄として儚く命を散らす運命を表すかのように。
明かり取りの格子の隙間から桜の花びらが一枚、花緒の膝元に舞い込んだ。
花緒は柔らかく微笑み、それを手に取る。
「ありがとう。まるで励ましに来てくれたみたいね」
明日、妖の王の贄として命を捧げる自分のことを弔ってくれるかのように。
花緒は胸もとから和紙の切れ端を取り出すと、そっと桜の花びらを包み込む。
(明日はこの花びらを持ってゆこう。お守り代わりに)
今晩、自分のもとに舞ってきたこの花びらに不思議な縁を感じていた。持っているとほっとするような、そんな気がしたのだ。
和紙にくるんだ桜の花びらを胸に、花緒は床につく。
明日は妖の王の贄として捧げられる儀式の日――。
あっという間だったような、やっとその日がやって来たような。
そんな思いを抱きながら、静かに夜は更けていった。

