ホテルの喧騒は遠のいたけれど、街灯が照らす街は賑やかで田舎にはなかった光景で慣れない。夜なのに大通りを挟んだ向かいの様子がよく見えるのは私にとって不思議だ。
 今も煌々と明るい街灯のお陰で、西洋料理店から談笑しながら出てきた男性たちが見えた。背広を着ていたからきっと食事をしながら仕事の話でもしていたのだろう。遅くまでご苦労なことで、と思ったけれど今まで仕事をしていたのは私も同じかと気がつき苦笑した。

 あれ?

 脳が理解するよりも早く、心臓がドクンと重く強烈に動いた。目が縫い付けられる。
 目が捉えたのは、背広姿の男性たちの中にいる街灯の明かりで髪が明るい茶色に見える男性。表情までは分からないけれど、他の男性たちと比べて立ち振る舞いがスマートだ。

 「見つけた」

 まさかこんなところで出会うなんて。
 呟きがぽろりと零れ落ち、心臓がドッドッドッと強く叩いて暴れ出す。目を離せずにいるとその人はふらりと集団から離れ、一人背を向けて歩き出した。

 待って。どこへ行くの。早く追いかけないと。

 大通りの向こう側に行くために駆け出す。通りを渡って、その人の背中をじっと見つめて追いかけた。

 早く、早く。急がなくては。

 だけど、一生懸命に足を動かしてもなかなか縮まらない距離に焦りが出る。そんな私の焦りをよそに、その背中は路地を曲がった。
 だめ、見失ってしまう。
 足をもつれさせながらも走ることは止めない。呼吸が浅くなり少しでも落ち着こうと、肌身離さず首に提げているロケットペンダントをぎゅっと握った。
 その背中が曲がった路地へ私も足を踏み入れる。急な薄闇に襲われ思わず足を止めた。ぶるりと背筋が粟立つ。そこは街灯の明かりが届かない細い路地裏だった。
 どこに行った? 薄闇の中、目を凝らして急ぎ足で進む。どこからか良い匂いが漂ってきた。居酒屋や食堂の裏道なのかもしれない。小さく人々の笑い声が聞こえてきて、自分だけがぽつりと浮いたような気分になる。
 このまま見つからなかったらどうしよう。やっと見つけたのに。だけど、すでに人影がない。手のひらに嫌な汗が滲む。
 刹那、甲高い悲鳴が聞こえた。

 「何?」

 鳩尾がきゅうっと縮まった。止まった足が小さく震える。
 何が起きたの? 女性の悲鳴だったような。耳の奥にぞわりと寒さを感じて、首を一度振ってから止めていた足を動かす。
 辺りを伺いながらうろうろと進むと、少し先に蔵のような木造の建物の側に黒い影が見えた。

 何かいる。

 すると偶然、雲間から月明りが差し込んだ。月明かりは影を照らしていく。影は人の形をしていた。ぐったりしたように建物にもたれて座り込んでいる。着物ではなく洋装。詠子さんが着るようなワンピース。それは女性の姿で……はっと小さく息を飲んだ。

 「だ、大丈夫ですか!?」

 反応がない。慌てて駆け寄ると、びちゃりと水分を足で踏んだ。それはどろりとしていて赤黒い。よく見ると目の前のワンピースは異様なほど赤黒く染まり、赤はじんわりとその繊維に広がっていた。

 「ひいっ!」

 両目を見開き、喉から悲鳴が漏れた。意識したとたんに血の匂いが鼻を刺激する。細かな震えが身体を襲い、呼吸が上手くできない。気が動転してじりじりと後退った。

 うそ。まさか。これって。

 脳にけたたましく警告音が響いた。

 「誰だ、そこにいるのは!」

 威圧的な野太い声と複数の靴音を耳で捉えた。反射的に振り向くと、薄闇の中からぬっと黒い制服が現れた。警官だ。

 「捕らえろ!」

 えっ、と思った時にはもう遅かった。
 警官の鍛えられた太い腕に両腕を拘束されてずるりと引きずられる。

 「心臓をやられています!」

 座り込んだ女性のもとにいた警官が声を上げ、私の目の前にいた警官が蔑むように睨んだ。

 「署まで連れていけ。犯人の可能性がある」

 頭の中が真っ白になった。

 「ち、違……っ」

 体を捩って拘束から抜け出そうとするけれど、職務で鍛えられた身体はびくともしない。

 「暴れるな。大人しくしろ」

 腹の底を這うような冷たい音でぴしゃりと言われ、身体は自由を失った。髪は乱れ、赤黒い色が跳ねた着物のまま、無理やり薄闇の路地裏を歩かされた。
 こんなことになるなんて、想像できるわけがなかった。