第一話『この春の風が、すこし冷たく感じるのは』

「静、隣、空いてるよ」
 矢野が席をぽん、と叩いて笑う。
 始業式のあと、二年生の新クラス――静の席は、今年も窓際だった。
 それだけで、少しほっとする。風の通り道。逃げ道のある席だ。
「よろしくお願いします、矢野くん。あ、これで“また同じクラス”って、三年連続ですっけ?」
「……いや、お前とはまだ二年目だろ?」
「……ああ、そっか。なんか、もう少し一緒にいた気がして」
 静は自分の言葉に、ほんの一瞬だけ沈黙する。
“もっと昔から知っていたような感覚”――そう思うことが、最近増えていた。

 教室には新しい顔ぶれ。
 隣の席の女子が「よろしくね」と笑う。
 すぐに名前を覚えてくれて、普通に話しかけてくれる。ありがたいことだ。

 春の午後。
 教室の窓を風がかすめる。
 ふと、視界が揺れた。
 白い砂。赤く染まる地面。
 遠くに倒れた旗。鳴り響く軍靴。
 そして、倒れ伏す味方の兵士たち。
「……っ」
 瞬間、胸が締めつけられた。
 黒板の前で話す担任の声が遠ざかる。
 まるで自分だけ別の時の流れに落ちたようだった。
 視界が滲む。息が詰まる。手が震える。
 でも、叫びも涙も出てこない。
 ──まただ。
 最近、こういう“揺れ”が増えてきていた。
 夢じゃない。
 意識が飛んだわけでもない。
 ただ、記憶の端に触れた瞬間、全身がその“戦場の皮膚感覚”を思い出してしまう。

 授業が終わったあと、矢野が心配そうに覗き込んだ。
「静、なんか今日ちょっと……顔色悪い」
「そうですか? もともと色白なので、そう見えるだけかもしれません」
「そういう冗談、言えるうちはまだ大丈夫だな」
「……うん、まだ」
 矢野には嘘がつけなかった。
“まだ”という言葉が、どれだけ頼りないものか、自分でも分かっていた。

 放課後の剣道場。
 竹刀を握ると、身体は勝手に動く。
 構え、間合い、気配、すべてがしっくりくる。
 けれど最近は、ふと“斬っている”感覚が混ざることがある。
 目の前の相手が“敵”に見えるのではなく──
“斬ってしまった誰か”と重なることがあるのだ。

「……沖田とは試合したくないなあ」
 そう言って笑った同級生の顔が、
 前世で命を奪った敵兵の表情と一瞬重なって、静は思わず竹刀を落とした。

 ──どうして、今になってこんなにも“近く”に迫ってくるんだろう。
 心の奥で、何かが目覚めようとしている。
 もう一度、過去を全部思い出せと叫んでいる。

 夜、自室でひとりになると、風の音がやけに響く。
 ページをめくる手が止まり、
 ふと、机に伏せた目を閉じる。
 そして、風の向こう側へ、耳を澄ます。
“あの頃”の、血と砂の匂いがする方へ。

 ──まだ、僕は誰にも話していない。
 矢野にも。
 母にも。
 誰にも。
「僕がもう一度、“鬼”に戻ってしまうかもしれないことを」
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第二話『黙って笑うその子が、何かを隠している気がして』(保健室の先生・母 視点)

1. 保健室の先生・佐野視点
 春になると、保健室は少しだけ忙しくなる。
 新学期の緊張、部活の再始動、そして気温差。
 生徒たちは、身体より先に心が悲鳴をあげる。
 けれど──沖田静は、そういう子ではない。
 少なくとも、見た目には。
 彼は決して愚痴らない。
 倒れても、我慢して我慢して、限界になってからようやくやってくる。
 それが、この春、彼が保健室を訪れた二度目の午後だった。

「……ちょっとだけ、休んでいいですか」
 声はいつもの調子だった。
 柔らかく、丁寧で、少しだけ曖昧な口調。
 でも、その背中はほんの少しだけ丸まっていた。
 ベッドに腰掛けると、制服のボタンを指でなぞりながら、静はぽつりと笑った。
「なんだか、時々……夢と現実の境目が曖昧になるんです」
 それは、冗談とも取れる言い方だった。
 でも私は、そう受け取らなかった。
 目の奥が、眠る前のように霞んでいた。
 誰かの名を、叫びたいけれど飲み込んだような顔。

「沖田くん。夢っていうのはね、心の奥が声をあげてるってこと。何かを忘れたくないか、何かに謝りたいか、何かから逃げたいか。どれかよ」
 彼は一瞬、目を伏せた。
 そして小さく呟く。
「……忘れていたものに、呼ばれているのかもしれませんね」

 その日、ベッドでまどろむ彼の眉間が、一瞬だけ険しくなった。
 名前を呼びそうになる唇。
 震えるまつげ。
 私は、その額にそっと手を置いた。
 少し冷たい。けど、少し熱がある。
「……思い出すと、痛くなるものもあるのよ」
 その言葉が届いたかどうかはわからない。
 でも、彼の呼吸がすこしだけ楽になった気がした。

 帰り際、彼は丁寧に頭を下げたあと、扉の前でふと足を止めた。
「先生は、もし、ある日突然自分が“ろくでもない人間”だったってわかったら……どうしますか?」
 その問いに、私はしばらく沈黙してから、答えた。
「……ろくでもなかったとしても、今の君がちゃんと痛みを知ってるなら、それはもう、“やり直そうとしてる人間”なのよ」
 静は、微笑んだ。
 その笑顔が、泣き出しそうなほど、寂しかった。
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2. 沖田 静の母視点
 息子が変わったのは──たぶん、中学二年の夏の終わり頃からだった。
 ほんの些細なこと。
 食事のとき、ふと手を止めて窓の外を見る時間が増えた。
 テレビを見て笑っていても、ふと無表情に戻ることがあった。
 寝言を言うようになったのも、その頃だった。
 最初ははっきりしなかった。
 けれどある夜、私は確かに聞いた。
「……やめろ……俺が止める……」
 その声に、私はキッチンで洗い物をする手を止めた。

 あの子は、昔からよく夢を見ていた。
 戦う夢。誰かを守ろうとする夢。
 誰かに剣を向け、そしてその誰かを背負おうとする夢。
 私はずっと、それが“ただの空想”だと思っていた。
 けれど、あの日から、何かが違った。
“思い出している”ような夢。

 高校生になっても、その傾向は消えなかった。
 ある朝、お弁当を渡そうとしたら、彼は手を止めてこう言った。
「お母さん、僕って……今、ちゃんとした人間になれてる?」
 私は思わず手を握った。
「静。あなたは、ちゃんと“今”を生きてるわよ」
 そう言ったときの、彼の表情が忘れられない。
 ほっとしていた。
 でも、それは“安心”ではなく、“赦された”ような顔だった。

 私は知っている。
 静が、何か“重いもの”をひとりで抱えていることを。
 だけどそれが、遠い過去の何であれ。
 あの子は、あの子だ。
 生まれた日、泣きながらこの腕にしがみついた、あのときのまま。
 だから私は、あの子がどれだけ遠い過去に怯えても、こう言い続けるつもりだ。
「あなたが、あなたでいてくれるなら、それだけでいいのよ」
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第三話 『夜風、まだ肌寒く』

 部屋の灯りを落としたあとは、
 時計の針の音がやけに響く。
 日付をまたいでしばらく、
 沖田静はベッドの上で目を閉じていた。
 もう、何日もこんな感じだった。
 眠ってしまえば、嫌でも“向こう側”に引っ張られる。
 見覚えのある風景。
 見覚えのない叫び声。
 斬る感触。血のにおい。焼ける木の音。
 覚えてしまったら、終わりだとわかっている。
 それでも、夢はやってくる。

「──……ッ」
 その夜も、静は急に身体を起こした。
 背中に冷たい汗。
 息が詰まるような感覚。
 布団の中、上を向いても苦しいままだったから、
 思わずベッドから抜け出し、窓を開けて外の風を吸った。
 夜風が、ひやりと首筋を撫でる。
 けれど熱は引かない。

 何が見えたのかは覚えていない。
 ただ、目が覚めたとき、自分が誰かの名前を喉の奥で呼んでいたような気がした。
 喉が渇いていた。
 胃のあたりが重くて、吐き気とまではいかない鈍さが残っていた。
 何より――
 気づけば、目尻に、涙がひとすじ伝っていた。

(……またか)
 自分で拭おうとした指が、ほんの少し震えている。
 この涙は、身体が勝手に反応しているだけ。生理的な涙だ。
 もう慣れてきた。
 息が苦しくなるのも、視界がかすむのも、
 全部“あの頃”の身体の記憶だ。
 ただ、それだけだ。

(……明日、どうしよう)
 そう考えると自然に、矢野の顔が浮かんだ。
 きっと、あいつは気づくだろう。
 でも、言わないだろう。
 気づいたうえで、静かに隣に立っている。
 そういう奴だった。

 ベッドに戻り、目を閉じる。
 何もかもを忘れたような呼吸が、だんだん落ち着いてくる。

「……眠れなくても、別に、いいか」
 小さく呟いて、目を閉じた。
 しばらくして、静かな眠気が訪れた。

 部屋の中には、もう音がない。
 ただ、どこか遠くから吹いてきた夜風が、
 カーテンをやさしく揺らしていた。
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第四話『静かすぎるその横顔に、声をかけそびれた日』(矢野視点)

 クラスの窓際、二列目の席。
 今日も沖田は、何気ない顔でノートを取っていた。
 前から思ってたけど、あいつのノートって字がやたら綺麗だ。
 無駄がなくて、整理されてて、でもどこか余白が多い。
 空白の部分に“思考”を置いてるみたいな、不思議な間がある。

 春の授業が本格的に始まって数日。
 二年になってクラスが変わったぶん、周りの生徒が“沖田静”を再び新鮮な目で見ているのがわかる。
「背が高くてスタイルいいよね」
「剣道部だよね? 全国出たんだっけ?」
「顔だけじゃなくて、声も落ち着いてる……“古風な王子様”って感じ?」
 声をかけられれば、静は誰にでも丁寧に笑って答える。
 でも、矢野は知っていた。
 ──それが“仮面”であることを。

 ある日の昼休み。
「……なあ、静」
「はい?」
「最近、夜ちゃんと寝れてるか?」
 唐突に聞いた俺の言葉に、静は一瞬だけペンを止めた。
 でもすぐに、いつもの調子で返してきた。
「やだなぁ。僕は健康ですよ」
「じゃあ、なんでお前……この間、屋上で立ったまま少し揺れてた?」
 静は何かを考えるように、軽く目を伏せた。
「……風が強かったから、ですかね」
「無理してんだろ」
「……矢野くん。僕はまだ“倒れるほどじゃない”ですから、……多分」
 言いながら、彼はいつものように薄く笑った。

 倒れそうだけど、倒れない。
 痛そうだけど、痛みを言わない。
 それが“沖田静”だった。

 ある日、授業中に突然静が目を伏せた。
 教室の空気が少しこもっていて、暑かったのもあるかもしれない。
 でも、俺は気づいた。
 彼の手が、机の下で微かに震えていたことに。
「……だいじょうぶか?」
「ええ。少し、目がチカチカしただけです」
 それ以上は聞けなかった。
 聞けば、また“いつもの笑顔”でかわされるとわかっていたから。

 放課後、帰り道のコンビニの前で、静が小さく頭を振った。
「大丈夫か?」
「……すぐ治ります」
 俺は黙って、ペットボトルの麦茶を2本買った。
「一本やる」
「ありがとうございます」
「……あのさ」
「?」
「ほんとになんでもなかったら、それでいい。でも、なんかあったら……黙ってんじゃねぇよ」
 そう言った俺の声に、静は少しだけ間を置いた。
「……矢野くん」
「ん」
「僕が“黙ってる”って思う時点で、たぶん僕、下手なんでしょうね」
「何がだよ」
「隠し事。……じゃなくて、“弱音の隠し方”です」
 そう言って笑った静の笑顔は、
 いつもよりほんの少しだけ、疲れて見えた。

 ──あいつは、過去の罪の意識を抱えてる。
 間違いない。
 でもそれを、今すぐ聞き出すことはできない。
 きっと、自分で“まだ大丈夫”と思っているうちは。

 だったら、俺にできることは一つしかない。
 そばにいること。
 言葉にしなくても、“お前の味方”って顔でそばに立ってること。
 それが、今できる唯一の“戦い方”だと思った。
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第五話『たしかに此処にいた、その魂が遠くへ行った午後』(矢野視点)

 その日は、午後の体育のあとだった。
 静が少し遅れて教室に戻ってきたとき、いつもより動きがぎこちなかったのを覚えている。
 汗をかいた髪が額に張りついていたし、喉元のシャツのボタンもひとつ外れていた。
 隣の席に座ると、静は少しだけ笑って言った。
「……まだ春なのに、この暑さは参りますね」
 それだけ。
 ほんの些細な会話。
 でも俺にはわかった。
 その笑顔が、“息が上がっているのを悟らせないためのもの”だってことくらい。

 次の授業。英語の時間。
 先生の声が遠くで響くなか、俺はちらちらと静の横顔を見ていた。
 ノートを取る手。
 筆記体の綺麗な走り。
 でも、何かがおかしい。
 ──ページが途中で止まっている。
 手は止まっているのに、視線は黒板に向けたまま、まばたきもせず。
「……おい、静?」
 呼びかけたときには、もう彼の瞳の焦点は合っていなかった。

 ゆっくりと体が前のめりになって、机に突っ伏すように崩れた。
 音を立てずに。
 まるで重力を思い出したみたいに。
 俺は慌てて手を伸ばした。
「静──!」
 教師がこちらを向く。周囲がざわつき出す。
 でも、そんなのどうでもよかった。

 そのまま、彼の身体を支えて廊下に出た。
 腕を肩に回し、何も言わない彼を運ぶ。
 力が抜けていた。完全に意識を失っている。
 だけど──俺にはわかった。
 ただ“眠ってる”んじゃない。
 あれは、“どこか別の場所”に意識が引っ張られている。

 保健室に着いたとき、養護教諭の佐野先生がすぐベッドを指示してくれた。
 静を寝かせると、俺の手のひらに、ほんの少しの冷や汗が残った。
「倒れた?」
「……意識、飛んでます。けど……なんというか……」
 俺は言葉を選びあぐねた。
“記憶の中に引きずり込まれてる”なんて、簡単には言えなかった。
 でも佐野先生は、それ以上深く聞かなかった。
 額に冷却シートを当てながら、静かな声で言った。
「この子、最近……眠れてないみたいね。夢、見てる顔をしてる」

 ベッドの上。
 静の眉間が、一瞬だけわずかに歪んだ。
 手が布を握る。
 誰かの名前を呼びかけるように、唇が震えた。
 けれど、声は出なかった。

(今、こいつは……あっちにいる)
 そう思った瞬間、胸がざわついた。
 静がどんな光景を見ているのか。
 何を感じているのか。
 何に追われて、何を許せずにいるのか。
 知りたいと思った。
 でも、口に出すには重すぎた。

 しばらくして、静がゆっくり目を開けた。
「……矢野くん……?」
「おう。戻ってきたか」
「……すみません……また、少しだけ、遠くへ……」
 彼はそう言って、小さく息を吐いた。
 苦しそうではない。
 でも明らかに、遠い場所を見てきた人間の顔だった。

「……お前、さ」
「はい?」
「どこ行ってたんだよ」
 静は少し笑った。
「……秘密、です」

 その笑みが、俺のなかにひとつの“確信”を落とした。
 ──沖田静は、“戻ってきてる”。
 着実に、取り戻しかけている。
 俺の知らない、けど知っている。その誰かだった頃の自分を
 少しずつ、確かに。
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第六話『本能の刃は、まだ鞘に収まっていなかった』

 矢野蓮は、偶然だったと、あとから何度も思い返すことになる。
 その日、たまたま教室にスマホを忘れて校舎に戻った。
 ちょうど中庭の脇を通ったとき、声が聞こえた。
「やめろって言ってんだろ、離せよ!」
 振り向くと、制服のスカートの裾をつかまれている女子生徒と、
 明らかに他校のヤンキー数人。
 ──七、八人か。明らかに多い。
 ナメられてんのかこの学校。
 とにかく侵入者たちは気が大きくなっている様子だった。
 矢野は躊躇しなかった。

「おい」
 声をかけた瞬間、全員の目がこちらに向いた。
「離してやれ。他校の生徒だろ? ここにいる正当な理由もなさそうだ」
 その言葉に、ひとりが笑った。
「なんだてめぇ、正義の味方かよ」
「いや、通報役だよ。警察と先生どっちがいい?」
 相手がぐっと唇を噛んだその一瞬で、女子生徒の手首を引き、矢野は素早く背中に庇った。
 それが“火に油”だったらしい。
 次の瞬間、ヤンキーのひとりが矢野の肩を掴んだ。
 肘で払おうとした瞬間、もう一人が横から突っ込んできた。
 ──鈍い音がして、視界が傾いた。

「──あんたたち、そこで何してる?」
 その声が届いたのは、地面に片膝をついた矢野の耳だった。
 見覚えのある声。
 柔らかくて、でも冷たい。
“何か”を割るような音をはらんだ声だった。
 ヤンキーたちが、一斉に振り向く。
 そこに立っていたのは、沖田静だった。

「……やめといた方がいいですよ」
 その目は笑っていなかった。
 普段の穏やかさなどどこにもなく、
 ただまっすぐに、冷えた闘気だけが燃えていた。

「……うるせぇ! てめぇもぶっ飛ばされて──」
 言葉が終わる前に、沖田の体が動いた。
 踏み込み一歩、掌底が誰かの肩口に入る。
 地面に転がる音。
 残りの数人が身構えた。
 だが沖田はまったく構えず、ただ前に出た。

「僕は、剣を持ってない。
 でも、手足で間に合いますよ。何なら、口でも」
 そう言って、右手をかざす。
「どうします?」
 笑っていない笑顔。
“それ”を見て、数人が一瞬たじろいだ。
(──ああ、これが)
 矢野は思った。
(戦場の沖田静だ)
 現代という仮面の下に隠れていた“それ”が、
 今ここで、音を立てて目覚めたのを感じた。

「帰るなら今ですよ。今なら、僕はまだ“手加減”ができます」
 その言葉が、刃よりも鋭く響いた。
 数秒の沈黙。
 そして、ヤンキーたちは一人、また一人と後退りし、逃げ出した。

 矢野のところへ戻ってきた静は、しゃがみ込んで言った。
「大丈夫ですか」
「……ああ。ちょっと蹴られただけ。骨は平気」
「念のため、病院行きましょう」
「おい、静──」
「職員室、寄ってきます。そのあと、救急車呼びます。いいですね?」
 声に、いつもの柔らかさが少しだけ戻っていた。
 でも、どこか怒っているようにも見えた。
 自分に、か。
 相手に、か。
 それとも、こうなる運命そのものにか。

 矢野がもう一度だけ彼を見たとき、
 静の右手は微かに震えていた。
 それを見て、矢野は確信した。
 ──あいつは、自分で自分に“怒っている”。
 守るしかなかったことを。
 過去に、守れなかったことがあるから。
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第七話『正しさに名は要らない』

 沖田静は、職員室の扉を静かに叩いた。
 礼儀正しく。
 まるで、教室に入り損ねた生徒のように。
 けれど、その背中には一切の迷いがなかった。

「──すみません、今よろしいでしょうか」
 担任の石田先生が、顔を上げる。
「ああ……沖田。用務員さんから今話を聞いたんだが……お前は大丈夫だったのか?」
「はい。僕は無傷です。ですが、矢野くんが少し怪我をしていて……今、駆け付けた生徒たちに頼んで保健室に連れて行ってもらっています。これから、念のために病院にも付き添います」
「……そうか。詳細を聞かせてくれるか?」
 静は、わずかな躊躇もなく答えた。
 すべてを。
 自分が何を見て、どう介入し、何をしたのか。
 誰を傷つけて、誰を助けたのか。
 声のトーンは落ち着いていた。
 だが、その語り口の中に、にじむものがあった。
“判断の重さ”を知っている者の、静かな語り。

 報告を終えると、石田先生はしばらく沈黙した。
 そしてふと、笑みのようなものを浮かべた。
「……冷静だな。普通の高校生なら動転してもおかしくない場面だが」
 静は小さく頭を下げた。
「失礼します。あとで顛末書、書かせてください」

 職員室を出ると、廊下にはすでに噂が飛び交っていた。
 ──“沖田先輩がヤンキー八人を睨みだけで退けた”
 ──“拳で語ったらしい”
 ──“沖田先輩ってやばい人だったの?”
 ──“いや、あれは正義だろ”
 ──“静先輩、惚れた”
 彼の名が、風のように広がっていた。

 翌朝、教室に入った瞬間、静は一斉に視線を集めた。
 目立つことを嫌う彼にとって、それはあまりに不快な視線だったはずなのに、
 彼はただ、いつもの調子で微笑んだ。
「おはようございます」
 誰に向けても、等しく柔らかい声。
 けれど、席に着くまでのわずかな歩きの間。
 足音を消すように静かだった。

「処分とか、ないんだってさ」
 そう教えてくれたのは、生徒会に近い女子の一人だった。
「顧問の先生たちも、“正当防衛”って。
しかも、あんなに冷静に行動してくれたからって、逆に評価されてるって噂」
 静は、苦笑した。

 その日の昼休み。
 矢野が松葉づえで現れると、教室は一気にざわついた。
「マジであれ、ヒーローじゃん……」
「矢野くん、沖田先輩と仲いいんでしょ?」
「ガチで惚れた」
「写真撮ってたやついないの?」
 静はすこしだけうつむいた。
 ──自分が恐れられると思っていた。
 前世のように、近寄られず、畏怖の目を向けられ、距離を置かれると思っていた。
 でも、今回はそうじゃなかった。
“暴力”ではなく、“正しさ”として認識されること。
 それが、ただ少しだけ、怖かった。

 昼下がり。屋上。
 静はひとり、風を受けながら空を見上げていた。
「……これが、“正義”ってやつなら」
 ぼそりと呟いた言葉が、風に消えた。
「本当に、“正義”って名乗っていいんですかね、矢野くん」
 気づけば隣にいた矢野が、肩をすくめた。
「正義に名乗りは要らねぇよ」
 静は、ほんの一瞬だけ笑った。
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第八話『言葉にしない誠実』

 放課後の図書室にて、沖田静は一枚の便箋に向かっていた。
 担任から言われたわけではない。
 処分は不問になった。
 それでも彼は、自ら進んで顛末書を書くと申し出た。
 それが、彼の中にある「けじめ」の形だった。

 便箋には罫線があったが、静の字はその枠からわずかに外れることがあった。
“きっちり”よりも“丁寧”を優先したような書き方だった。
「二〇二×年四月十八日、午後三時過ぎ。中庭付近にて、他校の生徒八名による暴力行為に遭遇──」
 文章は簡潔だった。
 だが、その一文一文に“責任”の感触がにじんでいた。
「──本来であれば、教員の介入を仰ぐべき場面でしたが、現場の緊急性と判断し、即時対応に至りました」
(言い訳ではなく、経緯の説明)
(正当防衛ではなく、抑制の誓い)
(名誉でも後悔でもなく、“在り方”の報告)
 そんな、彼なりの答え。

 顛末書を書き終えたあと、静は図書室を出て、まっすぐ保健室へ向かった。
 ノックのあと、ドアを開けると、いつもの佐野先生が、カルテにペンを走らせていた。
「来たわね。今日は何かあったの?」
「いえ。ただ、お礼と報告に。……遅くなりましたが」
「あの件の?」
「はい」
 静は短く息をついたあと、カーテン越しに並ぶ空のベッドを見つめた。
「矢野くん、今日も“あのとき”の話をしませんでした。……それが、ありがたかったです」
「あなたが言ってくれるまで、彼は待ってるのね」
「……僕は、まだうまく話せないんです。全部、うまく言葉にするには、“今”の僕じゃ足りない気がして」
 佐野先生は笑わなかった。
 ただ、彼の言葉に一つだけ答えた。
「じゃあ、その分、ちゃんと眠りなさい。言葉は夢の底で育つものよ」
 静は、目を伏せて小さく笑った。
「努力します」

 その夜、自宅に戻ると、リビングには母親がいた。
 食卓の上には、好きな煮物と、豆腐入りの味噌汁。
 そして、何も聞かずに出された白湯。
「……ありがとう」
「大丈夫だったの?」
 問いではなく、確認のような声。
 静は、少しの間を置いてから頷いた。
「うん。僕は、僕なりに」
 母はそれ以上何も聞かなかった。
 けれど、その手元の湯飲みが、少しだけ震えていたことに、静は気づいた。

 夜。自室のベッド。
 電気を落とす前、静は机の引き出しにそっと顛末書の写しを仕舞った。
 それは、提出するためではなく、
 いつか“本当に話せる日”までの、証のようなものだった。

 眠りにつくまでのわずかな時間、彼は目を閉じて思った。
 誰かを守ることと、過去に縛られることは、きっと違う。
 それでも、誰かの痛みに手を伸ばすとき、
 自分の“刃”が疼くのは、たぶんもう運命のようなものなんだ。

 布団のなかで息を吐いたとき、ようやく胸の奥が少しだけ軽くなった。
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第九話『夢の底で名前を呼んだ』

 その夜、風はなかった。
 カーテンは揺れず、時計の針が刻む音がやけに静かだった。
 沖田静は布団のなかで目を閉じ、呼吸を整えようとしていた。
 眠くもないのに、眠ろうとしている。
 理由はない。ただ、疲れていた。
 心ではなく、体の芯が、じんわりと冷えているような感覚だった。

 眠りに落ちたのがいつだったかもわからなかった。
 ただ、気づいたときには、見覚えのない場所に立っていた。
 焼けた匂いがした。
 土が焦げる匂い、風が巻き上げる灰の味。
 誰かの呻き声と、遠くから聞こえる叫び。
 足元に、折れた槍。
 踏みしめた草は、赤く、柔らかく、温かかった。

(……また、ここか)
 心のどこかが呟いた。
 初めて見るはずの風景なのに、懐かしい痛みがあった。
 手には何も握っていない。
 だが、自分が何をしていたのかはわかる。
 斬っていた。
 守るために、誰かのために、命を懸けて。
 ──それが正しかったかどうかなんて、
 あのときは、考える暇すらなかった。

 風の向こうに、倒れている兵士が見えた。
 誰かに似ていた。
 ……矢野、かもしれない。
 でも、顔はよく見えなかった。
 静は一歩、足を踏み出そうとする。
 そのとき、背中に声が響いた。
「……もう、いい」
 聞き覚えのある声だった。
 けれど、名は思い出せない。
 振り返ると、誰もいなかった。
 ただ、風の中に言葉だけが残っていた。
「お前は、生きていい」

 その瞬間、胸が締めつけられるような感覚が走った。
 何かが壊れそうで、
 何かが戻りそうで、
 けれど何一つ掴めない。
 手を伸ばしても、風に溶けていくばかり。

──パリン。
 何かが割れる音がして、静は目を覚ました。

 部屋は暗い。
 額にはうっすらと汗。
 呼吸が浅く、肩がかすかに上下していた。
 喉の奥が詰まるように痛かった。
 息を吸っても、胸が膨らまない気がした。
 ……それでも、涙は出ていなかった。
 代わりに、手がわずかに震えていた。
 そしてその手が、無意識に胸元を握っていた。

(……何を……夢に、見ていた)
 覚えていない。
 でも、確かにあった。
 名前を呼んだ。
 そんな気がする。
 でも誰の名だったかは、もう思い出せなかった。

「……矢野くん」
 小さく呟いた名が、夜のなかに沈んだ。
 やがて、落ち着きを取り戻した呼吸のなかで、
 静は目を閉じた。
(……まだだ。まだ全部は、戻ってない)
 けれど、“戻ってきている”。
 確実に、記憶の底から。

 風のない夜。
 眠るには静かすぎる夜。
 それでも彼は、もう一度目を閉じた。
“あの夢の続きを見なくてもいい”と願いながら。
________________________________________
第十話『並んでいる、それだけで』

 日曜日の午後、校舎は静かだった。
 剣道部の自主練に顔を出したあと、静はひとり武道場の隅に座っていた。
 竹刀袋に背を預け、膝を抱えるようにしてうつむいていた。
 風が、引き戸の隙間からすこしだけ入ってきて、
 床に差した光のなかで、埃が舞っている。
「……来てると思った」
 そう言ってやってきたのは、矢野だった。
 ジャージ姿のまま、額にタオルを巻いたまま、
 なんとなく、歩き慣れた道を選ぶように。

「部活、来てたんだな」
「いや、顔だけ出してた。……矢野くんは? もう足はいいんですか?」
「俺は……別に。来たかっただけだよ。足は大丈夫だ。けど、ただ、お前がここにいる気がして」
 静は小さく笑った。
「わかります?」
「……なんとなく」
 二人は、しばらく言葉を交わさず、並んで床に座った。
 竹刀立ての影が、二人のあいだに淡く揺れていた。

「なあ」
 矢野がぽつりと切り出す。
「最近……よく夢を見るんだ。
でも、夢なのか記憶なのか、わかんねぇ。
土の匂いとか、血の色とか、誰かの声とか……そういうのが、一気にぶわって来る」
 静は、目を閉じたまま、ゆっくりと頷いた。
「僕も、です」
「やっぱり」

 矢野は、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「なあ、静……お前、前のこと、覚えてる?」
 静はしばらく何も言わなかった。
 床に置いた手が、ほんの少しだけ拳を作る。
 だが、すぐにほどけた。
「……僕は、まだ言葉にできないんです」
「そっか」
「でも、たぶん……」
「たぶん?」
「呼ばれてました。戦場で。誰かに。ずっと、呼ばれていました」
 矢野はそれを聞いて、小さく息を吐いた。
「それ、俺かもな」
 静はふっと笑った。
「かもしれません。あなたの声は、よく響きますから」
「お前、たまに嫌味なほど冷静だよな」
「お互い様です」

 ふたりの間に、また静けさが戻った。
 けれど、その静けさは重くなかった。
 言葉にできない過去も、まだ完全じゃない記憶も、
 こうして“並んでいる”ということだけで、少し救われる気がした。

「矢野くん」
「ん?」
「……僕ね、今のこの時間が、たぶん一番怖いんです」
「どうして?」
「だって、幸せだから。
こんなふうに何も起きない日を、“失う”記憶ばかり見てきた気がして……
それでも、今を守りたいと思うのが、一番……苦しいんです」
 矢野は、ゆっくりと立ち上がって、隣の静に手を差し出した。
「じゃあ守ろう。ふたりで。
今が幸せって思えるうちは、ちゃんとさ」
 静はその手を見つめ、ためらいがちに、けれど確かに握った。
「……はい」

 手を離したあとも、手のひらの温度は残っていた。
 その温度を覚えておこうと、静は小さく胸の中で唱えた。
(今は、大丈夫)
(まだ、僕は大丈夫)

 外では夕陽が差していた。
 二人の影は長く、武道場の床を静かに這っていった。
________________________________________
(第三部・完)
第三部:番外編(前世回想編Ⅱ)
【前世回想編】第一話(兄弟子の視点)
『花が咲く前の音』
 俺があいつに初めて出会ったのは、春のはじめだった。
 あの年は、雪解けが遅れていて、道場の床板まで湿気がしみていた。
 師範の「もうすぐ、ちいせぇのが来るぞ」という言葉に、正直、期待なんてしていなかった。新入りの子どもなど、長くて三日で泣いて逃げる。そんなのばかりだったからだ。
 でも、その子は違った。
 もらった名前は──「静(しずか)」
 男の子にしては、風変わりな名前だと思ったが、本人の姿を見て妙に納得してしまった。
 静かだった。というより、弟子が連れてきたということだったから、言葉を知らないのかもしれない。最初の頃に限っては無口、一言も声を発しなかった。息をひそめるようにして空気の隅に立っている。
 小さな体に、はにかみも怯えもない。ただ、いる。それだけなのに、何か、重さがあった。

 最初に竹刀を持たせたとき、軽く握ったその手が、まるで前に何度もそれを扱ってきたような、そんな錯覚を覚えた。
 打ち方の基本を教える前に、すでに“構え”ができていた。
 でもその構えは、どこか歪で危なっかしかった。誰かの真似でもなく、自然に体に染み込んだような……野生のような剣だった。
「その構え、誰に教わった?」
 俺がそう訊いたとき、静は小さく首を傾げた。
「……夢の中で、誰かが教えてくれた」
「はあ?」
「でも、たぶん本当は……自分で思いついたんだと思います」
 子どもってのは、ときに妙なことを言う。
 けれど、あの子は嘘をついているようには見えなかった。
 冗談も、媚びも、見栄もなかった。あまりに真っすぐで、だからかえって怖かった。

 静はとにかく、よく見ていた。
 誰の稽古でも目を離さず、疲れた様子も見せずに、黙って見て、覚えて、真似した。
 数ヶ月もしないうちに、俺の背中を追い越してきた。
 負けたわけじゃない。
 でも、稽古で打ち合うたびに、俺の打ち込みが“斬られる”予感と一緒に跳ね返される。
 恐怖ではない。けれど、足元がすくむような感覚だった。
「静、お前、剣を振るとき、何を考えてる?」
 そう訊いたら、彼はほんの少しだけ微笑んだ。
「何も考えていません。……ただ、手が勝手に動くだけで」
「それって……いいことなのか?」
「さあ。いいことか悪いことか、まだわかりません」
 おそらく五つにも満たない子どものくせに、達観しすぎていた。
 それでいて、ひどく繊細だった。

 ある日、道場の裏庭で、誰にも見られていないと思っていたのだろう。
 静が、ぼんやりと空を見上げていた。
 剣の型でもなく、稽古でもない、不器用な手の動きで、風の流れを追うように掌を動かしていた。
 まるで、何かを確かめるように。
 何か、大切なものを思い出そうとしているように。

 ……あの頃の静は、まだ“剣士”じゃなかった。
 斬るための剣ではなく、“手に入れてしまっただけの剣”を持つ子どもだった。
 優しかった。静かだった。
 でも、どこか遠くを見ていた。
 俺はあのときから、ずっとわかってたのかもしれない。
 あいつは、きっと普通には生きられない。
 誰よりも早く強くなって、誰よりも早く戦場に出て、
 そして、俺の知らない場所で──“何か”を失う。

 だからこそ。
 いまでも時々夢に見る。
 竹刀を構えるあの小さな背中。
 名を呼んでも振り返らない、ひとりきりの“静”の姿を。

(──あの子の、咲く前の音を。俺は、聞いていた気がする)

【つづく】
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【回想編】第二話(道場の師範の視点)
『剣を知らずに剣を持つ子』
 あの子が道場に来たとき、私はもう若くなかった。
 戦の記憶も、血の臭いも、忘れたとは言わないが、なるべく思い出さないようにしていた。
 年をとって、ようやく穏やかな日々が手に入り、教えることで人を育てる日々に救われていた。
 そんなある日だった。
 春の風に乗って、小さな男の子が道場の戸をくぐった。
 名前は──静(しずか)。名も言葉も持たない彼に、私がそう名付けた。

 誰もが最初にその名を聞いたとき、女の子と間違える。
 けれど、実物を見た瞬間に訂正するのだ。
 あの子は、まるで音のしない刀のようだった。
 目立たない。
 声も小さい。
 笑わない。
 けれど、空気の中に“線”が引かれる。
 彼が通ったあとは、誰もふざけた声を出さなくなる。
 そんな子だった。

 私が教えるまでもなかった。
 型も、足運びも、視線の使い方も、まるで“知っている”ようにこなしていく。
 けれど、それが正しくないことも多かった。
 ――型には理由がある。
 ――美しい所作には、理と理が通っている。
 私は何度も正した。
「静、それは力任せすぎる」「その構えでは左が甘い」「それではお前が斬られる」
 そのたびに、静は頷いて修正した。
 だが……ふとしたときに、彼は“元の剣”に戻るのだ。
 それは、教本にも、流派にもない“誰かの剣”だった。

 ある晩、静が一人で型の練習をしていたとき、私はふと物陰からそれを見た。
 彼の動きは、まるで夢遊病者のようだった。
 意識があるのかどうかさえわからない。
 なのに、その剣は──怖いほど速く、正確だった。
 斬るべき相手がそこに“視えている”かのように、迷いがなかった。

 私は道場の者には言わなかったが、ある夜、ひとり酒をあおりながら、筆を取って覚え書きを残した。
「静は、誰にも教わらずに、誰かの記憶を剣にしている」
「それは、神の才ではなく──何か、もっと重いものではないか」

 ある日、静に訊いたことがある。
「お前は、何のために剣を学ぶ?」
 静は、首を傾げた。
「僕は、守るために剣を持つと思っていました。でも……ときどき、わからなくなります」
「わからなくなる?」
「剣を振るうと、……何か、心が空っぽになっていくんです。怖くなくなる。考えなくなる。気づいたら、全部“消えて”いる気がする」
 それを聞いて、私は思った。
 この子はもう、“戻れない場所”を知っている。
 たとえどれだけ稽古を積んでも、どれだけ人の情を知っても、
 この子の剣の底にあるのは、私たちのような「学び」ではない。

 静はたしかに強くなった。
 けれど、それ以上に──“遠くなった”。
 私の教えは、あの子の中の“何か”に届いていたのだろうか。
 あるいは……あの子が、“何か”から目を背けるための手段として剣を持ったのだとしたら。

 今でも、たまに思い出す。
 幼い静が、縁側の陽だまりで小鳥を眺めていた光景を。
 剣のことを忘れて、ただ風に目を細めていたその顔だけは──
 ……まだ、“子ども”だった。
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【回想編】第三話(年配の門弟の妻)
『声なき子の、声にならない日々』
 あの子が道場に来たのは、まだ春の寒さが抜けきらない頃だった。
 主人が「また新しい子が入門するらしい」と言ったとき、私は内心、少しだけ気が重かった。
 この道場は、稽古こそ厳しいが、食と寝床だけは丁寧に整えている。
 そのぶん、門下生が増えれば、私たちの手も足りなくなる。
 けれど、その日初めて見た“静”という子の姿は、そんな算段をすべて忘れさせた。
 ひどく、寂しそうな子だった。

 泣きもせず、騒ぎもせず。
 言葉は丁寧だけれど、妙に大人びていて──
「何か、足りていない子だね」
 それが、初日の彼を見た私の感想だった。
 彼はよく食べた。出されたものは全部、静かに箸をつけた。
 でも、どんなに温かい味噌汁を出しても、どんなに香ばしいご飯を炊いても、
 彼の表情に浮かれた感情は浮かばなかった。
 無口な子だったが、口に出す礼は丁寧だった。
「ありがとうございます」
「いただきます」
「ごちそうさまでした」
 それは決して機械的ではなかった。けれど──心の奥のほうで、どこか欠けていた。

 私はある日、ふと聞いてみた。
「静ちゃん、好きな食べ物はあるの?」
 彼は少しだけ考えて、答えた。
「……わからない。でも、やわらかいものが好きかもしれない」
 そのとき、私はようやく気づいた。
 この子は、おそらく……“選ぶ”という経験をしてこなかったのだと。

 ある夜、雨がひどく降っていた日。
 皆が稽古を終え、晩ご飯のあとの雑談に花を咲かせていたころ、
 静の姿が見えないことに気づいた。
 裏庭を見に行くと、あの子は縁の下にうずくまって、雨音に耳をすませていた。
「どうしたの?」
 そう訊くと、静はぽつりと言った。
「昔、こういう音を、誰かと聞いた気がして」
「……誰と?」
「わからない。顔も、名前も……でも、あたたかかった気がする」

 私はその日、台所からふかしたさつまいもを持って行って、ふたりで縁側に座った。
 静は、少し驚いたように私を見てから、受け取って小さくかじった。
「……あまい」
「そうでしょ。焼いたのも好きだけど、蒸したのは優しい味がするから」
 そのあと、あの子は小さな声で言った。
「……好き、これ」
「じゃあ明日も蒸してあげようか」
 そのときの彼の顔は、ほんのすこしだけ“子ども”に戻った。

 静ちゃんはね、誰にも迷惑をかけなかった。
 でも、誰にも寄りかからなかった。
 だから、私はあの子に「何も頼まれないまま」心配していた。

 今、あの子がどうしているかは知らない。
 でも、ときどき道場の片隅にひとりで黙って干していた小さな稽古着のことを思い出す。
 風が通ると、あの稽古着がふわりと揺れた。
 まるで、生きているように。
 あれは、あの子そのものだったのかもしれない。
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【回想編】第四話(幼なじみの少年(非剣士))
『はじめての友達は、風のにおいがした』
 俺が静に初めて会ったのは、村の外れにある小さな井戸のそばだった。
 その日も風が強くて、洗濯物がバタバタとはためいていた。
 ふと見ると、道場の袴姿の子どもが、井戸の前にしゃがみ込んでいた。
 手を水に浸して、じっと何かを見ている。
「……冷たいか?」
 声をかけたら、こっちをふり返った。
 目が、大人みたいだった。
 でも、返ってきた声は、思ったより普通だった。
「うん。……でも、気持ちいい」
 その言い方が、ちょっと面白かった。

 俺は剣道なんてやったことない。
 竹刀の音はよく聞いていたけど、道場のやつらとは話したこともなかった。
 でも静は、なんというか、誰とも違ってた。
 静かすぎるとか、偉そうとか、そういうんじゃない。
“ひとり”でいることに慣れすぎてて、それが当たり前みたいになってるような雰囲気だった。
 だからだろうな。
 気づいたら、一緒に井戸の水をすくって遊んでた。
「お前、道場の子?」
「はい」
「名前は?」
「静(しずか)です」
「へえ……女みたいな名前」
「よく言われます」
 怒るかと思ったけど、ぜんぜん気にしてなかった。

 それから、よく会うようになった。
 俺が畑仕事を手伝ってるとき、道の向こうからとことこと歩いてきたりする。
 何してるってわけでもないけど、ちょっとだけ話して、また帰ってく。
「あした、ここ来る?」
「わかりません。でも、来られたら来ます」
「来たら、あの木のところで待っててな」
「はい」
 そんな感じで、だんだん距離が近くなっていった。

 ある日、ちょっとした事件があった。
 祭りの日、俺たちは人ごみに紛れて遊んでた。
 でも俺が、足をくじいて転んだ。
 周りの大人たちは気づかなかった。
 でも、静だけが戻ってきた。
「……歩けますか?」
「ちょっと……痛い」
 すると静は、無言で背中を向けて、しゃがんだ。
「乗ってください」
「は? いや、いいよ、恥ずかしいし」
「大丈夫です。僕は、こういうときのために体を鍛えています」
「……なんだそれ」
「それっぽく聞こえるでしょう?」

 そのときは、笑った。
 あいつがそんな冗談みたいなことを言うなんて思ってなかったから。
 でも、背中はあったかかった。
 風が通る道を、二人で歩いて帰った。

 それが、最後だった。
 しばらくして、静は戦に行った。
 道場でも特に強かったらしく、上の命令で部隊に加わったと聞いた。
 俺は泣きそうになった。
 でも誰にも言わなかった。
 あいつがどこかで、もう誰にも背中を見せずに、ずっと前を向いて走ってる気がして──
 それが、すごく遠いところに行ってしまったようで、悔しかった。

 今でも井戸のそばを通ると、ふと思い出す。
「静、お前、ほんとは水の精霊とかだったんじゃないか?」
 あいつはたぶん、笑わずにこう返してくる。
「それっぽく見えますか?」
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【回想編】第五話(古参の門弟(若き頃の兄弟子たちの世代)の視点)
『剣を持たされる日』
 あの報せが届いたのは、曇天の午後だった。
 道場の柱が湿気を吸って、竹刀の音もいつもより鈍く響いていた。
 使者は軍の者だった。
 簡潔で、冷たくて、当たり前の顔で言い放った。
「沖田静。軍への召集が下った」
 一瞬、稽古が止まった。
 みな一様に、息を呑む音だけが響いていた。
 誰もが、予感していた。
 だが、口にはしなかった未来だった。

 静は黙って、目を伏せた。
 少しの間のあと、ただ「承知しました」とだけ言った。
 それが何より、怖かった。

 俺は古参の門弟として、静の世話をしたことはなかったが、剣を交えた回数なら誰よりも多かった。
 そのたびに思ったのは──「この子は、もう“こちら側”じゃない」という事実だった。
 力の差じゃない。
 剣の芯が違うのだ。
 俺たちが“こう斬る”と考えて構えるその前に、彼はすでに“結果”に手を伸ばしている。
“剣の速さ”というより、“決断の速さ”だった。
 ただ、そんな彼が唯一「時間をかける」ことがあった。
 それは、剣を収めるときだった。

 召集の翌日。
 夕方の稽古のあと、静がひとり、道場の板の上で座っていた。
 俺は黙って、隣に腰を下ろした。
 しばらく何も言わなかった。
 すると静が、不意にこんなことを言った。
「僕、ひとつだけ不安なことがあるんです」
「不安?」
「……これまでに斬ったことのないものを、斬ってしまうかもしれないことです」
「人を、ってことか」
「はい」
 静は膝の上で指を組んだまま、空気のどこにも目を向けなかった。
「だけど、剣は持ちます。選べませんから。選ばせてもらえないのが、命令なんですね」

 俺は、何も言えなかった。
 その横顔は、もうとっくに大人だった。
 でも、背中は細かった。
 まるで“斬られる側”のように、儚かった。

 翌朝、静は道場を出た。
 袴も、帯も、すべて丁寧に畳んであった。
 部屋には、彼の気配が一切残っていなかった。
 ただ、蒔置き場に置かれた一本の木片にだけ、うっすらと何かを彫った跡があった。
「お世話になりました。僕はきっと、大丈夫です」
 それが誰にも宛てられていないことが、何より彼らしかった。

 後に、人は彼を“鬼神”と呼んだ。
 敵を恐れさせ、味方からも畏れられた。
 だが、俺たちは知っている。
 あの子は、ただ“選ばなかった”。
 斬ることも、生き残ることも、望んで選んだのではない。
 ただ、進んだ。静かに。

 あの朝の背中を、俺は今でも思い出す。
 きっとあれが、“誰にも見送られずに旅立つ者”の背中だったんだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【回想編】第六話(軍医の視点)
『名簿にない命』
 戦場にいて、もっとも無力なのは、医者だ。
 人は斬られる。
 血を流す。
 喚き、のたうち、骨が砕け、肺が潰れる。
 私はそれを、縫うこともなく、ただ麻を噛ませて数を数える。
 兵士たちの名簿はある。
 年齢も、出身も、傷歴もある。
 だが、沖田静の名だけは、どこにもなかった。

 初めて彼を見たのは、前線から送られてきた小隊の交代日に、隊列の一番後ろに立っていたときだった。
 白装束に身を包んでいた。
 何かの儀式かと思った。
 だがその足取りは、生臭い現場にまったく濁されることなく、静かに、淡々と進んできた。
「彼は……」
 誰かがつぶやいた。
「“鬼神”です」

 彼が剣を抜く瞬間は、何度も目撃した。
 けれど、あまりに速くて、記録できたことはない。
 切っ先が動いたと思った瞬間、敵はもう膝を落とし、血を噴いていた。
 それは美しさなどという言葉で語れるものではなかった。
 それは……沈黙だった。

 負傷兵を運ぶとき、私はたびたび静の隣を通った。
 彼は傷ついた仲間に目を向けない。
 では冷たいのかといえば、そうでもなかった。
 一度だけ、重傷の兵の担架を持ち上げる私を手伝ったことがあった。
「……僕が持ちます」
 と、言ったその声は、戦場の音の中でもよく通った。
 妙に綺麗な発音で、ひとつひとつが丁寧だった。
 私は「君は敵を斬っていたのでは」と問いたかったが、言えなかった。
 その手のひらには、血の跡がついていて──それでも、指先は震えていたから。

 ある夜、彼が野営の外で座っているのを見かけた。
 目を閉じていた。
 まるで、風の音を聞くように。
 眠っているのかとも思ったが、近づいた私に彼は言った。
「先生、僕は……記録に残りますか?」
「記録?」
「死んだら、名前が残るのだろうかって、思ったんです。今さらですが」
 私は答えに詰まった。
 何百人の兵士が死んでいく。
 書類に残らない死が山ほどある。
 そして、沖田静。
 そもそも“存在していない”、戸籍のない彼は──名前さえ、書かれない可能性がある。
「私の覚えには、残るよ」
 そう答えたとき、彼は、ふっと微笑んだ。
「ありがとうございます」

 彼がいなくなったのは、ある激戦の翌朝だった。
 誰も死体を見ていない。
 誰も血痕をたどれなかった。
 消息を絶ったまま不明らしいという噂だけが、軍医室の隅に置かれていた。
 私は、医療名簿にそっと書いた。
【名前不詳(沖田静?)/所在不明】
 診断書も、治療記録もない。
 でも、私はその名を記した。
 あの静けさを、誰かが証言しなければいけないと思ったから。

 その名がどこにも残らなかったとしても、
 風が吹くたびに私は思い出す。
 白装束の剣士が、沈黙のまま、傷を引き受けていたことを。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【回想編】第七話(敵軍の斥候)
『目を合わせてはいけないもの』
 俺は、斥候だった。
 敵陣に忍び込み、配置と数を見て戻る──それが仕事だ。
 斥候の鉄則は三つある。
「戦わない」「目立たない」「殺されない」
 とくに“目立たない”ことは生死に直結する。
 それでも、あの日だけは──見つかってしまった。

 あれは霧の深い夜だった。
 俺は敵の中隊の動きを見に来ていたが、なぜか誰もいなかった。
「おかしい」と思った瞬間、背中が凍った。
 草が、揺れていた。
 足音はなかった。
 音も、気配も、息すらも──なのに、そこに“何か”が立っていた。
 俺は、反射的にその場に伏せた。
 剣を抜こうとも思わなかった。無理だった。
“それ”は、もう斬る構えに入っていた。
 見えたのは、白い装束。
 布が風でわずかに揺れていたが、その中心はまるで動かない。
 そして、目が合った。
 ……いや、“目が合った”と思った瞬間、もう切っ先が俺の首元にあった。
 動けなかった。
 斬られる、そう思った。
 でも──斬られなかった。

「……敵では、ないですね」
 声が、降ってきた。
 夜の中に、誰のものとも思えない静けさで。
「剣を、持っていない」
 違う。俺は腰に刀を下げていた。
 だけど、たしかにそのとき、俺は“剣を持っていない人間”として扱われていた。
 命を、見逃されたのだ。

“それ”──あの剣士は、背を向けた。
 草を分けて、まっすぐ進んでいった。
 振り向かない。斥候である俺に背を向けるということは、死角を晒すということ。
 なのに、恐ろしく隙がなかった。
 背中さえ、抜け目がなかった。

 俺は、その夜、一睡もできなかった。
 自分が生きて帰れたことも、あの剣士が“なぜか斬らなかった”ことも、理解できなかった。
 仲間に話しても誰も信じなかった。
「見逃された? ありえん」
「そんなやつ、斬られてるに決まってる」
 俺だけが、知っている。
 あの剣士は──あの“鬼神”は、ただ敵を斬るだけの化け物じゃない。
 斬るべきものと、そうでないものを、“瞬きの間”に見極める。
 ……あれは、人じゃない。
 人の形をした、“戦場そのもの”だ。

 名を聞いたのは、ずっとあとだ。
 沖田静。
 噂では、名簿にも残らず姿も見つからなかったという。
 でも俺は、知ってる。
 たしかにあの夜、そこにいた。
 剣よりも静かに、死よりも深く。
 だから、もし戦場でまたあれを見たら──俺は絶対に、目を合わせない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【回想編】第八話(友軍の新兵)
『剣は前に、声は背に』
 沖田さんと、初めて一緒に戦場に立った日を、俺は一生忘れない。
 軍に入って半年の新兵だった俺は、とにかく毎日が死と隣り合わせで、足の震えが止まらなかった。
 あの日、俺の所属する小隊は、森の奥の前哨拠点に向かっていた。
 地図には道があったはずなのに、気づけば完全に包囲されていた。
 矢が飛んできた。仲間が一人、また一人と倒れた。
 俺は腰を抜かし、その場で這いつくばった。
 立てない。剣も持てない。
 でも死にたくない──それだけだった。

「……下がってろ」
 低い声が、耳のすぐ後ろから聞こえた。
 立っていた。
 誰かが、俺の前に。
 白い衣が揺れた。
 手には、鞘に入ったままの刀。
 そして──それが抜かれた瞬間、風が変わった。

 剣のことなんか、詳しくは知らない。
 でも、あの時の一太刀は、何かが“断ち切られる”音がした。
 敵の隊列が一瞬で崩れた。
 動いているのは、沖田さんだけだった。
 誰かが言った。
「……“鬼神”だ」
 でも俺は、違うと思った。
 あれは“生きる側の剣”だった。
 俺たちの死を止めるために、前へ出てくれる人の背中だった。

 夜、傷を手当てしてもらいながら、俺は震えながら礼を言った。
「ありがとうございました……俺、死んでいたかもしれません」
 沖田さんは、いつものように静かに微笑んで、こう言った。
「あなたが無事で良かったです。それが一番、意味のあることですから」
 その声は、穏やかだった。
 血の匂いがまだ消えない戦場の夜にあって、なぜか涙が出そうになった。

 ――そして数か月後。
 最前線での大規模戦闘が終わったあと、沖田さんの姿は消えた。
 戦後、いろいろな噂が流れた。
「敵の大将を斬って、返り血で自分を見失った」
「自ら山に入って、そのまま還らなかった」
「死体は見つかっていない」

 ある日、補給部隊が山の中腹で見つけたという。
 岩陰に、白装束の切れ端と、少量の血痕。
 それから、泥に混じった足跡が一対──そこから先、ぱたりと消えていた。
 誰もそれ以上は言わなかった。
 上層部は記録を伏せ、戦死者の名簿に彼の名前は載らなかった。

 俺はその夜、こっそり崩れかけた詰所の裏で泣いた。
 仲間も、先輩も、誰も来なかったけど──それでよかった。
 あんなにも多くを背負いながら、最後まで“前に立ち続けた”人だった。
 誰にも弱さを見せず、背中で俺たちを守った人だった。
 死んだなんて思いたくなかった。
 でも、生きてるとも言えなかった。

 風が吹いた。
 あの白い衣が、もう一度どこかで揺れている気がして、俺はただ、空を見上げていた。
「……沖田さん」
 声に出した名は、風の音に溶けて消えた。
 でもきっと、どこかで、あの静かな声が返ってきた気がした。
「大丈夫ですよ。あなたが生きているなら、それが意味になる」
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【回想編】第九話(敵将)
『名もなき者の、名もなき死』
 戦の気配が薄れかけた頃、私たちの部隊は“丘の上”の敵を追い詰めていた。
 敵兵は五名足らず。
 すでに満足に動けぬ者ばかりだった。
 なかでも槍を握った少年兵は、かろうじて息をしているものの、血の海に倒れ込んでいた。
 我々は、勝ったのだ──そう確信しかけた。
 だが、そのときだった。
 小高い丘の陰から、一人の男が、静かに降りてきた。

 白装束。
 その身は既に紅く染まっていた。
 剣を手に、歩を進めるたび、地に落ちた滴が土を打つ。
 それでも、彼の動きに淀みはなかった。
 姿勢はまっすぐで、足元もぶれず、ただ静かに、我々の元へと進んできた。
「……沖田静か」
 誰かが名を呟いた。
 私は気づいていた。
 その瞬間、部隊の空気が一変したことに。
 恐怖だった。
 七十八名の兵を擁する我が部隊が、一人の男の出現によって、怯えていた。

 命じる間もなく、戦は始まった。
 それは「始まる」というより、「起きていた」と言う方が正確だ。
 彼の剣は、見えなかった。
 一閃ごとに、一人ずつが崩れていく。
 怒号も、悲鳴も、刀のぶつかる音さえもなかった。
 あったのは、風が吹くような斬撃と、血の雨だけだった。
 斬って、抜けて、振り返らず、斬り裂く。
 血脂でささらのようになった剣を捨て、死体から素早く抜き取った剣を振るう。
 七十八人のうち、六十が一瞬で沈んだ。
 残る者たちも、すでに心が折れていた。
 かろうじて息をしているような状態だった。
 当然、前に出る者などいなかった。
 私が、出た。

 彼と私の視線が交わった。
 その瞳に宿っていたものは、怒りでも、激情でもない。
 ただひとつ──「決意」だった。
 私たちは斬り合った。
 何度も剣が交差し、血が飛び、肉が裂けた。

 私の刃が、彼の左脇腹を裂いた瞬間、
 彼の刀は、私の胸を貫いていた。
 それが、同時だった。
 相打ち。

 私は、膝をついた。
 血の塊を吐きながら、なお立とうとする意識を手放せずにいた。
 そんな私に、彼は目を伏せるように視線を落とし、静かに言った。
「……充分です。もう、立たなくていい」

 私は、その目に見た。
 彼自身もまた、深手を負っていたことを。
 いや、彼は既に死を見ていた。
 己の血が止まらぬことを、とうに理解していたはずだ。
 それでも、剣を置かなかった。
 友軍を守り、この戦の先に“何も渡さない”ために。

 彼は、ふらりと背を向けた。
 私が最期の力で問うた。
「どこへ、行くつもりだ……!」
 その問いに、彼はただ一言だけ残した。
「……の、……残らない場所へ」

 その背は、やがて山の深部へと吸い込まれるように消えていった。
 赤黒く染まった白装束の背中が、木々の間に飲まれていく。
 私が目を閉じる寸前、確かに見た。
 彼が、微かに笑った瞬間を。


(視点変わって・敵軍の唯一の生き残り)

 その後──我が軍は壊滅した。
 丘の上で倒れていた敵軍の兵士たちの一人、槍の少年が目を覚ましたという。
「沖田が俺たちを守ったんだ」と、泣きながら語ったという。
 彼らの話によれば──沖田は、自分が死ぬとわかっていながら、丘を下りていった。
 たった一人で。

 のちに、猟師が山の中腹でこう言ったという。
「白い布と、鞘が落ちていた。
 だが足跡は途中で消えていた。まるで、風になったみてぇに──」

 名簿にも、報告書にも、沖田静の名は残らなかった。
 だが私は、あの夜の戦場で確かに見た。
 名を持たぬ剣士が、命の代償として、戦そのものを消し去った光景を。
 彼は、勝ったのではない。
“すべてを斬り終えた”のだ。

 それが、名もなき死だったとしても──
 その背には、言葉にできぬ覚悟が宿っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【回想編】第十話(友軍何某)
『祈りの集 ― 名を呼べぬ者たちの座』
 静が消えたあの夜から、ひと月が過ぎた。
 戦は終わり、地図の線が少しだけ動いた。
 だが、私たちにとってその勝敗などどうでもよかった。
 彼がいない。
 それだけが、確かな現実だった。

 あの日、丘の上で目覚めた俺たちは皆、立ち上がることすらできなかった。
 槍を握っていた矢野さんも、まだ意識が朦朧としていた。
 ただ、誰もが覚えていた。
 白い背中が、敵の中へと歩いて行った、その瞬間を。
「……行くなよ、静……」
 誰かが、絞り出すように言った。
 でも彼は、振り返らなかった。

 部隊の者が何人かで、山の斜面を降り、血の跡を追った。
 そこには、敵将を含む屍と、真っ赤に濡れた地面、
 そして──その先に続く、一対の足跡。
 その足跡は、山の奥深くへ向かっていた。
 誰もが、それを追った。
 だが、途中で、消えていた。

「見つかるなよ」
「名前なんて、刻まれるなよ」
「……俺らだけで、覚えていよう」
 誰かがそう言った。
 俺たちはその場で輪になり、静かに目を閉じた。
 それが、最初の“祈りの集”だった。

 月日は過ぎ、軍の帳簿には“行方不明”とだけ記され、
 上層部は戦果として処理を進めた。
“沖田静”という名は、記録には残らなかった。
 それでも、俺たちは覚えている。
 あの夜、すべての剣を受け止め、俺たちを生かした男の背中を。

 猟師の噂が流れたのは、さらに数週間後だった。
「山の岩陰に、白い布の切れ端と鞘があった。おびただしい血も。
でも、人の姿はなかった。足跡も、風に消されたようだった」

 隊の中で、静と親しかった者が言った。
「……あいつ、消えたんだよ。あれは、そういう終わり方を選ぶ奴だった」

 その夜、俺たちは再び集まった。
 あの丘の上に、小さな石をひとつずつ積み上げていく。
 何も刻まれていない石だった。
 名を刻めば、記録になる。
 墓を建てれば、死になる。
 そうじゃない。
 彼は、終わらなかった。
 消えただけだ。

「……また、剣を握れって言われたら、きっと断ると思う」
「でも、“沖田が背負った重さ”は、俺らが語らなきゃ意味がない」
「伝説じゃなくて、現実だったんだ。俺らは、生かされたんだよ」

 そして、それぞれが思い思いの場所へ戻っていった。
 一人は田舎に戻り、
 一人は寺で修行を始めた。
 一人は刀を捨て、医者になった。
 でも、あの石の山は、今も変わらずそこにある。

 名もない。
 色もない。
 ただ、静かな丘の上に、風が吹くたび音もなく崩れては、また積まれていく。

 それでいいんだ。
 誰も名前を呼ばない。
 でも、誰も忘れていない。

 ――君の死が、名もなきものであればあるほど、
 俺たちの生は、君の名を宿している。

 だから、今夜も。
 俺は静かに目を閉じて、彼の名を胸の中で呼ぶ。
 聞こえるか、沖田静。
 俺は、生きている。
 お前に生かされた俺は、今、生きている。
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【回想編 完】